1. 東日本大震災の被災地の現状
2011年3月11日に発生した東日本大震災による被災者は、死者・行方不明者1万8千人余り、負傷者6千人といわれています。津波によって住居を流された人たちの多くは、今も仮設住宅に暮らし、災害を避けて高台への移転計画も進んでいません。そして、福島第一原発事故の発生は、さらに被害を拡大し、未だに福島県内と県外を合わせて15万人もの人が避難を余儀なくされています。
2. 気仙沼市における被災当時の職員の対応
気仙沼市での状況は、『3月11日午後2時46分地震発生、直後に停電、情報が遮断。大津波警報発令。午後3時15分過ぎに大津波が襲来し、市内各所で火災が発生。完全鎮火は1週間後。市役所の災害対策は指揮系統が麻痺し、地域防災計画どおりの配備とならず、本庁、総合所、出張所間の通信が遮断。本庁職員は全く状況把握ができず、初動体制に入れたのは夜9時以降。その晩は、"動ける人"が避難所や被災現場に配置され、それ以降、ずるずると配置がされていった。3月中は全職員が不眠不休で災害業務にあたり、全く自宅に戻れない職員もいた。』ということです。
当時の主な災害救助業務としては、避難所の設置・運営、物資配送、炊き出し、死体処理(搬送、安置、土葬、改葬)を行いました。そして、現在も行っている災害対応業務は、死亡届受付、罹災証明発行、支援金交付、義援金交付、がれき撤去、減免申請、(仮設)住宅対応、集団防災移転などです。(※全職員の約3割が被災)
3. 災害救助の状況
大きな揺れと直後の大津波で、通信も電気も切断され、何が起こっているのかわからないパニック状態となる中、自治体職員はとにかく『今いるところでできることをする』という状況だったそうですが、指揮系統が麻痺し、避難所の運営がうまくいかないところも多かったそうです。
避難者の支援では、「避難してきた住民に食糧を配っていたけれども食糧が不足していてどのようにして分けるかで苦労した。」「救護担当として行ったが、毛布を出したり、救護用具を出したりしたが、何をしていいのかわからなかった。」「炊き出し担当課になったが、最初は何が何だか分からず、ご飯がおかゆになったり、かたかったりで大変、後から管理栄養士が中心になり助かった。」「食料やガソリンなど様々な問い合わせがあった。」「(誰に聞けばいいのかわからないので)被災者は職員と思われる人に聞いていた。」など、混乱していたそうです。被災した遺体が安置所に運ばれると、「検案書作成のために警察が来庁し、その受付をするために戸籍のわかる職員が呼ばれて安置所で業務を行った。」「死亡届が多く斎場が受け切れず順番待ちとなり、気仙沼市ではとなりの一関市の斎場でも受け入れてもらったが、通信機器が使えないため、バイクを使って連絡を取りながらの対応だった。」「仮埋葬を行い、斎場が空くと、抱きかかえて遺体を掘り起こして遺族にかえした。」など、報道では伝えられていない大変な業務も行っていたそうです。
窓口では、罹災証明の発行や減免などの申請がとても多く、被災住宅などの基礎の解体撤去などによる申請も増えてきて、現在も他自治体からの派遣職員が業務の支援を行っています。
4. 職員の状況
自らも被災しながら支援にあたった職員自身は、「避難者優先で、食べるものがあまりなかった。」「家族の安否がわかったのが4日後だった。」「家に帰れたのは3週間後だった。」「机や床に新聞紙や段ボールを敷いて寝た。」「家に帰ったときは津波で家がまるごと流されていてもう何も残っていなかった。」など、自分の人権を後回しにして、一生懸命被災者の支援にあたっていました。
5. 避難所生活からの課題(避難所生活者の声)
(1) 職員の立場から
「避難所で、自分の判断で動くと『勝手にするな』と言われ、指示がないと動けなかった。」「物資が届いても、避難者が来ても上司からの指示がないとどうにもならなかった。」「防災センターの車庫とかに避難者が来ても、上司から避難所ではないから断れと言われて断ったが辛かった。」「病院や自衛隊はローテーションを組んでさっさと行っていたが、自分たちはバラバラだった。」
(2) 女性の立場から
