1. ダム建設予定地「川原(こうばる)」
石木ダム建設予定地、東彼杵郡川棚町岩屋郷川原地区を流れる石木川。その川の傍にデンと建っているこの櫓は昭和50年代初めに建てられたものらしい。古くなって文字や絵がかすれたり台風で飛ばされたりすると、何度も補修され描き変えられている地域のシンボルである。
それにしてもなぜ「三猿」の絵なのか? それは、当時反対住民の団結を切り崩そうと近づく県職員に対して、一切何も「聞かない」「話さない」という意思表示と共に、職員と話している仲間がいても「見ない」、見ると疑心暗鬼になるだけだから……そんな切なる思いが込められていたという。
また、この櫓からもう少し下流にある通称「ダム小屋」と呼ばれるボロボロの小屋は、当時県職員が地域に入っていくのを監視するために建てられたものである。以来ずっと川原の「ばあちゃん」たちは毎日ここへやってくる。今では見張りというよりも弁当持参の井戸端会議のようだが、この変わらない日常が川原の絆の強さを支えている。
そのばあちゃんたちも今では3人になってしまった。ダムに翻弄された半世紀の歳月、苦しみを分かち合った姉妹のような仲間が一人、また一人と旅立ってゆき、小屋はだんだん寂しくなってきた。
しかし、ばあちゃんたちの思いを受け継いで、2代目の子どもたち(といっても今や熟年世代)、3代目の孫たち(20~30代)も「ふるさと」を守りたいと頑張っている。その数13世帯60人。このように大勢の住民が水没予定地に暮らし続けた例は、この国にかつてない。この強固な団結力はどこから湧いてくるのか。原点は、32年前の強制測量に遡る。
1982年春、測量に反対して座り込む住民を排除するために、県は機動隊を導入した。住民は男も女も子どもも一丸となって抵抗した。女たちは数珠を握り締めて念仏を唱え、子どもたちは「帰れ、帰れ!」と必死に叫んだが、屈強な機動隊員によって次々とごぼう抜きされてゆき、大地には測量の杭が打ち込まれた。 |
その子どもたちの中の一人は、今や4人の子を持つ親となり、2013年3月に行われた公聴会の場でこう語った。
「僕らはただただ怖くて怖くて……。でも大人達は杭を打たせまいと必死で、この土地を、僕らを守ろうと立ち向かいました。じいちゃん、ばあちゃんも道路に座り込み、道を開けようとはしませんでした。そんな大人達の姿を見て僕たちも自然と手をつなぎ、震える手に力を入れ帰れ! 帰れ! と力の限り叫び続けました」。そして、「僕らはただ生まれて育ったこの土地に住み続けたいのです。この大好きな自然を僕らの子ども達に残したいだけなんです」と涙ながらに訴えた。
この公聴会は「土地収用法」に定められた「事業認定」の手続きに則って、2013年3月九州地方整備局が主催したものである。そして同年9月6日、石木ダムの事業認定が告示され、強制収用への扉が開かれた。
2. 強制収用への道
(1) 土地収用法
私たちの暮らしには、道路や橋やごみ処理場など様々な公共事業が必要とされ、その事業を遂行するためには用地を取得しなければならない。中にはどうしても地権者の同意が得られず、強制的にその土地を取得する必要もある。しかし、個人には憲法が保障する基本的人権としての財産権があり、公共事業のためであっても無闇にその権利を侵すことはできない。そこで、その事業の必要性や公益性、また正当な補償などについて慎重に判断し、土地の収用を実現できるよう定められたのが「土地収用法」である。
土地収用法は、「事業認定」と「裁決」の二段構えになっている。事業認定とは、その事業が本当に公益性の高い必要な事業であるかどうかを判断するための手続きであり、事業認定庁と呼ばれる第三者機関で行われる。裁決とは正当な補償額や土地の明け渡し時期などを確定することであり、都道府県におかれている「収用委員会」で審理される。そして、地権者が最後まで土地の明け渡しを拒否した場合には行政代執行により、強制的にその土地が収用される。それが「強制収用」である。
(2) 石木ダム事業におけるこれまでの流れ
長崎県はこの法律に則って2009年11月、石木ダムの事業認定を国(国土交通省九州地方整備局)に申請した。ところが、同年誕生した民主党政権の「コンクリートから人へ」という政策理念のもとで始まったダム検証により、事業認定の作業は中断された。2012年6月ようやく検証が終わり、石木ダム事業「継続」の方針が示されたが、そこには国土交通大臣により「地元の理解を得るように努力することを望む」という異例の意見が付され、事業認定作業は中断されたままだった。
2012年末、自民党が政権に復帰したとたん作業が再開され、2013年3月、国交省九州地方整備局による公聴会が開催された。前述の地権者男性による意見陳述はその時のものである。6月には第三者機関である「社会資本整備審議会」で公益性についての意見聴取を終え、9月6日ついに事業認定が告示された。
この間の流れを年表にすると次のようになる。
2009年9月 民主党政権誕生
2009年11月 長崎県、国土交通省九州地方整備局へ事業認定申請
2010年9月 国土交通省、長崎県に対し石木ダム事業の検証に係る検討を要請
