【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第6分科会 復興・再興・新興!! ~消滅でも創生でもない地域づくり~

 発災から5年を経過し、その爪痕は少なくなりました。特に仙台市は、復興計画期間を5年間と定め多くの事業を進めてきました。一部の事業は今なお継続していますが、防災集団移転宅地の整備、復興公営住宅の建設整備、更に新たなまちづくりなどが取り組まれてきました。改めて、議員として関わってきた復興事業の主な事業を客観的な視点から検証し、今後の大災害に対応する行政、そして議会の対応について提言するものです。



仙台市の復旧・復興事業の検証
―― 被災住民の声と将来を展望した施策の実施 ――

宮城県本部/仙台市職員労働組合・仙台市議会議員 相沢 和紀

1. はじめに

 2011年3月11日14時46分18秒。牡鹿半島(宮城県)の東南東約130km、深さ24kmを最初の震源とする大地震が発生、震源域は幅200km、長さは500kmに拡大し、長時間の揺れとなりました。マグニチュード9.0、震度は最大の「7」を記録した東北地方太平洋沖地震。東北地方の太平洋沿岸ばかりでなく、東京をはじめとする関東においても被害を発生させた地震のメカニズムは、太平洋プレートと北アメリカプレートの境界域での地震で、大規模な津波を発生させた点が特徴です。
 100万都市の仙台市において、避難生活を余儀なくされた方は最大時で10万6千人にも達しました。実に10人に1人が危険と不安を抱えて避難所などに駆け込んだのです。勿論、全ての方の住居が破壊されたわけではありませんが、頻発する強い余震や電気・水道・ガスといったライフラインの途絶も大きな要因となりました。
 発災から5年を経過し、街中には震災の爪痕はほとんど見られなくなりました。また、住宅を失った約1万世帯の方々も自力再建や復興公営住宅への入居などにより、2016年7月時点ではごく一部の方を除き新たな生活に至っています。この様に早い再建に繋げてきた要因として、本市は宮城県や他の被災自治体が10年間の復興計画を策定したのに対し、半分の5年間と定めて全力を挙げて多くの事業を進めてきました。勿論、一部の事業は今なお継続しています。
 津波による被害は、想像をはるかに超えるものでした。海岸線から約3kmまで津波が達し、約2,100世帯が"全壊"や"大規模半壊"となりました。また、海水(塩害)と瓦礫による農地の荒廃も大変なものでした。このような中で、被災地域に住み、被災した立場からも、1日も早い復旧・復興を求め、議会を通じ多くの発信、そして提言を行ってきました。
 震災直後の風景は今尚、脳裡に残っています。そして5年が過ぎた今、日々変わってゆく地域を見るとき改めてこの間の取り組み、特に防災集団移転宅地の整備、復興公営住宅の建設整備、西部丘陵地帯の宅地被害の再生、更に新たなまちづくりなどについて、客観的な立場に立って検証し、今後の大災害に対応する行政、そして議会の対応について問題提起するものです。

