【自主レポート】

人と文化を大切にするまちづくり
~ 石垣島の移住者考 ~

沖縄県本部/石垣自治研究所

1. はじめに

 人口減少社会を迎えつつある我が国は、現在、高齢化が特異なスピードで進み、同時に戦後社会を支えてきた団塊の世代の大量退職、いわゆる07年を迎えようとしています。
 石垣市でも優れた自然や伝統文化に魅せられて本土から移住する人々が増え、地域社会のあり方そのものに明らかな変化が見られます。
 更に八重山圏域長年の悲願であった新石垣空港建設が2013年3月に開港することがいよいよ現実のものとなったと同時に、人々の心と自然環境の保全も大きくクローズアップされてきました。
 そこで、『移住』が地域社会全体に及ぼす変化・影響・自然環境・保全も含めた調査・研究を行い、人と文化を大切にするまちづくりをどのように進めていくかリポートしました。

2. 石垣市における人口及び住民の推移

 牧野清氏の「新八重山歴史」によると、八重山の人口推移は、人頭税の布れる前の1607年は5,500人、強制移住の行われる前の1706年は9,879人、強制移住後の1753年には26,285人となっており人口は急速な伸びを示しています。しかし、1771年には明和の大津波による死亡で人口が急減し19,679人。大津波の後、離島から石垣島に住民の移動がありました。中には強制移住に伝わる悲劇も数多くあり今でも各村々には民謡も残っています。
 沖縄においても1879年(明治12年)、廃藩置県が行われ、日本の近代化の枠組みに組み込まれてきました。当時の八重山の人口は13,877人でした。
 1901年(明治34年)、台湾から大勢の入植者が名蔵一帯に定着するようになり、沖縄のパインのスタートになりました。
 大正・昭和の初期時代は未開の八重山で一獲千金を狙い押し寄せてくる本土の人々は多かったものの、ほとんど事業に失敗したようです。こうした情勢の元で政府も本格的な県内移民の事業に取り組み、八重山の移民計画を立て、沖縄本島からの移住者が住むようになりました。
 金城朝夫氏の「ドキュメント・八重山開拓移民」でみると、移民には政府が送り出した移民と、自分の力で入植した移民の二通りありますが、その数がどれだけなのかはっきりしていません。
 いづれにせよ現在では、移民の多くが50年余りの生活を八重山で過ごしており、地元八重山の人との違和感も少なく、移住者にとっても故郷は八重山となっているのではないでしょうか。石垣島の今を見るとき、多くの開拓者達の血と汗と涙の結晶であり、欠くことの出来ない歴史でもあります。

3. 伝統文化の保存・継承の検証

 親から子へ、そして孫へと伝えられるもの。言葉・料理・生活スタイル……。これを文化と呼び、大切にしてきました。次の世代へ伝えるものが多ければ多いほど、その地域の文化は豊かだと考えられます。
 かつての沖縄は"沖縄の文化"を隠したり、恥ずかしいものと思わされ、積極性に欠けていました。
 しかし、ここ近年沖縄に残る土着的な古き良きものが大変評価され、沖縄ブームの一役を担っています。そこで八重山(石垣島)の伝統文化の保存・継承について検証したいと思います。

(1) 八重山の薬草文化
   八重山には、恵まれた地理的条件から薬用植物の種類が多く、「薬草の島」ともいわれています。
   古くからいろいろな種類の薬草が、薬用または食用として使用されてきました。
  ① アロエ
    俗称「医者いらず」。(ア)胃弱の時、(イ)便秘のときに生の葉を青汁にして飲む、又は、中味を食べる。(ウ)軽いやけどは、生の葉を突き砕いて汁を出し患部に塗る。
  ② ウイキョウ(方言名ニーズンキョウ)
    胃炎・胃腸・食欲不振などに用いる。
  ③ ウコン(方言名ウッキン)
    (ア)肝臓の病気(肝炎・胆石症・胆のう炎)に根茎を煎じて服用する。(イ)胃炎・胃弱・食欲不振などにも用いる。
   その他にもスイゼンジナ、ホソバワダン、ヨモギ……など沢山の薬草がありますが、食物の少ない時代、薬のない時代、薬食の料理が健康に寄与してきたのではないでしょうか。

