【自主レポート】 |
第36回宮城自治研集会 第4分科会 安全な場所・逃げる場所ってどこなの? ~防災を知ろう~ |
1995年1月17日「阪神・淡路大震災」、2004年10月23日「新潟県中越地震」、2008年6月14日「岩手・宮城内陸地震」、2011年3月11日「東日本大震災」、2014年9月27日の「御嶽山噴火」、そして、2016年4月14日「熊本地震」、私たちの記憶に残る災害は数多い。災害が発生する度に、死傷者の名前が報道され、亡くなられた人やその家族のことを思うと心苦しい気持ちになってしまう。災害から命を守る取り組みとして、「防災」や「減災」がこれほど注目を浴びている時代はなかったのではないだろうか。本レポートは、わたしたちの住む網走において、どのような災害が考えられ、どのような対策が必要なのかを過去の事例や現状の取り組みから考察する。 |
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1. はじめに
網走市は北海道の東部オホーツク海に面し、一年を通じて晴天が多く、年間の降水量・降雪量は北海道レベル、全国レベルにおいても少ない地域と言われている。また、海に面しているため寒暖差も少なく、海流の影響で寒気も内陸に比べ入りづらく、総じて比較的温暖な気候の地域と言える。 |
2. 網走市における災害発生時の現状
2006年11月15日午後8時15分頃、千島列島沖を震源地とするM8.1の大地震が発生した。気象庁は同日午後8時29分、北海道太平洋沿岸東部、オホーツク海沿岸に津波警報を発令。同じく北海道は同日午後8時29分に危機管理対策局内に津波対策連絡本部を設置し、太平洋沿岸東部、オホーツク海沿岸の自治体に対し「避難勧告」を発令した。網走市でも同日午後8時50分に災害対策本部を設置し、低台の市街地域や郊外の沿岸部など2,050世帯4,120人(人口の約1割)に避難勧告を出し、約1,500人が市内14カ所に設けられた避難所や高台地区に避難したという事態が起こった。幸いにも、津波の高さは当初予想されていた50~200cmを下回り、実際には10~30cmであったため、災害には至らなかったものの、この背景で自治体職員は夜にもかかわらず、テレビやインターネット等を通じて自主的に市役所庁舎に集まり、集まった順に地図を片手に、2人1組となり公用車で低台の市街地域や郊外沿岸地域へ分かれて走り、一軒一軒チャイムを鳴らし、避難所への避難を促したという事実があった。 その後、年が明けた2007年1月13日午後1時55分頃、同じく千島列島沖にて大きな地震が発生、前年11月の津波警報に次いで、オホーツク海沿岸地域に再び避難勧告が出された。日中であったことも幸いし、スムーズな連絡・避難体制が図られたにもかかわらず、避難者は約900人と前回の避難時よりも約600人減少するという結果であった。実際の津波については当初予想50~100cmに対し、実際は10~20cmと低かったことは不幸中の幸いとしか言えない状況である。 オホーツク海沿岸に津波警報が発令されたのは、1952年以来、実に54年振りのことであり、当時の避難の様子を知る人も少なく、また、東北地方のように古くから「地震が発生した際は裏山に避難するべし」というような言い伝えもないが、1回目は約3人に1人が夜にもかかわらず避難したのに対し、2回目は昼間にもかかわらず5~6人に1人しか避難しなかったという事実は、いかに住民の危機管理が低いかを物語る事実となった。 東日本大震災後、解ったことであるが、大きな津波時に沿岸部に行くことは自殺行為であったこと、実際に避難勧告が発令された後、網走市職員は沿岸部や低地の市街地において避難誘導を行っていたこと、さらに低台の避難所にて避難者の対応を行っていたことは、今後の危機管理に課題を残す結果となった。