2. 主な復興事業の概要とその検証

(1) 災害危険区域の設定
① 行政の判断とその経緯
 最初に取り上げるのは、災害危険区域設定の判断です。津波は海岸線付近で高さ6m。そして西側2.0~3.0kmに整備されていた仙台東部道路(盛土、高さ6m)で一度遮断され、その後、道路や水路などの開口部から西側へと流れ込みました。この教訓から、「海岸線の防潮堤を7.2mで整備し、更に仙台東部道路との間に位置する県道塩釜亘理線を高さ6mに嵩上げ整備する」"多重防御"を中心に据えて、全てのまちづくり・計画のスタートとなりました。
 災害危険区域(エリア)の設定は、東北大学とIBM社の共同で作成された津波シミュレーションがベースとされました。今回の地震と同じ条件下で、先の多重防御の要素を入れた場合どのように変化するのか、その結果浸水域がどのようになるのかが導き出されました。そして、今回の津波被害状況の分析から浸水が2mを超えるエリアを災害危険区域に設定することになり、結果として海岸部から嵩上げされる県道塩釜亘理線に囲まれたエリアと名取川北側の一部(中野地区と井土地区)が危険エリアに組み込まれました。この要因は名取川の北側約2kmは農林水産省管轄(県の事業)で海岸防潮堤が整備されずに残ることから発生したのです。
 最初の判断が示された約2か月後に、海岸防潮堤が名取川河口まで延長整備されることとなり、新たな条件下で再度のシミュレーションが作成されました。その結果、先に危険エリアとされた中野地区と井土地区が"浸水はあるが、居住は可能"とする判断が示されました。
 災害危険区域と指定されたエリアには住宅建設はできません。全てと言っていいほどに住居が破棄され、流されていることから多くの方が集団移転などを余儀なくされたのです。国の制度として、防災集団移転の制度があることから、宅地などの土地は基本的に買い上げの対象となりました。但し、買い取り価格はその時点での土地評価額が原則であり、当然に従前より2割程度安い価格となりました。
 なお、集落の形成経過や密集度から広い範囲がまとまって買い上げとなった地区と点在する宅地だけを買い取る地区が生じ、跡地の利活用に違いを生じさせています。

② 検 証
 災害危険区域の設定には、今回本市が採用した"エリア指定"と被災者の意向を酌んだうえで行う"個別指定"があり、計画的な整備が行えることや個人の思いが尊重されない等、一長一短の問題を含んでいます。議会の質疑においても個別指定を求める会派がありましたが、本市の様に同じ地形(利用形態や海抜など)である場合は"エリア指定"が有効であったと確信します。この迅速な判断が5年間という短期間で事業推進ができた大きな要因であったと判断します。
 但し、住み慣れた土地を離れることへの想いやコミュニティの崩壊などに十分な対応が必要となります。また、地元複数町内会から海岸防潮堤の延長整備の要望があったという事情はあるものの、シミュレーションのやり直しによって大きな混乱を生じさせたことは大きな問題でした。結果として"居住可能"と変更された地域の方々の7割以上の世帯が移転新築等を選択しています。残された土地は当然買い上げ対象とはならず、その多くが今尚更地の状態にあります。
 尚、買い上げとなった土地(合計で約60ha)の利活用は、2016年春から始まったばかりであり、尚且つ、財源の問題もあり、民間の力をベースとして進める方向であり、今後の取り組み・対応が注目されます。

(2) 防災集団移転宅地(団地)の造成
① 整備目標と取り組みの経緯
 仮設住宅やみなし仮設住宅(アパートなどの賃貸借り上げ)に入居した世帯は約1万世帯に上りました。その後、住宅再建についてのアンケートや聞き取り調査が数回にわたって行われました。
 いち早く新たな土地に住居を求める方、従来の土地に新たに住居を建築する方、壊れた住居を修繕して戻る方、住宅の再建をあきらめ復興公営住宅の入居を選択する方、更には仕事や学業の関係から仙台を離れる方など様々な形態が存在しました。そのような中でも、先に記した災害危険区域に指定され、宅地等の買い上げに同意した方に対して「防災集団移転事業」が用意されており、本市での対象者が1,540世帯にのぼりました。生活再建に向けた聞き取り調査による意向を元に集団移転のための団地造成が取り組まれました。本市は、より短時間で希望する宅地(区画)を確保するため大きく二つの手法を用いました。(ア)既存の土地区画整理組合の保留地を買い取る方式によって6団地380区画を、(イ)本市が農地などを買い取り、直接整備施工する方式によって7団地353区画と併せて戸建て復興住宅の110区画の合計843区画を整備することになりました。
 既に施工が終了している区画整理組合所有の区画については可能なものから受け付けを開始し、早期の住宅着工に繋げてきました。一方、本市施工分については、施工場所が東部の農地を転用し、造成することから地盤改良などに時間を要しましたが、2015年の春には完成し、引き渡しを行いました。約1年以上が経過した現在、多くの被災者は住宅建設に着手し、新たなまちが生まれています。

