【自主レポート】

第35回佐賀自治研集会
第1分科会 住民との協働でつくる地域社会

 民間委託化の圧力が増している現業職場において、近年の市民ニーズの多様化にどのように対応して「質の高い公共サービス提供」をめざすべきなのか、新たな現業職を模索しています。本レポートは、新規採用抑制で職員の高齢化が進み、組合運動も低迷している状況の中でも脈々と受け繋がれている『小さな市民との繋がり』を大切にして進めてきた取り組みを報告します。



袖振り合うも多生の縁


愛知県本部/岡崎市従業員労働組合 向井 敦子

1. はじめに

 岡崎市従業員労働組合は、岡崎市の現業職場に属している技能業務職員で構成(正規職員416人、再任用44人)している労働組合です。
 組合綱領として下記に記載のとおり掲げて64年という長い年月の間、労働運動を進めてきました。

○我々は健全なる自主的組織を確立し労働条件の維持改善と福利厚生施設を拡充整備する事を規す
○我々は常に業務能率の向上技術の錬磨、品性の陶冶に努め、人格の向上と完成を規す
○我々は信義と友愛を以て民主政治の確立のために進んでその原動力となって平和に貢献する

 この取り組みは、まだ市民協働や社会貢献などの言葉がメディア等でも多く取り扱われない時代に、慈善事業と位置づけ高齢者そして小さな市民が生活している岡崎市に所在する施設に訪問を行ってきました。岡崎市従業員労働組合が、唯一形を変えながらも受け繋がれている取り組みです。
 施設に住んでいる子どもたちは、親がいなかったり虐待を受けていたりして親と離れて暮らしている子どもたちです。今、そのような環境にいる子どもは、4万人いると言われています。母子家庭などが暮らす施設も入れると20歳未満は4万6千人で同世代の子どもの全体の0.2パーセントになるそうです。この数字については議論しませんが、身の周りにこうした子どもがいる事を理解し、そして、この子どもたちへの社会的養護の一端を今後も担えていけたらと思います。

2. 施設訪問先の概要

 施設訪問がいつごろから始まったのかを調べようと退職者会の幹事の方から情報収集しようと問い合わせをしたところ「記録が残っていないから分からないが、自分が役員を受ける前からやっていた。」とのこと。旧執行部の役員にも聞き取りをしましたが同じ回答でした。両者の話から30年以上前から行われていたと推測されます。ただ、最初に施設慰問の取り組みを行おうと考えた事については不明のままです。
 施設慰問先として①高年者センター、②岡崎平和学園、③米山寮、④母子寮(現在は、いちょうの家)を訪問していました。
 訪問先の施設概要は次のとおりです。
① 高年者センター
  高齢者の介護支援施設で元気な高齢者から支援を必要とする高齢者が利用している施設です。
② 社会福祉法人児童養護施設 岡崎平和学園
  1953年に社会法人として認可され、乳児を除く18歳未満までの保護者のない児童、虐待されている児童、その他の環境上養護を要する児童(長欠児、貧困家庭児、監護不適応児、その他)を入園させ、集団的、個別的な生活学習指導を通じて社会の健全なる一員として活躍できる人を要請する事を目的とした施設です。定員70人
③ 米山寮
  ヘレンケラーが来日した際、名古屋で講演が行われ、その講演に感銘をうけた創始者が視覚、聴覚に障害を持つ子ども達がいきいきと暮らす事が出来る場所を作ろうと考え、盲ろうあ児施設を開設しました。1954年に社会福祉法人盲ろうあ児施設になり1963年に児童部門は廃止され、地域の要請から養護施設が新設されました。現在、盲児施設(定員17人、視覚障害を持つ子どもが入所して将来社会生活の中で生きていくのに必要な日常生活の援助や、訓練が受けられる施設)と児童養護施設(定員51人、様々な要因で保護者と一緒に本来の家庭で暮らす事が出来ない2歳から18歳までの子どもたちが暮らす家)、乳児院(定員20人、養護施設同様に本来の家庭で暮らすことが出来ない0歳から3歳まで子どもたちが暮らす家)の3施設に総勢90人の子どもたちが生活しています。
④ 母子寮
  母子生活支援施設で現在は『いちょうの家』と名称が変わっています。母子家庭(18歳未満の児童と母)で生活や児童の養育などで困っている方の施設です。
  施設の概要は以上です。