(2) 八重山の食文化
   沖縄は「長寿社会」といわれ、私達自身もそれを誇りに暮らしていますが、なぜ沖縄が長寿社会なのか? 科学的に根拠はあるのか?
   「体にストレスの少ない温暖な気候」、「隣近所や親戚が助け合う共存社会で、お年寄りをみんなで大切にする」、「タイゲーガー主義(物事を深く考えない)が心にゆとりを生む」、「親族中心の島国」など、八重山は歳をとっても暮らしやすい社会だということが、長寿の理由の一つであるといわれます。
   更に、食生活にも大きな要因があるといいます。
   沖縄が本土へ復帰してから34年、本土との格差が縮まると同時に食生活もすっかり本土化しました。
   しかし、まだ八重山独特の食文化も沢山残っています。
   現在の高齢者が口にしてきた食物は・食文化は何なのか、八重山食文化・今昔等を探ってみます。
  ① 主食は1950年(昭和30年)代の半ばまで"芋"。干ばつや暴風にも強く、その日食べる分だけ掘ればよいので、冷蔵庫のない時代の八重山には最適の食物。
  ② 肉食は、豚・山羊の肉を料理。1950年(昭和30年)代までは、どこの農家でも何頭かの豚・山羊が飼われていた。お正月や冠婚葬祭のときは自宅で屠殺・解体し、捨てる部位はない。肉だけではなく、内臓・豚足(アシテビチ)・耳の軟骨(ミミガー)・血の一滴まで利用し尽くすのが豚の食べ方。山羊はぶつ切りをヨモギなど香草と共に長時間煮込み、塩や醤油で味付けするヒージャー汁。山羊肉には疲れを取り精力を付ける効果があるといわれており、豚・山羊共にこの様な料理方法が現在でも続いている。
  ③ 野菜食は、ヘチマ(ナーベーラ)・にがうり(ゴーヤ)などが夏野菜の代表。家庭菜園で栽培し、若獲りして食卓に乗せれば夏ばても防止し、さわやかな涼しさを味わうこともできる。ゴーヤと豆腐を炒めたチャンプルーは、手軽に調理でき、栄養のある代表的な家庭料理とされ、今でもチャンプルーの主流。
  ④ 魚食は、サンゴ礁に囲まれた海では、色鮮やかな亜熱帯性の魚が沢山取れる。魚料理は、塩煮(煮付け)・油揚げ・刺身が中心。味付けは酢味噌で和えたり、ヒラミレモン(シークァーサー)の絞り汁を加えるなどの工夫がなされている。
   昔の普段の食事は、野菜と豆腐が中心で、主食は芋。行事の時に豚肉を食べる。これが食生活のパターンでした。ほかにも亜熱帯の風土に合わせた多彩な料理が、私たちの島には豊富にあります。
   しかし、都市化、時代のスピード化のため料理や料理方法も変わってきました。子供達はインスタント料理を好んで食べ、母親は簡単な料理(レンジ料理など)を作るようになってきました。
   沖縄(八重山)は、女性が長寿全国1位にあるものの男性は26位と、ランキング順位低下傾向にあります。
   現在、食品の種類や健康に関する情報も非常に豊富になっていますが、祖先が残したすばらしい知恵(料理)をもっと大事にし、現代風にアレンジした形で子々孫々に伝えていく事が大切ではないでしょうか。

