1. はじめに
(1) 大分県杵築市(きつきし)の紹介
杵築市は、九州内で東側に位置する大分県の北東部、タコの頭のような形をした国東半島の南部に位置する。この場所は瀬戸内海の西端、九州の東端にあたる。人口は、約30,500人。面積は約280.08km2。東方向の海を見ると天気がいい日は愛媛県が、北東方向の海を見るとかなり天気がいい日は山口県が、浮かんで見える。九州と本州・四国との、境界でもあり、また両者の「窓口」または「出口」の役割も果たしている地域でもある。
別府湾の一部、守江湾に注ぐ八坂川河口付近に、杵築市中心部は位置する。北側を高山川、南側を八坂川に挟まれた、丘陵と谷部からなり、江戸時代は、城下町として栄えた。
江戸時代より前、大分県の大部分を含む豊後一国は、大友氏の領地で、杵築はその家臣の木付氏が治めた。しかし、1593年に、大友氏は豊臣秀吉から豊後を追われ、木付氏も途絶える。豊後約42万石は、豊臣系の大名10人程度に細切れに領有されることになる。これは、九州と瀬戸内との窓口という地理的重要性に起因する。そして、それはその後の江戸幕府にも引き継がれることになる。関ヶ原を経て、領主を替えながらも、また細切れに領有され、2~7万石の藩主がひしめく。1人の有力大名に治めさせず、多くの徳川氏に近しい大名(譜代)や、幕府領(天領)で固めた。
江戸時代当初、杵築は、肥後に移る前の細川氏が治めた。城代は松井氏だった。その後、徳川氏に近しい小笠原氏を経て、1645年以降、同様に徳川氏に近しい十二松平の一つ『能見松平(のみまつだいら)氏』が治めた。ちなみに、現在の『杵築(きつき)』になるのは1712年以降、それより前は『木付(きづき)』。便宜上、1712年以前の場合も本稿では『杵築』を使用する場合もある。
古代から江戸時代・そして今に至る現在まで、この地理的重要性は変わらない。城下町「きつき」の素地は昔からあるのである。
(2) 問題の設定と導入
その細切れの結果が、現在の大分県のそれぞれの自治体にも反映されていて、地域の特色や独自性を醸成している土台となっていると思われる。
杵築市では、近年の杵築城を含む城下町内での発掘調査によって、従来の文献や絵図面等に記録がない発見も相次いだ。また文献や絵図面等に記録があるものも、発掘調査によってその存在がしっかりと確認されたり、良好に残存することが判明したりと、従来の地域の歴史が着々と塗り替えられている。
これは、発掘調査という新たな視点・新たな切口によって、確認されたものである。これは何も発掘調査だけに限られることではない。従来行われていなかった分野の調査(発掘調査・石垣の調査・民俗学的調査など)を行うことや、また従来行われていたもの、またそうでないものも、市役所内の別の課との連携(国東半島・宇佐地域の世界農業遺産認定・国の重要伝統的建造物群保存地区の指定への取り組み等)や、市民との連携(まちづくり)など、同様に新たな視点・新たな切口を、より複合的に積み重ねることによって、より本質的なものが見えてくると思われる。
それぞれの地域を、理解し、より発展させていくためには、その土地の風土や歴史を十分に理解し、調査によって浮き彫りにされてきた『本物・生』の歴史的遺産を、現地に保存し、その特性を活かしながら、地域の方々の協力を得つつ、まちづくり・ひとづくりを行うことが大事である。そして、その様なそこに住む人が誇りを持って、自慢できる場所を、現在の人々だけではなく、未来の人々にも守り伝えていくことが大事であると考える。その中で、時にはいろいろな制度による客観的で明確な格付け(国指定史跡など)を行い視覚化することも大事である。
その様な趣旨のもと、杵築市の紹介を兼ねながら、主に発掘調査の成果を切り口にしつつ、その活動の一端を紹介したい。
第1図 大分県杵築市とその周辺 |
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【大分県杵築市と古代の三つの津(港)
と門司と大宰府との位置関係】 |