② 検 証
 被災他都市との比較では早い時期での完成と言えます。2013年4月時点で集団移転希望は732世帯でしたが、その後710世帯、679世帯、そして2015年4月時点では675世帯と減少しています。
 最終的に733区画と戸建て分110区画を確保・造成したのですが、結果として79区画が残ることとなりました。改めて時間の経過が被災者の生活を変えていくのかが感じ取れます。集団移転からの変更の要因には(ア)住宅資金の確保 ―― 年齢による融資条件の厳しさ、(イ)家族構成の変化 ―― 死亡や子どもたちの就職などがあるようです。
 希望宅地数と実契約宅地数の差は大きな問題となっています。本市ばかりではなく、他被災自治体でも発生しているのです。問題を事前に防ぐ手法として、民間の開発業者などで見られる「手付金」的な手法が取れれば、"購入辞退"ということは避けられたのではないでしょうか。あくまでも聞き取り調査は"希望"でしかなく、「みんながまとまって移転するなら……」など、答える側も確固たる判断に至っていなかった方もいたのではと推察するものです。
 尚、最終的に残った79区画については、被災者を問わず一般の方を対象に分譲すると共に、まとまった30区画については住宅メーカーへ一括分譲し、全ての販売を終えています。

(3) 災害復興住宅の整備
① 整備目標と取り組みの経緯
 先にも記したように、仮設住宅などに住む方を対象に住宅再建についてのアンケートや聞き取り調査が行われました。もともとアパートに入居された方や高齢であることから自宅の再建をあきらめて復興公営住宅に希望する方が多くいました。移転対象となった被災者の中だけでも350世帯が復興公営住宅を希望しています。また、浸水区域やその他の地区に住んでいた方でも、老朽アパートが壊れて追い出された方や"大規模半壊"・"半壊"であっても修繕などの目途が立たずに仮設住宅などに住まうことになった方も多くいました。このような方も対象として復興公営住宅の入居募集が行われました。
 2013年7月時点では、3,844世帯が希望しており、当初の整備計画であった3,000戸の整備目標について見直しを図られ、最終的に3,206戸が整備されることになりました。
 整備手法は、(ア)本市が土地を確保し、工事を直接発注する。(イ)民間企業(グループ)が土地を含めて一括して建設し、最終的に本市が買い取る。の2本立てで進められました。(ア)の手法では、NTTの社宅の買い取りなども含め20地区(1ヶ所に複数棟も)に1,512戸(戸建住宅を含む)、(イ)の手法では19棟、1,694戸でした。
 2016年3月までに約3,000戸について鍵の引き渡しを終え、2016年7月15日には全ての入居が可能となりました。
 一連の整備にあたって、整備条件の一つとしてJRや市地下鉄からの徒歩圏内(1.5km)を、更に従前の市営住宅との均衡から敷地面積についても一定の条件を付し、駐車場(各戸1台分)を確保しました。
 但し、例外として先の交通アクセスなど条件をクリアーしない場所であっても、元の居住区域の近くに整備してほしいとの声を受け、六郷地区(50戸)と岡田地区(20戸)が整備されました。そのほか戸建て復興住宅分として造成された110区画に対し92戸(約20坪)が防災集団移転団地内に整備されました。