(3) 高齢者を大切にする風土・文化
  ① 生年(マリドゥシ)の祝い
    八重山では、生まれた年の干支(13・25・37・49・61・73・85・97歳)に合わせて行う風習が昔からある。マリドゥシの祝いは、元々は厄年を払い神霊に祈願する程度だったが、時代を経るに従い、マリドゥシは「目出度い」と変わり、現在では盛大な祝賀会が開催され、"73・85・97才の長寿を全うされた先輩達の郷土社会発展のために尽くされた功績と健康を後輩達が肖る"が主流をなしている。
  ② 16日祭(ジュルクニチ)
    16日祭は旧暦の1月16日に行われ、八重山では正月とお盆に次ぐ年中行事の大きな祭り。家族揃って墓に参詣して墓前にご馳走を供えて盛大に祖先の供養のために焼香をする。また、本家や親戚の祖先にも焼香に回る。
  ③ 彼岸祭(ピンガン)
    彼岸祭りは旧2月中の春分の日、8月の秋分の日に、御馳走を仏前に供え祖先の供養を行う。
  ④ お盆(ソーロン)
    盆は旧暦の7月13日から15日までの3日間に行う精霊祭。あの世から祖先を案内し、仏前に香華を供え、お茶道・御馳走を供えて供養をする。八重山における二大行事(正月と盆)となっており各家庭で盛大に催される。
   村を挙げて大勢で長寿を祝い、高齢者自身がそれに応え更に長生きしようとする。子供達に対しては、祖霊を敬い大事にすることで、敬老精神が培われる。高齢者を大切にする風土は、生年祝いやお盆のあり方からつくられてきたのではないでしょうか。そのことが、八重山における長寿の原因なのかもしれません。
   総括として、八重山の文化は行事と自然が強く結びつながっており、行事を通して自分たちの社会を認識・共有してきたということです。
   しかし、今日、近代文明が発達し、押し寄せられてくる物・人に対し、人々の結びつき、交流が弱まり、ますます私達の社会が貧弱化しつつあります。

4. 合衆国といわれている石垣市の課題は

 さて、日本の苗字(姓)の9割以上が地名から発生していると言われており、苗字によって出身者がわかる場合もあるようです。
 かつて石垣市民の苗字は、宮良・石垣・大浜の順で多く、3大苗字と呼ばれていました。しかし、現在は宮良(石垣島)・金城(沖縄本島)・砂川(宮古島)の順となっています。上位10件の中で石垣島は3苗字、沖縄本島は3苗字、宮古島が4苗字です。この様に見ても移住者が多く占めるようになったことがわかり、合衆国といわれる所似です。
 ここ数年来沖縄ブームが続き、「南の島」に移住する人々が増え、また、憧れを抱き移住を夢見る人々も多いようです。特に八重山は、「ちゅらさん」、「ドクター・コトー」、「瑠璃の島」などのテレビドラマなどで注目され、観光客も年々増え、人口も増え続けています。
 さらに、住民登録をしていない移住者もかなりいるといわれ、新たな課題がでてきました。

八重山発生活情報誌“やいま”4月号より
~ 石垣島で今、何がおきているのか ~

移住者の増加で島に現れた変化
 島の中で移住者がどこで目立って見えるか、何人かの島人に聞いたら次のようなことが挙がった。ダイビング業者のほとんど。路上売り。刺青の店。中心市街地の空き店舗事業で入居したのは移住者。住宅街の中の空き家に店づくり。観光業界のアルバイト。役所が企画する講演会や観察会……。「今や移住者が移住者に三線を教える時代。必死だから覚えも早い。とぅばらーま大会の出場者も増えた」。ある男性は複雑な表情でそう言った。
 しかし、戸惑いはあるが、島人はそう悪い感情をもっているわけではない。先の男性は、呆れながらも彼らのバイタリティと創意工夫を評価し、島人ももう少しそんな意識をもって欲しいとさえ思っている。
 「問題なのは、彼らに島に溶け込もうとする意志があるかどうか。島の歴史や文化を理解し尊重し、島に骨を埋める覚悟で共に歩もうと考えているのか。都会のやり方をそのまま島に持ち込んではトラブルが多くなるのも当然だ」と男性は言う。
 多くの島人が移住者に対して抱いている一番の不満はつまるところそういうことだと思われる。もちろん移住者が皆そうだというわけではなく、島人以上に島のことを愛して島のためにつくす人達も多い。ある島人は「彼らが求めているものは、わがまま。それが通らなくなると、ついには、沖縄は、八重山は……と言い出す」と批判する。

5. そのまちづくりは(住民の声)

(1) 移住者の声
  ① 沖縄病に罹ると治療は難しい。治すために出来るだけ多く石垣島を訪れるが、病状を和らげる効果はあったが治癒せず、思い切って石垣島に移住した。
  ② 石垣島に惹かれたのは"人"。美しい海・独特の文化・温かな人情である石垣島へ移住を決意。
  ③ とにかく石垣島が大好き。何年住むかわからないが、とにかく一度は住んでみたかった。
  ④ 祭りや行事が多い。1年を通じ何処かで何かをやっている。
  ⑤ 何年住めば八重山の人として認められるのか?

