【自主レポート】 |
第36回宮城自治研集会 第5分科会 まちムラの見方「見えているもの」と「見えていないもの」 |
戦後70年という節目の時にちなみ、私たちの町がどのような歴史を経て現在に至っているのかを振り返り、自治体職員として今後のまちづくりに役立てていきたいと考え、本レポートの内容としました。 |
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1. 戦前までの新冠について
(1) 先史時代の新冠
江戸時代頃は、アイヌ民族が大自然とともにコタン(集落)を形成して生活をしていた。この頃から新冠会所という建物を通じて、和人も出入りしながら、アイヌ民族と交易を行っていた。
(2) 明治~戦中の新冠
大正から昭和初期では、市街地の方でさらに人口が増加したとともに、海に近い場所では、漁業が盛んになり人々が賑わうようになった。 太平洋戦争が勃発すると、国家総動員の名の下、新冠からも多くの人々が戦地に招集され、97人もの犠牲者を出した。また、7月の北海道空襲の際には、6人もの尊い命が奪われた。 |
2. 御料牧場と新冠
(1) 御料牧場の歴史
明治27年、日清戦争がはじまると、新冠牧場の馬が戦地へ送られた。明治5年から昭和22年までの長きにわたり、新冠は延々と牧柵が設置され、数多くの馬を生産・飼育することとなった。
(2) 御料牧場の解放と戦後開拓
やがて、牧場の解放を訴える声が上がった。御料牧場に厳しい条件で使われていた小作人の人や、牧場職員といった方が中心となり、「帰農期成同盟」を組織して解放運動が起こった。また、かつて牧場経営のためにコタンを追われたアイヌの人たちも運動に加わり、大きな力となった。このことから、昭和22年、御料牧場は全面的に解放となり、緊急開拓地として樺太や満州からの引揚者をはじめ、多くの方が入植することとなった。 この時の先人の苦労が、今日の新冠の基礎を築き上げたといっても過言ではない。日高管内において、最も戦後入植者が多かったのが新冠で、それだけ解放された御料牧場の土地が広大であったことを意味している。うっそうとした原始林を切り開き、新しい時代に向けて開拓がはじまった。 |
3. 新冠での電源開発
(1) 4つの水力発電ダムの築造
新冠奥地での大規模工事は、多くの工事関係者がかかわり、工事の間は関係者の人達が形成するひとつの集落のようであったという。戦後になって、伸び行く新冠を象徴する歴史だと感じている。 |
4. 戦後における新冠の農業
(1) 戦後から昭和時代の農業
(2) 近年の農業 |
5. 戦後における新冠のまちづくり
(1) 新冠「町」の誕生
(2) 平成時代の新冠
そのような中、平成9年に「レ・コード館」がオープンし、以来、各種コンサートやミュージカル、吹奏楽クリニック、ジュニアジャズバンドなど、レ・コードと音楽による町づくりを推進して、全国的にみてもユニークで活発な活動をしている。また、温泉開発や企業誘致、学校の統廃合に伴う施設の利活用、定住移住促進などを行って、新しい地域住民へのサービスが構築され、工夫をしながら各種事業を展開している。最近は食肉センターが創業し、多くの従業員が新冠町に住むこととなった。日高管内で最も人口減少率が低く、今後のまちづくりに更なる期待がかかる。 |
6. まとめ
(1) 新冠の人口と主な出来事やまちづくりの推移
(2) 新冠の歴史を振り返って |