② 検 証
 整備戸数については、当初の希望者数から見ると約600戸少ない整備となりました。この乖離について議会でも追及があり、(ア)当初の整備戸数を見直し、200戸増と修正する。(イ)希望する全ての戸数の整備は難しい。(ウ)判断に悩んでいる方もあり、民間賃貸なども検討してもらう。などと答弁してきました。
 結果として3,206戸の整備に対して3,150戸ほどに入居が決定し、新たな生活をスタートさせています。入居に対して優先順位を設定し、(ア)災害危険区域に居住していた方、(イ)障がい者や高齢者がいる世帯の方、(ウ)その他特別な事情がある方、(エ)一般の被災者としました。住宅を失った津波被害者や障害者が優先されたことに異を唱える方は少なく、概ね好評でした。
 また、犬や猫などペットを飼っている方にも配慮し、同一地区に複数の棟を整備する場合や同じ棟でも区別ができる場合は「ペット可」となり、552戸(17.2%)が確保されました。家族を亡くした方や高齢者世帯ではペットの存在は大きく、心の安定に繋がっていると確信します。その一方で入居者間でのトラブルも聞こえています。
 その一方で、整備戸数の確保が優先されたことで、地理的そして交通アクセス等の問題から50戸ほどの"空き"が出たことに留意しなければなりません。単に市有地があるから作るのではなく、被災者の細かな希望を分析することが求められています。
 本市の整備戸数は3,206戸であり、全世帯数約50万世帯に対する比率は0.65%という小さなものとなっています。この背景には、被災地域の多くが東部農業地帯であったことから"自宅"が当然という感覚があり、集合住宅への抵抗があったと推察します。
 既存の市営住宅は9,000戸であり、今回の復興公営住宅を加えると12,000戸になります。今後被災者世帯が退去となった場合は"市営住宅"として利用されます。その意味で今回の整備は将来の稼働率(入居率)を考えた場合は、交通アクセスなど好条件であることからうまく回転するものと推察できます。
 整備に関する条件で、例外的に被災地近くに整備された2か所(六郷、岡田)は"地域コミュニティ"の再生に寄与することが求められており、いずれも任意(私的)で集団移転を行った場所に隣接して整備されました。逆の言い方をすれば、公の取り組みだけでは建設できなかったのです。
 議会での議論にはなりませんでしたが、将来の税収見通しに立った政策であったかという問題です。「希望する方全世帯への整備」は理想ですが、本市の税収、特に固定資産税の確保という点では、一定の判断が必要と感じました。県内の15万都市では4,500戸の整備を進めています。しかも海岸線が多く漁業も盛んな地域です。税収ばかりでなく、産業構造そのものが変わらざるを得ない状況が潜んでいると推察するものです。
 また、宮城県も1,000戸の整備を表明しましたが、結果的には1戸も整備されませんでした。住宅整備に関わらず多くの事業遂行で県と基礎自治体の連携が重要であるとされてきましたが、温度差があったと感じています。

(4) 宅地被害への対応
① 被害の現状と取り組みの経緯
 今回の地震では、津波被害があまりにも甚大であり、その他被害が取り上げられることが稀でした。しかし、市西部の丘陵団地を中心に土砂崩れや亀裂が多数発生しているのです。市域全体で5,728宅地が被害認定されました。その内特に被害の大きかった太白区緑ヶ丘地区(78戸)と泉区陣ヶ原地区(6戸)は「災害危険地域」に指定し、土地の買い上げを行われ、津波地区と同様に集団移転などでの対応となりました。
 残る宅地のうち2,521宅地(44%)は、道路や公園、さらに公共施設等に接する箇所については国の補助事業(民地部分擁壁工事費の10%負担あり)で対応し、2016年3月末でほぼ終了しています。また、民地どうしが接する場合や民地単独被害の3,207宅地については、市独自助成金(100万円を超える部分の90%を助成、上限は1,000万円)の対象とし、2016年3月末時点で2,113宅地(65.9%)が復旧・補修済み。但し1,094宅地については復旧工事に対する意思表示がなされていません。尚、補助制度の受け付けは終了しています。

② 検 証
 108万人に達した本市ですが、他都市同様に高度成長時代に多くの団地造成が行われました。今回被害が大きかったのは1960年後半から80年ごろにかけて造成された西部の丘陵団地でした。また、比較的新しい団地であっても"盛土"の部分でも多くの地割れなどが確認されました。改めて元地の地勢が大きな要因であることを示しています。また、造成にあたって擁壁などの施工基準が時代と共に強化されてきました。しかし、古い基準のものは、行政による危険箇所パトロール等による修繕勧告が出されていますが、強制力がなく、改築時に併せた改修工事が行われることが通例となっています。改めて既存の擁壁の改善の取り組みが求められています。
 宅地の改良工事については、先に示したように官地と民地での制度格差が生じましたが、市独自助成金により大きな経済的格差を生じることなく対応できた点は評価できるものでした。しかし、約20%弱の宅地については手つかずのままです。古い団地で、引き続き住む方がいない家もあり、改修に踏み切れない方が多いのではと推察します。尚、将来、不動産の売買によってトラブルを生じさせないよう被害記録の明記なども必要になると考えます。
 今回は国の制度と市の独自助成金制度によって速やかに復旧工事が進みましたが、その一方で団地造成企業(公社)の責任が問われることがありませんでした。勿論、造成の完了から40年前後経過しており、法的な責任を問うことは難しいのですが、最もひどかった青葉区折立団地は宮城県住宅供給公社が造成したもので、工事手法に問題があったとの指摘が出ています。
 2015年8月に発生した広島市の集中豪雨によるがけ崩れなども含め、団地造成の企業責任についてもしっかりと検証することが求められますし、法的な整備も求められます。