2006.1.19 八重山毎日新聞コラムより
 「何年住めば、八重山の人として認められるんですかねぇ」。県外出身のある実業家がポツリとこぼしたことがある。八重山の各島で生活の根拠地を構え、仕事をしている県外出身者が増えてきた。彼らの中にはそれぞれの分野で活躍したり、また島嫁・島婿になっている人も多い。しかも八重山の自然・風土を愛し、地域に溶け込み、島の人たちと無理なく付き合っている。もう十分に八重山の人といえる。しかし、何年住んでいても、八重山の自然は愛するが島の人たちと日常的に付き合うのはごめんだ、と言う移住者達もいる。彼らや八重山大好きの観光客の多くもそうで、好きな八重山とは自然そのものであり、自分たちを除いた人間は含まれず、彼らの目には島の人たちやその暮らしは映らない。それはアンケートやネット掲示板などを見れば明らか。観光客誘致や島のリゾート化は本来誰のためなのか。どれだけ地域の暮らしの向上に反映されているのか。観光行政が本末転倒してはいないか。行政は住民に対して、もっと具体的な説明が必要だろう。

  ⑥ 石垣の移住考

2006.1.23 八重山毎日新聞コラムより
 私が20年ほどのサラリーマン時代に経験した転勤生活で、誰もがよく使った転勤挨拶があった。「1年目は職場になじむのに時間を割かれ、2年目はどうにか職場に慣れ、3年目は公私共に過ごしやすくなり、4年たった今では住めば都……」のような事を言っては、また、次の転勤地へ向かった。
 人間の適応能力は、同じ会社内で新しい任地にとけ込もうと努力してもこの程度。大切なのは「郷に入っては郷に従え」という人間同士がうまく住み暮らすための昔からの全国共通のルール。石垣でも同様で、先に住んでいる方の思いやりにふれたり、お付き合いする中で経験を積まなければ見えない世界がある。この数年間急速に移住者が増え、そして都会で身に付いた「言ったもの勝ち」のやり方で、地元の方に都会の価値観を押しつけ、自ら知らない土地に来ているのに「教えてあげる」という態度でものを言っているのが散見されるのは実に恥ずかしいこと。移住者がそれぞれの出身地の価値観・やり方を主張していたら石垣の文化はどうなるのか。
 自然についても立場をわきまえたい。私も含め「自然が豊かで素晴らしい」と引っ越してきて、木を倒して家を建て、生活することで海を汚している。地元の人は失われていく自然を何十年も見て来ている。その人々を押しのけて後から来た私達が声高に「自然が大事」と主張するのはこっけいなもの。自然保護は、重要なことではあるが、立場をわきまえ、日頃からの交流を大切にし、地元の皆さんに受け入れてもらえる方法を考えたいもの。人・文化・自然、バランス良く大切に考えたい。

(2) 地元の声
  ① 石垣市は移住者が多く人口が増えている。移住者は我々が知らない市の良さを知っている。
  ② 建築ラッシュである。需要供給はどうなのか、既存のアパートの行く末が心配。建物が中・高層化しつつあり、トラブルが心配。
  ③ 海の見える高台周辺に住宅建築が目立つ。住む人は風光明媚で『癒し』系を思うが、逆に海から山を見る場合は『不自然』。
  ④ 地域行事に非協力的であり"権利と義務"の権利の主張が多い。
  ⑤ 石垣島は本土とは違った独自の文化、習慣を育み、街並みや料理、音楽、祭りなどがある。東京から大阪に引っ越すという感覚では困る。郷に入れば郷に従う心得が必要ではないか。
  ⑥ 逆説の沖縄

 金城朝夫(八重山在住ジャーナリスト)は、沖縄移住ブームにモノ申す!
 はっきり言おう「迷惑だから、勝手な幻想持ってくるな!」のテーマの結論として……
 沖縄と「本土」とでは文化も伝統も違う。もちろん違いは悪ではない。多様性が求められている時代なのだし、習慣や考え方の違う者が共に暮らすことを全て否定するつもりもない。
 しかし、「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように、一緒に住もうとする以上は、後から入ってきた者が先に住んでいた者のやり方にならうべきではないか。それが古今東西に共通する、世の習いではないか。しかし、八重山に住むナイチャーの多くは、地域との調和ということを全く考えていない。地元には地元の生活があるのだから、ここに住む以上は観光客気分でいてもらっては困る。沖縄に住むな、来るなとは言わない。それでも、自然だけを求めて、地元にとけ込む気持ちがないのなら、どうかその移住計画は思いとどまっていただきたい。

