【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第5分科会 まちムラの見方「見えているもの」と「見えていないもの」

 日高地方本部統一テーマ「戦後70年をふりかえる」に基づき、単組での研修を重ねた結果をレポートします。今回のメンバーは若手が多く、働いている町の歴史を振り返ることで、自らの仕事へフィードバックできることも目的として、研修を進めました。成果としてこのレポートができあがりましたが、ここに至るまで8回の討論に価値があったと実感する活動となりました。



戦後70年わが町を振り返る


北海道本部/自治労様似町役場職員組合・自治研推進委員会

1. 研究の構成

(1) 日高地方本部提案に沿っての討議
 平取町職からの提議により、自治労北海道日高地方本部が2016年に取り組むテーマは「わが町は戦後の70年でどのような変遷をたどったか」となった。さきの大戦から70年という節目の年、自らの町を振り返るには絶好の機会であることから、各委員からも賛同を得られた。
 その決定を単組に持ち帰ったが、定期的に活動する委員会を持たない様似町職としては、まずメンバー集めから始めなければならなかった。
 方策として、すべての組合員に庁内LANを使い、趣旨を説明し、参加を呼び掛けたが応じた組合員は皆無であった。そのため、委員長が職員歴、年齢を考慮し5人に参加をお願いした。さいわい5人は委員長の呼びかけに応じてくれ、研究会がスタートした。
① 研究は月2回、計8回の活動を行った
 構成メンバーは4人男性、1人が女性で全員事務職、それに講師1人を加え、フルメンバー6人が集まった。年代は50代1人、40代1人、30代1人、20代2人であり、職歴は26年から2年までとバランスの良い人選である。
  活動履歴
  7月22日(水) 5人
  7月30日(木) 5人
  8月12日(水) 5人
  8月26日(水) 5人
  9月10日(木) 5人
  9月24日(木) 5人
  10月7日(水) 5人
  10月21日(水) 6人
  (全8回)

(2) 進 行
 講師は役場OBであり執行委員長経験者である水野氏に依頼した。氏は現在、様似町議会議員であるとともに様似町の歴史、自然の研究家でもある。
 活動はNHKテレビの特集番組「北海道戦後70年」を教材として行われた。
 番組は70年を「産業」「自然」「経済」「政治」の4視点から解説されており、その時期の様似町はどのような様子であったかを人口状態、産業構造を当てはめて検証した。
 番組を録画したDVDを視聴した後、講師の進行により当時の様似町の状況が説明され、質問を受けたが、現在とかけ離れている当時の状況に質問が飛び交った。
 第1回 ○全8回の計画
     ○自治研活動とは何か(認識の共通化)
     ○NHKテレビ「北海道戦後70年」を視聴し、様似町に置き換えての議論
 第2回 ○NHKテレビ「北海道戦後70年・自然保護、対立と成長の軌跡」を視聴し、様似町に置き換えての議論
 第3回 ○NHKテレビ「北海道戦後70年・豊かさの分配~その先に」を視聴し、当時の様似町の様子をまじえて議論
 第4回 ○NHKテレビ「北海道戦後70年・ニッポンの外交~信頼回復の道」を視聴し、当時の様似町の様子をまじえて議論
 第5回 ○様似町開基180年 町制施行30周年記念ビデオを視聴し、現在の様似町と比較しながらの議論
 第6回 ○様似町開基190年 町制施行40周年記念ビデオを視聴し、現在の様似町と比較しながらの議論
 第7回 ○町制施行60周年記念写真集「様似のあゆみ」を見てからの議論
 第8回 ○町制施行60周年記念写真集「様似のあゆみ」を見てからの議論

(3) 人口と産業からの振り返り
 戦後、新しい時代を迎え、国の主導により国土の復興が始まる。
 1946年、はじめて助役が置かれ、翌年には第1回村長選挙が執行された(留目(とどめ)四郎当選)。
 同時に新法による村会議員選挙(定数22人)も行われ、近代的な議会選挙制のスタートを切った。
 1947年(昭和22年)の人口は8,352人・1,606世帯であり、ベビーブームの1965年(昭和40年)をピークにその後は減少の一途をたどっている。戦争終結から10年を経た昭和30年代の人口は10,000人前後と安定しており、様似町がもっとも活気づいていた時代と言える。
 当時の産業人口比率は農業が11.8%、林業が5.2%、漁業に至っては23.4%であり、1次産業全体で40.4%もの人たちが従事していた。
 1960年(昭和35年)から1970年(昭和45年)にかけて、いわゆる高度経済成長期に入るや他国から経済的開国要請が強まり、1次産品の輸入自由化を受け入れざるを得なくなった。さらにニクソンショック(1971年)、プラザ合意(1985年)による激しい円高に見舞われるたびに様似町の1次産業家は競争力を奪われていった。
 米、畑作農家は軽種馬業へシフトすることができたものの、林業家は転職せざるを得ず人口の減少に拍車をかけることとなった。戦後、外交により日本の進路が決められ、法律が改正され、農村地帯はその影響を受け、様似だけではなく、似たような産業の構造である日高管内各町はいずれも人口の流出が顕著となる。
 様似町の有史以来、雇用機会を提供し、様似町経済の中心となってきたのは工・加工業であった。1963年に東邦電化株式会社と日本電気冶金株式会社が合併し、日本電工株式会社が誕生した。従業員、家族を含めると約千人が関係者であり、労働組合運動も活発であった。昭和40年代始めには企業関係者だけでの自治会が発足し、社宅はもちろん自前の会館や購買店舗が整備され社員以外の町民も利用できた。
 様似町の特色
 かつては存在したものに「運動会」がある。昭和50年代には町民運動会、漁民運動会、農民運動会、さらには民間企業である南組も運動会を実施していた。おそらくその当時は今ほどの娯楽も無く、コミュニケーションがとれるレクレーションとして運動会が企画されたのであろう。また、今と決定的な違いとして地域、職場の結びつきが強く、連帯感、一体感、互助の精神が旺盛であり助け合わなければならない社会であったのであろう。今となっては唯一の小学校、中学校で行われる運動会しかない。

(4) 結論と振り返り

 70年の歴史の中で新たに作られたもの、役割を終えて失くなったものは多々あるが、共通して言えることは「旧いものから新しいものが生まれる。旧いものを捨てると新しい発想は生まれない。新しいことは旧いことからしか生まれない」ということではないだろうか。

 戦後から70年、町制施行から60年を経た現在の様似町はいかにして現在の容貌になったのか。ふだんの仕事に追われ、腰をすえて振り返ることのないわが町の歴史であったが、今回5人の研究員と1人のアドバイザーで8回にわたり俯瞰することとなった。
 「歴史は人の為す生業であり、相互に影響を与えられ現在の姿になっている」との考えに立ち、まずは国の動き、北海道の動きをNHKのドキュメンタリー番組を視聴することから今回の自治研を始めた。1945年(昭和20年)、北海道は東京、大阪を抑え全国1位の人口を誇っていたものの、現状は周知のとおりである。なぜ、人口は膨れたのか、なぜ、人口は減少したのか。それを知ることによって、わが町の未来に生かすことができるのではないか、という希望のもと、多少の脱線はありつつも毎回の集まりは意義あるものとなった。
 また、副産物として若手職員(2人ではあるが……)の意見を聞くことができたことはベテラン職員にとって有意義であり、彼らにとっても知らない様似を知ることは収穫であったことを信じて疑わない。