(5) 独自支援策
【支援策の判断過程と利用実績そしてその有効性】
① 被災者生活再建支援制度
 大災害の発生に対して国の制度として生活再建支援制度が「阪神・淡路大震災」を期に作られました。今回の東日本大震災でも適用され、"全壊"等の世帯には「基礎支援金」として最高100万円が、更に住宅再建を果たした世帯に「加算支援金」として最高200万円の支給がされました。当座の資金として本当に役立ちました。しかし、衣服も家財も無くした方には十分とはいえるものではありませんでした。また、住宅再建に対する追加の200万円ですが、坪単価50万円、建坪30坪で1,500万円、更に外構の整備や手続きの諸費用等を含めると最低でも2,000万円が必要であり、新たに土地を求める場合は更に1,500万円程度が必要です。大きな金額であることに越したことはありません。しかし、自ずと予算的な制約があることは自明であり、再建の内容(規模)によって段階を設けることが必要と感じました。経済的に余裕があるから大きな家が建てられるのだろう との声もありますが、本来のまちづくりを考えた場合、一見不平等であっても多少の差をつけることによって、より一歩前に踏み出す大きな力になると考えます。加算支援金については、最低額を現行としても上限を更に2段階程度積み重ね400万円程度に引き上げ、自立再建を後押しすべきと考えます。復興をスピードアップできるし、先にも触れたように固定資産税など自主財源を確保できると考えます。
② 津波浸水区域住宅再建独自支援策
 本市は2013年第4回定例会で、津波浸水区域の住宅再建に対する独自支援制度(新築:100万円、修繕:50万円など)を決定しました。この独自支援策によって、災害危険区域居住者で防災集団移転を含めた市内への移転に対して842件、浸水区域居住者に対する移転および現地再建は446件で、新築件数は1,288件。また、修繕件数は858件が交付決定されています。また、2016年第1回定例会において追加支援として、津波被災者で持家の方に限り、新築、修繕、そして復興公営住宅など住まいの再建を終えた被災者に一律20万円の支給を決定しました。(対象は4,100世帯)
 最初の支援策は、自宅、借家を問わず、エリアに居住していた全世帯を対象としましたが、追加策については借家等の居住者を対象外としました。ある意味、自立再建を加速させたいという思惑もあると推察します。
 これらの財源は、復興基金からの支出となっています。金額的には国の生活再建支援制度には及ばないものの、自立再建に向けて大きなインパクトを与えたと感じています。また、この他に浸水が想定されるエリアの住宅再建に対しては盛土・嵩上げに対する補助、更に住宅ローンに対する利子補給制度などがメニューに加えられ、現地再建が一定程度進んだと理解しています。
③ 開発行為に対する支援
 浸水エリアの被災者に対しては、"5戸以上"を条件にミニ開発を許可することとなりました。しかし、単に開発許可が下りたとしても、公園用地の確保や道路の整備、加えて上下水道の敷設等多くの事業費を伴うことから、社会インフラの整備を市が行うよう求めてきました。結果として公園や市道用地の提供は従来通りでしたが、市道及び上下水道整備費については、市が工事費を負担する支援策を引き出しました。予算的には4か所分として2億円を確保しましたが、結果的には宮城野区久保野地区(19世帯)と若林区六郷地区(18世帯)の2か所のみの施工となっています。いずれも14年末に完成し、2016年3月時点で全区画に住宅建設がなされ、新たなまちが出来上がっています。
 本市が宅地造成した防災集団移転団地の販売価格は坪あたり15~20万円でした。これに対し自主開発では、市が負担した市道&上下水道整備に係る費用が差し引かれたことによって、土地の買収費用と造成費用のみとなったことから坪単価は16万円前後で終えることが出来ました。
 多くの方が災害危険区域や浸水区域に農地を所有しており、近距離の所に顔なじみの方の協力のもとに安住の地を求めることが出来たことは、今後の地域活動にも有効に機能すると推察するものです。
 関連して行政(市)が進めてきたまちづくりについて報告します。先の2ヶ所だけではなく、少なくとも5箇所以上で自主的な集団移転が検討されてきました。町内会単位で新たなまちづくりが議論される場合、補助金が出され、地域住民と行政(区役所)、そしてコーディネーター的な役割で大学の研究室やNPO組織が入ってディスカッションを行う中で協議が進められてきました。そのなかで、では○○軒が集まって集団移転しましょう しかし、出来上がったプランは希望や夢の詰め合わせであり、肝心のコストの議論は最終段階に追いやられ、時間だけが経過し、いつの間にか霧のように消えてしまったのです。
 行政は多くの事業を抱え、大変な状況であったことは理解しますが、大学の研究室やNPO組織などのコンサルにお任せであったことが大きな要因であったと推察します。また住民の側にも、行政がバックアップしているのだからうまくいくのではないか、などと他人事のような一面があったと聞きました。多額の費用ではないものの公費を投入して、なんらの成果が得られなかったことを反省しなければなりません。そして他都市においても是非、仙台での取り組みを教訓として、今後のまちづくりにあたっては「行政自らが汗をかく」ことを大切にして対応していただきたいと考えます。