6. 光と風 ゆめみらい交流都市いしがき

 琉球王府時代から受け入れてきた移住者との問題は、多少の変化はあったものの、それらは島の文化にとけ込み、島独自の文化を守り発展してきました。おそらく島のキャパの範囲内の移住であったのでしょう。残念ながら現在の移住・流入は島のキャパを越えて進んでいくかも知れません。
 さて、石垣市は第3次石垣市総合計画基本計画プラン2010(2006年3月)(※後期計画)を発表しました。

● 「石垣らしさ」を未来へとして
 他府県からの「移住」に加え、半年から数年を本市で過ごす「ロングステイ」も増えています。
 恵まれた自然と豊かな伝統文化、観光リゾート地としてのブランドに加え、メディアが発信する様々な情報が「南国の楽園」イメージを形成し、顕著な傾向を示しています。
 今後とも、「訪れたい島・住みたくなるまち」としての“いしがきブランド”を高揚し、その可能性を大いに追求することで、一過性の「ブーム」から持続する「地域ブランド」へ、市民が住んでいることを誇れるまちづくりを進めます。そのためには、何よりも「石垣らしさ」を未来へ伝えていくことが重要です。
 「石垣らしさ」は、豊かな自然環境や景観、三線や舞踊などの芸能、伝統文化のみならず南国ならではの食材、健康、長寿、ホスピタリティ、市民の暮らしそのものも含めてとらえられ、それぞれの魅力を保ち続けていくことが必要です。このことは、市民の満足度をより高めると共に、地域ブランド戦略を形成するコンテンツとして相乗効果を生むことにもつながります。
 今こそ伝統文化の継承はもとより、地域を支える人材育成、磨けば光る未利用資源の発掘など総合的な取り組みが求められています。

と基本的な視点に立って計画をつくっています。

7. まとめ

 文化は最も広くとらえると、人間が自然との関わりや風土の中で生まれ、育ち、身に付けていく立ち居振る舞いや、衣食住をはじめとする暮らし、生活様式、価値観など、およそ人間と人間の生活に関わることのすべてのことを意味しますが、文化を「人間が理想を実現していくための精神活動及びその成果」という側面からとらえると、その意義については、次のように整理することが出来ます。

(1) 人間が人間らしく生きるための糧
   文化は、人々に楽しさや感動、精神的な安らぎや生きる喜びをもたらし、人生を豊かにすると共に、豊かな人間性を涵養し、創造力を育むもの。豊かで美しい自然の中で育まれてきた文化は、人間の感性を育てるもの。

(2) 共に生きる社会の基盤の形成
   文化は、他者に共感する心を通じて、人と人を結びつけ、相互に理解し、尊重し合う土壌を提供するものであり、人間が協働し、共生する社会の基盤となるもの。

(3) 人類の真の発展への貢献
   科学技術や情報通信技術が急速に発展する中で、倫理観や人間の価値観にかかわる問題が生じており、人間尊重の価値観に基づく文化の側からの積極的な働きかけにより、人類の真の発展がもたらされる。

 上記の様な文化の意義(文化庁)を鑑みると、島人も、移住者も全ての人々は、先人が残した豊かな自然環境や景観、歴史や伝統文化など貴重な遺産を受け継ぎ、これらを次世代に引き継ぐことが重要です。
 近年、我が国の外交において、経済発展が著しい近隣アジア諸国との関係が年々重要視されていますが、その諸国との友好関係を維持するするためには、国際交流を積極的に推進することが重要でしょう。
 石垣市は姉妹都市交流として台湾宜蘭県蘇澳鎮・米国ハワイ州カウアイ郡、親善都市に岡崎市、友好都市に稚内市、ゆかりの町徳島県の上板町、姉妹港に台湾花蓮港と交流を進めています。
 沖縄(八重山)の伝統文化は、多様性に富み、そのレベルや注目度は、全国一です。
 歴史的にも近隣アジア諸国との交易・交流の窓口となった「文化力」を発揮すれば、島人も移住者も一つになり、経済・産業が元気になるでしょう。
 文化の国際交流が"抑止力"となり平和につながることでしょう。