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【杵築藩領と大分県の諸藩】 |
2. 杵築の歴史をさかのぼる ―― その地理的重要性をさぐる ――
(1) 九州・瀬戸内の窓口・出口、1250年前の海上交通事情
―― 今から1750年ほど前~1600年ほど前(古墳時代)の杵築 ――
今から1750年ほど前、西暦200年の半ば、ときの権力者は、近畿を中心に土を盛った巨大なお墓を造り始めた。これを古墳という。以降、西暦600年の前半までを古墳時代と呼ぶ。その間、鍵の穴の形をした前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)と呼ばれるものや・円形の円墳・方形の方墳など、様々な形の古墳が造られた。また造る者たちも、大王と呼ばれるものから、現在の県を超える範囲を治める者、一昔前の家父長の範囲を治めるものまでと拡がっていった。古墳の大きさは400mを超えるものから、小さいものは10m前後のものまで出現した。古墳の形や大きさは、その政治的能力や、身分差を現すものとして理解されており、当時の日本の大部分が、この約束事にしたがって歴史が動いていた。
さて、杵築市狩宿に小熊山古墳・御塔山古墳という2基の巨大な古墳がある(第1・2図)。両者は海を望むような場所に造られている。ひと目で九州や瀬戸内海の海上交通を意識した古墳であることが分かる。
① 小熊山古墳は、古墳時代の初めの方・西暦300年前後に築造された前方後円墳。古墳の大きさは117.5m。大分県最大級で、九州でも屈指の大きさである。九州で一番古い円筒埴輪をもつ。円筒埴輪とは、古墳の周りに並べられた土で造られた筒状の葬送具である。古墳のおおもとである近畿から地方に伝わっていった。それが九州で最初に伝わったのが小熊山古墳である。小熊山古墳の100mを超える大きさ・九州で最古の円筒埴輪を持つこと・海上交通の要所に造られた等から政治的重要性が見て取れる。しかし、この古墳は、海上交通を押さえるためだけのものではない。小熊山古墳からは、大分市や熊本方面の内陸部の平野や山々を見渡せる。一方、陸地の、それも深く立ち入った内陸部から、この小熊山古墳は確認できる。つまり、海上交通だけではなく、陸上交通の上からも重要な立地をしている古墳であることが分かる。いわば、九州コンビニ1号店にして、最強・最大の立地をしていると言え、九州と瀬戸内の窓口として最もふさわしい場所にある。
② 御塔山古墳は、小熊山古墳の600m南の海岸線に近接する古墳である。古墳時代中頃でも最初の方・西暦400年前後に築造された古墳で、大きさは、古墳本体で80m・残存する古墳周囲の溝まで含めると90.5mである。古墳の形は、円墳に出べそを付けた様な、造出付円墳(つくりだしつきえんぷん)と呼ばれるもの。円墳の大きさとしては、全国準最大級。この古墳も、ただ大きいだけではなく、当時の政治的中心である近畿の政治的状況を敏感に感じとって造られた古墳であることが、出土する埴輪から分かっている。
近畿を中心に、九州では3例しか出土していない塀を模した埴輪や九州で唯一出土の導水施設の埴輪、そして全国でも稀な出土例である革か木製のよろいを模した埴輪などである。
この様に、当地の政治的重要性は、西暦300年前後から西暦400年過ぎまで大きかったことが分かる。
(2) 海を介して東を向く豊前・豊後
―― 九州・瀬戸内の窓口・出口、1250年前の海上交通事情 ――
豊前・豊後が、九州と瀬戸内との窓口としての意識が強い証拠となる出来ごと。大分は現在でもその傾向が強い。
◎746(天平18)年
・豊前国 草野津(福岡県行橋市草野)、
・豊後国 国埼津(大分県国東市)、
・豊後国 坂門津(大分市)
の3港から、役人や商人が海路で瀬戸内に行く場合、大宰府から関の通行証を得て、豊前の門司で検査を受け、そして出発せねばならないのに、守られていないので、 再度通達を出した。 |
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◎796(延暦15)年
・守られないので撤廃!