3. まとめ

 震災後、多くの自治体は人口減少が加速しており、将来の行政運営に頭を悩まされています。特に震災3県の人口減少は大きく、国の復旧事業、そして新たなまちづくりとしての復興事業が行われていますが、必ずしも明るい未来を展望できる状況にはありません。その要因には永田町が策定した"40項目の復興事業"に縛られてきたことが挙げられます。被災地の声が多少なりとも使用の幅を広げたものの、依然として"族議員"が幅を利かせて事業費を掠めとっています。
 改めて感じたことは、時間判断の大切さでした。大災害への対応は「時間とのたたかい」です。避難所生活、その後の仮設住宅での生活などに対し"市民の声"であるとして理想論を叫び続ける会派もありましたし、土木・建設業界を代表して、なりふり構わず早期の工事発注を求める会派もありました。また、予算の執行という点での議会承認は必須であり、私自身を含めた全議員の構えが問われていました。その時々の判断がどのような姿となって現在に生かされているのか、今回の事業検証を通じ、本市が進めてきた骨格事業は総じて誤りのない ものであったと判断しています。しかし、全てが他都市に対しても適合するものではありません。都市規模、歴史、そして地勢などが、それぞれに異なるわけですので総合的な判断が求められます。
 また、もう1点、都市規模に大きく関連しますが、政令指定都市として職員の量(数的パワー)と質(スキル)を一定程度確保していたことが短時間での達成に繋がったことは間違いありません。併せて他政令都市からの職員派遣にも感謝いたします。
 本市は、先の国勢調査で108万人を記録しました。今後数年は増加するものの、その後は減少に転じると想定しています。震災から6年目となった本年4月には「復興事業局」を廃止し、その一方で新たに「文化観光局」をつくり、新たなまちづくりを展望しています。
 伊達政宗によるまちづくり、太平洋戦争の敗戦からのまちづくり、2市2町の合併による政令市移行、そして今回の大震災からの復興まちづくり、20年後、50年後に今回の復興まちづくりがどのような評価を受けるのか、知る由もありませんが、これからも議会の場から発信し続けることを表明し、拙い報告といたします。