2011年7月 長崎県、石木ダム事業再検討の結果「事業継続」の方針を国に報告
2012年6月 国土交通省、石木ダムの事業継続を容認
2012年12月 自民党政権復活
2013年3月 佐世保市、石木ダム事業の再評価結果(事業継続)を厚労省に報告
2013年3月 国土交通省九州地方整備局、事業認定手続きの公聴会開催
2013年6月 社会資本整備審議会公共用地分科会において意見聴取
2013年9月 国土交通省九州地方整備局、事業認定を告示
(3) 今後の流れ
裁決の手続きは収用委員会によって行われる。県は、原則として事業認定告示日から1年以内に同委員会に裁決申請しなければならない。それを過ぎると認定は無効となってしまう。
事業認定の告示(九州地方整備局)2013年9月6日
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土地調書・物件調書の作成(長崎県)
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収用裁決・明渡し裁決申請(長崎県→収用委員会)~告示日から1年以内
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公告・縦覧(収用委員会)~申請書の写しを2週間公開
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収用委員会審理(県と地権者双方の意見を聴取)~損失補償額など
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裁決(収用委員会→県と地権者)~所有権取得、明け渡し時期など
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強制収用(行政代執行)
告示後、地権者は「事業認定されても我々の意思は微動だにしない。これからも今まで通りここに住み続けていく」とコメントした。一方、中村法道長崎県知事は「今後は強制収用も選択肢として有り得る」と述べ、初めて強制収用の可能性を認めた。
2010年県知事選アンケートにおいて、事業認定されても地権者の同意が得られない場合は「強制収用はしない」と答えていた中村氏だったが、2期目の現職となった今では考えが変わったのだろうか。
3. 石木ダム事業認定の問題点
図1 佐世保市水道の工場用水の実績と市予測 |
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強制収用に関しては地権者以外にも県内の4つの市民団体が数年前から反対の声をあげていたが、事業認定告示後はこれら県内団体だけでなく、全国組織の「水資源開発問題全国連絡会」や、九州、関西、中部、関東など全国各地の市民団体から抗議声明が九州地方整備局に送られた。また、石木ダム事業認定の取り消しを求め、160人もの人々が行政不服審査請求を国土交通大臣に提出した。
事業認定に関し、このように多くの抗議声明や審査請求が出されることは甚だ異例である。石木ダム事業認定のどこに問題があるのだろうか。
(1) 石木ダムの必要性について
最も多くの人が疑問視しているのは石木ダムの必要性である。治水面でも利水面でも共に根拠が希薄である。
治水については、川棚川河川改修によって、新たにダムを造らなくても過去の洪水被害はほぼ防げる状態になったことは県の河川課も認めている。にもかかわらず、100年に一度の洪水に備えるべきとして過大な基本高水流量を設定し、ダムの必要性を訴えている。しかも、100年に一度の洪水対策を計画するのは石木川合流地点より下流の川棚川についてであり、合流地点より上流においては30年に一度の洪水対策しか計画されていない。これでは石木ダムを造らんがための河川整備計画と言われても仕方ない。
利水についても、佐世保市の近年の水需要は減少の一途を辿っており、今後の水需要が急増するという予測は全く説得力を持たない。125人の科学者からなる「ダム検証のあり方を問う科学者の会」は、2013年3月に佐世保市が厚生労働省に提出した石木ダム事業の再評価について検証した結果、「将来の水需要予測も安定水源の評価もいずれも現実と遊離したものであり、40,000m3/日の新規水源が必要だという前提そのものが虚構です」として、水需給計画を見直すよう意見書を提出した。特に工場用水はわずか6年間で3.7倍になると予測をしており、「極めつけの虚構」と評している(図1参照)。また同会は11月には、県知事あてに「石木ダム事業の再考を求める要請書」を提出している。
(2) 活かされなかった社会資本整備審議会の意見聴取
土地収用法第25条の2には「事業の認定に関する処分を行おうとするときは、あらかじめ社会資本整備審議会の意見を聴き、その意見を尊重しなければならない」とある。石木ダムの場合も同審議会の公共用地分科会に意見聴取しているが、残念ながら、委員の意見が活かされたとは思えない。その議事要旨を閲覧すると、委員から出された意見は、いずれもダムの必要性に懐疑的なものばかりであった。