点検は、摂津(兵庫の一部と大阪の一部)の国司など、船舶の通過や寄港地で行われるようになり、いったん門司へ行く必要はなくなった。 |
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(3) 東からのアクション
―― 九州で唯一の鎌倉幕府の将軍家の領地としての豊後と大友氏の下向 ――
鎌倉時代のはじめ、1185年頃の豊後は、駿河(静岡県)・武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県)・相模(神奈川県)・上総(千葉県)などとともに、九州で唯一、関東御分国(かんとうごぶんこく)、つまり鎌倉殿(源頼朝)の領地だった。
その後、1196年、源頼朝と近しい関係の大友能直(おおともよしなお)が、豊前・豊後の守護(国の軍事指揮官・行政官)となる。以後、豊後は江戸時代直前の、豊臣系大名による細分まで、大友氏が支配することになる。
第2図 杵築市にある小熊山古墳と御塔山古墳
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3. 城下町『きつき』の誕生 ―― 過去・現在 ――
(1) 今でも、城下町の風情残る『きつき』 ―― 高低差の美を楽しむ ――
城下町「きつき」は、北を高山川、南を八坂川に挟まれた八坂川河口付近に展開する。
南北にそれぞれ東西に走る丘陵上に『武家屋敷』が、その間に挟まれた谷部に『町屋』が展開する。その高低差20mほど。その間を南北にいくつもの坂道がつむぐ。まさに高低差の美が、城下町「きつき」の特徴である(第3・4図)。
そして、第5図を見てみる。上は現在の町なみを写した空中写真、下は江戸時代の城下町の絵図面である。
江戸時代とほとんど町割りが、高低差が、変わらないことが分かる。今も江戸時代の風情を十分に残していることがこの写真からも分かる。
第3図 杵築城下町の特徴を端的に現す
志保屋の坂(手前)と酢屋の坂
(奥)
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第4図 東上空から杵築城下町を望む
向かって左右の台地の武家屋敷と真ん中の
町屋とのコントラストが美しい。 |
第5図 現在の杵築と江戸時代の杵築城下町
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(2) 江戸時代の交通事情・土地事情
―― 同じ顔・違う顔・個性豊かな杵築の城下町 ――
この杵築市の『武家屋敷』と『町屋』との高低差は、従来、武士と町人との身分差を表わしていると言われてきた。
あとで紹介するが、杵築のお城、通称:杵築城藩主御殿は標高2mと低い場所に建つ。つまり武家屋敷より低い場所にお城の中心建物が建つことになる。高低差は、単純に身分差だけではなく、当時の交通事情、海を介して人や物を集めるということを最優先した結果であるともいえる。
川の河口を選び、そこに城下町を計画した場合、どうしても土地事情からくる高低差が複雑にからみあってくる。平地にある城下町は、第6図のようにお城や武家屋敷や町を、堀でぐるり周りを囲む。いわば凹みにより外周を囲む。一方、杵築城下町は、南北の台地上に武家屋敷や寺を配し、いわば上方へ凸(突出)することにより城下町を囲む。また南北の武家屋敷の間には東西に長い町屋を、河口の先端の低地や台地には城を配している。高低差を巧みに活かしながら、城下町を造っていることが分かる。
今も昔も、交通事情と土地事情は密接にかかわって町づくりがされている。
大分県では小さい城下町がそれぞれ特徴を活かした城下町を形成・町づくりをし、それが現在の生活の中にも密接に深く関わっていると言える。
平地に堀で囲われた城下町や城をもつ中津や日出や府内(大分市・第6図)、平地に城下町・小高い山に城を配した豊後高田や佐伯や日田、台地と低地を巧みに取り込み城下町や城を配す杵築や臼杵や岡(竹田市)などである。
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