「1日目はみんなパニックで、毛布の支給にすごい人が群がり、足りなくて新聞紙を体にかけた。」「2日目に『一人一個を小さい子どもさんやお年寄りから配ります』とお菓子や食料をボートで配布されたが、空腹で待ちきれない大人が『早く配れ』と言ってどんどん押して行った。」「生理が始まり、一人1個の配付で困り、猫のトイレシートを持ってる人に分けてもらった。」「男性からはナプキンを『何時間持たせろ』とまで言われた。」「生理用品を男性にはもらいにくかった。運営側に女性がいてほしかった。」「物資では女性用の下着が困った。」「下着は物干しに干せなくて困った。」「自衛隊が下着を運んでくるので、サイズの要望をまとめるために、女性避難者から聞いてほしいというのがあった。女性のリーダーが必要。」「妊婦さん用の下着もなかった。」「ブラジャーならなんでもいいということではなく、サイズがあわないといけない、でも言いたくない。」「女性のリーダーがいないと男性ではわからないことや言いにくいことがいっぱいあった。」「動かないのに口だけ出す男性への女性たちの不満、黙って自分たちのことを聞いていればいいのに勝手なことをするという男性の女性に対する不満があり、溝ができた。」「運営がスムーズにいったところは女性たちが中心になって動いたところ。」「女性がさらわれる事件があり、夜トイレに行くときは2人で行った。」「子どもの夜泣きで避難所から、電気も水もない自宅に帰った。」「母子家庭は、子どもを抱えて物資をもらいに行かないといけない。」「水分を取れず母乳が出なくなった。」「隠れて母乳をあげた。」
(3) 障がい者の立場から
「県庁で『パンを配ります。』と言われたが車いすで並べない。」「障害があっても配慮してもらえない避難所。障害がある人をどうやって支援していこうということがない。」「事業所とヘルパーさんと障害者が災害マニュアルを共有できていない。」「指定避難所に行くには、道路は狭いし、亀裂もいっぱいだし、車も多いし、砂利道は車いすではだめです。」「避難所に車いす用のトイレがあるかわからないから行かない。」「障害を持った人たちへの支援は一切ない。名簿みたいなものは有るんだと思うが。」
(4) 子ども、高齢者、病気を抱えた立場から
「子どもには2人でおにぎり1個とか小さい子どもはいいでしょうとか言われ、食べ物の配布が少なく、子どもへの配慮もなかった。」「日赤病院で大丈夫とされた人が避難所につれて来られ、施設への入所依頼があるが、避難所では病状などまったくわからず憤慨。避難所の職員は何をしていいのかわからないというような放心状態。」「避難所では自衛隊の人たちは若い人たちだから、料理の味がしょっぱいなーと思った。血圧上がった。薬飲んでたけど100日以上いるし、結構しょっぱかったんだね。バランスも良くなかったんだね。野菜物も少なかった。」「自分から声を出さないともらえない。」「避難所の学校に何日も親を待つ児童がいた。両親が市の職員ということで、我慢を強いられている姿に心が痛んだ。」
(5) 専門的知識の面から
「水がないので手も洗えず、発熱、おう吐、下痢など感染症が広がり、看護師としては問題がいっぱいで、言いたいことが沢山あった。」「慢性疾患は悪化していき、インフルエンザが流行り、がれき処理等の影響で環境が悪く、せき込む人が増え、ぜんそくや肺炎になる人もいた。」「避難所の健康状態の管理に、大阪の保健師が『自分たちは経験しているので自分たちでやります』と言ってもらい助かった。薬の渡し方や受診の介助方法など細かくアドバイスと指示がもらえて助かった。」
「プレハブの調理室を各避難所につくって女性たちが朝と夜調理を担当したが、栄養士のいない避難所は、栄養のバランスを考えてメニューを考えるのが難しい。」「保育士さんの案で共有スペースを体育館とは別の場所につくって、テレビを置き、畳を敷いておもちゃを置いたり、パソコンや椅子も置いて、くつろげるようにした。」
「ボランティアが心のケア、ストレッチ、マッサージに来てくれてよかった。」「化粧品会社がフェイスマッサージと化粧に来てくれて内面からいきいきとして、こういうこともとても大切なことと思った。」