(http://www.qsr.mlit.go.jp/n-shiryo/tochi/130906syakaisihonseibisinngikaigijirokuyousi.pdf)
にもかかわらず、同審議会の結論としては、「事業の認定をすべきであるとする九州地方整備局の判断を相当と認める」との結論が示されており、同会への意見聴取が形骸化されているように感じられてならない。
(3) 失われる利益
同法第20条には事業認定の際の要件として合理性、公益性が述べられている。つまり、得られる利益と失われる利益の比較考量によって、収用される者の権利が、その事業によって必要以上に制限されることのないよう、判断が求められている。
ところが、九州地方整備局が示した失われる利益には、13世帯60人の人々が失う利益については何も言及されていなかった。環境省のレッドリストに掲載されている11件の動植物(ハヤブサ、カスミサンショウウオ、ヤマトシマドジョウ、ヒメウラジロなど)の存在と移植などの対策を述べ、「本件事業の施行により失われる利益は軽微であると認められる」と結論付けていた。
(http://www.qsr.mlit.go.jp/n-shiryo/tochi/130906jigyouninnteikokuji.pdf)
先祖代々愛情込めて耕してきた田畑、住み慣れた家、固い絆で結ばれた地域のコミュニティ、それらがすべて奪い取られるのだ、私たちの失われる利益は何一つ認められないのか、それは動植物以下なのか……と地権者たちは憤り、そして肩を落とした。
また、石木川の清流を失うことへの不安を感じる県民もいる。大村湾で漁業を営む人々である。石木川の清流は虚空蔵山の森の恵みを大村湾に注いでいる。ダムができたことによって、水量や水質がどのように変化するのか、それが大村湾の生態系にどう影響するのか、心配だと言う。県が行った環境影響評価は全く不十分なものだったと環境カウンセラーも指摘している。
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雨の中、工事阻止のため座り込む住民 2010.4.22 |
(4) 社会的混乱
同20条について小澤道一著『第二次改訂版 逐条解説土地収用法』には、次のような注解が示されている。
「係る事業について土地利用上の合理性や公益性が十分認められる場合でも、当該事業に対して激しい社会的な反対運動があり、事業認定をすれば極めて大きな社会的な混乱が予見される場合に、事業認定の時期を遅らせても事態の改善がないときには、認定拒否をすることに合理性を認めざるをえないこともあろう」
冒頭に述べたように石木ダムの歴史はたたかいの歴史であった。どんなアメやムチにもびくともしない強固な意志で行政と対峙してきた人々だけが今も残っているのである。4年前の付替え道路工事の時も、毎日朝から夜まで住民が交代で阻止行動を続け、県はとうとう工事を中断せざるを得なくなった。もしも再び強制収用のような事態に至れば、間違いなく体を張ったたたかいが始まり、流血の事態も予測される。そのようなことが何も考慮されなかったのは、地元を熟知していない認定庁の判断の甘さだったと言わざるを得ない。石木ダム推進派の議員や職員の中にも、強制収用だけは避けたい、それを止めてくれることを認定庁に期待していたのに……との本音が漏れ聞こえてくる。
(5) 行政による契約違反
事業認定そのものの問題点ではないが、事業認定を申請した県に対して契約違反の疑いが指摘されている。公共事業の見直しに関して様々な提言を行っている「日本弁護士連合会」は、石木ダム事業に関し2013年2度にわたる現地調査とヒアリング(県、佐世保市、住民)を実施。その結果を意見書としてまとめ、同年12月19日に県と佐世保市に提出した。
(http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2013/opinion_131219_4.pdf)
そこには結論として「石木ダム計画は中止されるべきである」と書かれ、理由の一つとして、「長崎県が契約違反により進めてきた石木ダム事業計画を継続することは法令順守の精神に反し、行政への信頼を損なう結果となり、是認することができない」と指摘されていた。
ここに記された契約とは、1972年7月29日に県が地元住民代表(総代)と交わした覚書のことをいう。そこには「ダム建設の必要が生じた時は、改めて、甲(住民)と協議の上、書面による同意を受けた後着手する」と書かれていた。
(http://www1.bbiq.jp/ishikigawa/shiryou/oboegaki.pdf)
つまり地元の了解無しには事業は進めないとの約束であったが、その約束を無視して県は事業認定申請をしてしまった。これは法令を順守しなければならない行政に許される行為ではないとして、日弁連は石木ダムが中止されるべき理由の1つとしてあげたのである。
4. 公共事業に求められるもの~法・理・情