3. 活動内容

(1) 施設訪問
 今回のレポート報告は、私が調べて知り得た情報ですので実態と多少の疑義が生じると思われますが、私の視点からみたレポートという事でお許しください。
 社会貢献活動の一環として、岡崎市従労組・女性部が取り組んでいるお茶の斡旋事業があります。女性部員10数人で、商品の選択、注文書の作成、組合員の皆さんへの注文書の発送、集金、商品の注文、仕分け作業・配達までを行い、その売り上げの収益金を元に支援活動を進めてきました。
 1999年までは4施設を訪問し、収益金から購入したお菓子の詰め合わせを子どもたちに届けて来ました。2000年から、比較的環境の恵まれている高年者センターの訪問は中止して児童支援を中心に運動をしてきました。
 また、2000年頃米山寮は老朽化により新施設建設を余儀なくされていました。しかし、建て替えには莫大な資金が必要という事で建設資金を募っていました。子ども達が安心して過ごせる環境を整える力になればという事で、2000年から2008年までの9年間は、すべての収益金(総額776,120円)を米山寮へ届けてきました。【立派な施設が出来ました。(写真)】

2000年  50,000円
2001年  96,115円
2002年  111,055円
2003年  92,685円
2004年  92,310円
2005年  91,540円
2006年  86,035円
2007年  77,260円
2008年  79,120円

 2002年までは年末カンパ、お茶の斡旋の収益金等を義援金として寄付する活動で、子どもたちを支援してきました。
 2002年に執行委員長が交代した際に運動の見直しが行われました。委員長が、平和学園園長との話の中で、子どもたちと関わってほしいと話があり、タイミング的にも正月後であったことから、餅つきで交流しようと考えたそうです。ここから、もちつき隊・トン汁隊が誕生して活動が始まりました。
 当初のメンバーは、委員長、書記長、執行委員、そして、私は、トン汁隊要員で招集され、総勢8人程度で餅つき・トン汁隊がスタートしました。
 平和学園の子どもたちは、本当に人懐っこくて、抱きついてきたり、話しかけて来てくれたりと歓迎ムード満点でした。年1回の出会いでしたが年月の積み重ねの中で顔なじみになり、子どもから「覚えている?」と問われ「勿論G君だよね」と言うと、やんちゃな中学生になった少年も「俺も覚えている」と満足げな顔で近況報告をしながら餅つきを手伝ってくれた事は、私の良き思い出の一つです。
 餅・トン汁を食した後は、ドッヂボール・縄跳び・バスケット等次から次と子どもたちが誘う遊びに、体が悲鳴をあげながらも楽しい時間を過ごしました。
 平和学園から始まり米山寮、いちょうの家と餅つき隊・トン汁隊の活動を広め、子ども達との関わりを楽しみながら行ってきました。当初は執行委員中心でしたが、ボランティア隊として仲間を募集して10人程集まり活気ある活動になりました。
 この活動で施設内へ入ってみると壁は穴が開き、床は剥がれ、楽しそうに乗っている自転車は、パンクをしていたりと気になる所があちらこちらにありました。ボランティア休暇を利用して、日頃、業務で培った技術を余すことなく発揮して、補修を行ってきました。
 勿論、餅つき隊だけが日頃の技術を活用したわけではなく、豚汁も保育園給食で安全で美味しい給食を提供しているノウハウを駆使してアレルギーにも配慮し、衛生面でもしっかり対応して子どもたちに安心と安全のトン汁、餅を提供しています。味は、言うまでもなく、星三つです。
 また、青年部(現在は休部中)は平和学園の運動会・ドッヂボール大会に参加しました。他のボランティア組織も参加していて、ボランティア隊同士の交流が行え、また地域の子ども会・サッカークラブも参加しているので地域の方たちともよい交流を行う事が出来ています。これは、活動の副産物だと思います。
 私たちの活動が子どもたちの目にどの様に映っているのかわかりませんが、小さな市民の未来貢献として活動を進めていきたいと思います。
 餅つき・トン汁提供活動を行っていなければこんな偶然な話もないのです。
 女性部統一行動として毎年バスツアーを企画していました。そのバスツアーにバスガイドとして乗務してきたのは、いつも率先して餅に黄な粉をまぶしてくれていたA子ちゃん。そして、この日が、高校を卒業してガイドとして初乗務した記念すべき日でした。
 袖振り合うも他生の縁ですね。当然このバスツアーは盛り上がりました。

(2) その他の活動
 社会貢献活動として施設訪問以外には、連合愛知の1単組1環境行動中の取り組みから始まった環境美化運動を2000年から始めています。土曜日の6時30分から1時間、参加してからでも仕事に出勤出来る時間帯に菅生川河川敷清掃を行っています。100人近い組合員が参加しています。
 また、組合員が考案した廃棄物利用の『刺すまた』を組合員が日曜日に集まり作成しました。
 保育園職場の不審者対策として市内公立保育園35園に配布して子どもたちの安全を玄関の片隅で見守っています。

4. おわりに

 長い間、社会貢献活動が続ける事が出来ているのは、職場を守る為とかと言う概念もなく、真に組合員一人ひとりが子どもたちのためと思って活動をしてきたことによるものだと思います。
 そして、今後もこの姿勢を持ち続けていければと思います。
 地域協働などは、最初から形が出来るものではなく、何かの付属でついてくるものなのかなとこのレポートを書きながら思いました。