2013年3月2日から3日にかけて、北海道東部は発達した低気圧による暴風雪に見舞われた。その暴風雪により根室管内中標津町では、親子4人が雪に埋もれた車の中で一酸化炭素中毒で亡くなるという痛ましい事故が発生し、全国ニュースにも取り上げられたのは記憶に新しいことである。同日、網走でも暴風雪により、郊外地区において、酪農ヘルパーの50代の男性が帰宅途中、吹雪で方向を見失い自宅近くの畑で倒れ死亡しているのが発見された。死因は低体温症とのこと。いずれの事故も低気圧がもたらした暴風雪による災害である。この時の最大瞬間風速は20~30m、網走市に隣接する大空町にある女満別空港では終日、全便が欠航、道路も完全に雪に塞がれ、復旧するまでに2~3日を要する状況であった。また、この吹雪により車が道路で立ち往生し、近くの会館や消防団事務所などに避難した人は、網走市内で約130人、暴風雪による倒木により送電線が切れ、市内約50戸の家庭で約22時間の停電が発生した。 網走市では暴風雪が治まった直後より、道路管理部署は昼夜を問わず市道の除雪に追われ、福祉部を中心とする職員は、「災害時要援護者台帳」等に基づき、一軒一軒電話を掛け、ライフラインと換気口や自宅通路の状況確認に追われた。そのような中、自宅玄関の戸が雪で開かない、換気口が雪で塞がり換気が困難な状況との報告を受ければ、急遽2~3人が1つのチームとなり、スコップと地図を手に除雪作業に出動するという状況が2日程続いた。 北海道では、年に数回、暴風雪や地吹雪による死亡事故が発生している。網走市でも暴風雪が発生した際は、国道や道道、市道が完全に塞がれ、車の往来が困難となり、物流がストップし、陸の孤島のような状態になることもしばしば起こる。それでも市内は比較的早い段階で除雪車などにより道が開通するが、郊外地区でトラクターなどの重機を持っていない家庭では、自宅から道路までの道を除雪するのも一苦労な状況である。特に高齢世帯や独居となると、誰かに助けてもらわなければ命の危険もありうる状況だが、暴風雪時の具体的な対応マニュアルは特にない状況であり、今後何らかの準備が必要な災害と考えられる。
2010年2月4日、網走市の約70%にあたる1万1,600世帯が断水に見舞われた。原因は厳しい冷え込みにより、水源地から浄水場に水を送る導水管に亀裂が生じたことが原因と考えられている。極寒の中、原因となった郊外の導水管復旧には20時間を要し、その間、ライフラインを突然断たれた市民に対し、市は自衛隊に給水車の派遣を要請する一方で、広報車を出して給水支援の広報活動を行った他、各給水所に職員を配置し、ポリタンクや給水袋を市民に渡すなどの支援を行った。また、市の事業部局では、病院やホテルなどの状況調査を実施し、給水が必要な施設への給水活動を実施した。 この断水により生活用水が確保できないとの理由から、市内の小中学校7校が臨時休校の処置をとった他、飲食店、理容美容室、ホテルなどのサービス業、水産加工や食品製造会社、病院や福祉施設など幅広い分野に影響を与える結果となった。そのような中、受水槽や井戸などがあった施設は、比較的影響は小さく済んだという事実もあった。 この断水の背景で、近隣市町村からの支援もあった他、町内会や地元の建設業者が給水活動の支援を行ったり、照明機材や発電機、ジェットヒーターなどを無償で貸し出すなど「地域の共助」が目に見えるかたちで現れ、寒波による断水災害を最小限に抑えることにつながったことも事実である。しかしながら、地域の病院や福祉施設、飲食店や食品加工会社では、もっと早く断水情報があれば、何らかの対応ができたと批判の声も聞こえている。 |
3. 網走市の防災施策
(1) 防災計画の策定
(2) 防災ガイドブックの作成 また、2013年7月には「お知らせメール@あばしり」の運用を開始し、気象警報や暴風雪等による道路通行止め情報等の防災情報などを発信している。このお知らせメールの登録方法についてもガイドブックに掲載し、住民の利用促進を図っている。
(3) 災害備蓄及び災害の避難所の開設について |
4. 市民レベルの防災と危機管理
(1) 自主防災組織の立ち上げとその内容
(2) 自主防災組織の現状について
(3) 地域防災訓練の実施状況 |
5. 今後の取り組みについて
網走市における過去の津波警報やその他の災害、また、現状の防災施策や地域防災訓練の状況を確認することによって、いくつかの課題が浮き彫りになった。 |
6. おわりに
2016年6月10日、国の地震調査委員会は、30年以内に震度6弱以上の地震が発生する確率を都道府県庁と総合振興局・振興局の所在地全国61ヵ所について公表した。網走(オホーツク)は61ヵ所中55位で、確率は1.3%とのこと。少ない確率ではあるが、災害の危険はあるとの予想である。市内では未だ耐震化が進んでいない建物も多く存在するのが現状であり、防災や減災に対する施策の充実が急がれる。 |