かつて下筌ダム建設に反対するため「蜂の巣城」を築いてたたかったことで知られる故室原知幸さんは、「公共事業は法にかない、理にかない、情にかなうものでなければならない」という名言を残した。
石木ダムの場合、前述の契約違反により、法にかなっているとは言えない。また「ダム検証のあり方を問う科学者の会」が指摘したように、虚構の水需要予測によって利水の必要性を唱えており、理にもかなっていない。では、情はどうか? 1994年の大渇水の頃は佐世保市の厳しい水不足に同情する県民は多数いた。市民への同情から石木ダムを必要とする考えは、当時は情にかなっていただろう。しかし、昨今はそうではない。昨年の猛暑による渇水の時、県内の大村市ではダム貯水率が50%となり対策を迫られていたが、佐世保市のダムの貯水率は80%以上を保ち何ら対策の必要はなかった。佐世保市民への同情論はもはや過去のものとなっている。
このように見てくると、石木ダムは法にも、理にも、情にもかなっていない。公共事業の資格を欠くものになってしまったのではないだろうか。いや、おそらく石木ダムだけではないだろう。日本全国いたるところに公共事業に値しない事業が多数存在し、しかしながら、それが雇用や経済活動のために必要とされる場合も少なくないのかもしれない。たとえそれが一時的な経済効果しか得られなくても。
5. 失われる利益
そこで忘れてならないのは、「失われる利益」の存在である。事業によって「得られる利益」とのバランスを考えることが重要である。もしもそこに失われる利益がほとんどないのなら、あまり意味の無い事業であっても雇用創出のために実施する場合もあるかもしれない。しかし、もしも失われる大きな利益があれば、それは考え直す必要があるだろう。
ところが、その利益の大きさに私たちは案外気づかないことが多い。あの福島原発事故で帰るべき我が家、ふる里、コミュニティを失って途方に暮れる人々を見て、私たちは初めてそれがどんなにかけがえの無いものであるか知った。いや、まだ本当には知らない。当事者ではないから。やはり、自分の身に及んで初めて痛感するのだろう。
石木ダム建設予定地に住み続けている60人の人々は、それをよく知っている。そのかけがえのない大切なものが失われるかもしれないという不安に怯えながら何十年も生きてきた。そして、その不安が日に日に現実味を帯びてきつつある今、私たちはその「失われる利益」についてあらためて真剣に考えるべきではないだろうか。
石木川にダムを造るということは、石木川の清流を失うことである。地権者だけの問題ではない。流域のあらゆる生態系を狂わせ、川棚川の水質悪化を招き、それは大村湾へも影響する。閉鎖性の高い大村湾において、その影響は決して小さいとは思えない。
いま日本で初めてのダム撤去が熊本県の荒瀬ダムで進行中だが、ダムゲートが開放されてからは水流が戻り、アユの産卵場となる「瀬」が徐々に復活、干潟では「ミドリシャミセンガイ」など絶滅危惧種が回復し、天然ウナギなどの漁獲量も増加、河口では天然アオノリの生育も良くなっているという。自然の流れがもたらす恵みの大きさにあらためて驚かされるが、この利益はまさに地権者のものではなく、球磨川流域の住民、そして熊本県民みんなの利益だったのである。
また、諫早湾干拓事業によって失われたものの大きさは、長崎県民のみならず、有明海沿岸の佐賀、福岡、熊本県民の多くが知っている。有明海の子宮と称された広大な干潟を失ったことにより、漁業やノリ養殖業に甚大な被害をもたらした。有明海再生のためには一日も早い開門が望まれる一方で、干拓地の営農者は、開門は農業への被害が起きるとして反対している。漁業者と農業者の板挟みになって苦慮している国は、自らが起こした公共事業の過ちをいま痛感しているに違いない。しかし、そのツケを背負わされ実際に苦しんでいるのは漁民である。
自然を壊すのはたやすい。しかし戻すのは難しい。だからこそ公共事業は強行してはならない。まずは反対する地元住民の声には真摯に耳を傾けるべきである。なぜなら地元の環境について一番分かっているのは地元の人々だから。たんなる住民エゴによる反対なのか、その地域の真の価値を知っているが故の反対なのか、とことん話し合えば見えてくるはずである。その上で事業認定がなされるべきである。形式的な手続きと化してはならない。「失われる利益」について十二分に調査し検証するべきである。それを経ずして安易な強制収用など断じてあってはならない。
石木ダムの場合には60人の営みがそこにある。強制収用されれば、3世代、中には4世代が同じ屋根の下で暮らしている13軒の家が取り壊され、丹精込めた田や畑が水底に沈むことになる。それは戦後民主国家としての道を歩んできたこの国にとって、前例のない事態となるだろう。32年前の強制測量とは比較にならないほどの苦い歴史を県政に刻むことになる。その覚悟が県や県議会にあるのか、今一度石木ダムという公共事業について、真剣に考えるべきである。今なら、まだ間に合う。
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