(6) メンタル面から
「ひと段落ついたあたりから、人と会ったり話したりすることが辛くなった。眠れない、心の余裕がない状態で、吐き出す場所もなく、悶々として情緒不安定になった。」「トイレに行けなかったことで1年くらいトイレが近い。」「少しずつしか食べることができず、子どもは朝食後すぐに『おなかがすいた』と食べたがるようになった。ストレスから、食べることで満足している。」「大人も気持が落ち着かなくなってきている。」「津波の惨状を見て心的外傷ストレスを受けた子どももいる。」「避難所で住民との間でストレスを感じ、病んでやめた職員もいる。」
(7) 外国人の立場から
「日本語ができないのでどうすれば物資をもらえるのかわからなかった。」「情報も外国の人同士での交換。」「子どもたちの勉強を見てあげることができない。」「田舎では隣近所の人が声を掛け合ってもらい良かったが、避難所ではばらばらで孤立感を感じる。」
(8) 施設の面から
「トイレがすごかった。絶対数が足りない。」「仮設のトイレが2週間くらい経ってから設置された。」「更衣室がなくて着替えができなかった。」「洗濯機を何人もで要望したが、ついたのはずいぶん後だった。」「子どもも年寄りも犬も猫もみんな同じ教室にぎゅうぎゅう詰めで、子どもがいる人は気を使うし、年寄りは横になれなかったし、着替えもできなかった。」
6. 災害救助対策を考える視点
① 災害時の救助対策としての避難所は、一時的な居場所として考えられ、指定されていることが一般的ではないかと思います。今回の東日本大震災では、多くの避難所がとても長期にわたって開設されていました。そこでは、普通の日常生活を過ごすのに必要な物資や施設環境、そして人間関係が求められました。一人ひとりの人権が守られ、尊重されるそんな空間・環境が求められていたのです。
② また、同時に救助対策を考えるために最低限必要なことも明らかになりました。
ほとんどの避難所は、そこに避難してきた被災者自身が班をつくり、役割分担をして運営されていました。しかし、そこのリーダーに女性が加わっていたところは少なかったため、女性が声を出すことができにくい状況でした。強く主張し行動する強者と遠慮して声を出さない女性や障がい者、高齢者や子どもなどの弱者の間の不平等が顕著だったようです。また、多数の人が同じところに集団で生活するためには、衛生面の対策をはじめとして、必要最低限の対策とそのための専門知識を持った人の配置や関係機関との連携など、生活の視点での対策が必要でした。
③ 避難所担当になった自治体の職員は、指示のもとに行動することが求められていましたが、実際には、マニュアルどおりの職員配置も対策も取れる状況ではありませんでした。災害緊急時がどんな状況になるのかは常にわかりません。さまざまな状況にある人の救助を基本として対策を考えていくことが必要ですが、行政単独で災害対策計画を作っていても、それが地域住民と共有できていなければ、うまく被災者の救援につながらず、弱者を取り残すことも証明されました。
7. 自治体行政と地域住民のかかわり方
『住民の生活を守る』役割を担う自治体行政は、常に住民が人権を守られ安心して生活できるように政策を進めていく必要があります。今回の被災者への救援対策が、依然として弱者の視点に立ったものになっていないことが証明されましたが、それは、それまでの日常の行政のあり方が反映されたものと言えます。また、自治体の独りよがりの上から目線の政策であることも証明されました。
住民が主体的に考えていけるよう、自治体はサポートをきめ細かく行っていく必要があります。そのためには、自らが一人の住民であることを自覚し、地域の一員として行政を考えていき、自分自身が受け手であることを考えて、自らを犠牲にするのではなく、担い手も含めて、住民の福祉が向上するような政策を行っていくことが求められていると考えます。日々の生活を原点とし、住民とともに考えて進めていく行政としなければならないと思います。
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