1. はじまり
(1) 桃の伝十郎とは
① 川崎市と川崎区について
川崎市は、神奈川県の北東部に位置し、東京都との境を流れる多摩川の中流域から河口域にその流れに沿うように細長い地形となっています。市域の南東部を中心に平坦な土地が広がる一方で、北西部は多摩丘陵の先端部にあたる丘陵地となっています。
市の行政区は7区(川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区、麻生区)あり、市域面積は142.70平方kmと政令指定都市20市のうち最も小さく、東京と横浜市の間に隣接していることから急速に都市化が進んだ歴史をもっています。川崎区の臨海部においては、古くは近郊農業としての果樹園が、近代以降は重化学工業を中心とした産業が集積し、日本経済の発展を牽引してきました。その一方、急速な環境悪化を招き、大気汚染や水質汚濁などの甚大な公害問題が起こりました。各企業や行政などは様々な取り組みを行い、公害を克服する過程で高い環境技術を蓄積してきました。近年は最先端の環境技術を持つ企業等の集積がなされるようになっています。
|
【写真】羽田空港国際ターミナル付近上空から川崎駅周辺地区を望む(川崎市撮影) |
② 川崎の果物
川崎市域は江戸時代からウメ・梨・柿など様々な果物が栽培され、消費地江戸近郊の産地として知られていました(桃も江戸時代から栽培されていましたが、この頃の桃は今のようないわゆる洋桃ではありませんでした。)。
今でこそ川崎で果物といえば北部の多摩区から隣接する稲城市にかけて広がる梨園が有名で、夏から秋にかけては、梨のもぎとりや直売が盛んですが、昭和のはじめぐらいまでは、多摩川が運ぶ滋養の高い土壌に育まれ、市内各地で果樹栽培が盛んに行われていました。それを象徴しているのが、1928(昭和3)年に川崎区港町の多摩川べりに造られた川崎河港水門(国登録有形文化財)です。水門頂部の彫刻は、当時川崎で栽培されていた梨・葡萄・桃が盛られた籠を表現しています。
③ 伝十郎桃とその歴史
川崎区大島の大島八幡神社本殿の前に「温故知新」の碑が建立されています。この碑文によれば、1868(明治元)年に横浜の外国人を通じて洋桃が輸入され、大島村では競って栽培を試みましたが成功しなかったといいます。ところが1896(明治29)年に吉沢寅之助という人が30有余種を交配した末に1品種を発見し、先代傅十郎の一字を冠し、「伝桃」と命名したとのことです。これが大島村の地味に適し、栽培法が容易と見え、栽培者が激増し、市場における名声を得るに至りました。1914(大正3)年には皇太子殿下に献納する栄誉をいただいたことから、これを記念し、植桃以来の沿革を録する碑を建立したということが記されています。
100年前、幾多の苦難の末に発見された「伝桃」は、その後改良を重ね「橘早生」となり、さらに日本を代表する銘柄である「白桃」・「白鳳」、そして今日の福島名産となった「あかつき」・「ゆうぞら」へとつながっていくことになります。
明治の末から大正の初め、川崎区の多摩川沿い一帯は桃の里だったといいます。伝十郎桃は梨の「長十郎」と並んで川崎を代表する果物として盛んに栽培されましたが、大正に入って、セメント工業の進出とその降灰害などにより果樹園が打撃を受けるようになると、桃の栽培は大師河原、中原、そして北部へと移っていき、残念ながら川崎から桃は姿を消してしまいました。
(2) きっかけ
2005年に東大島小学校は創立50周年を迎えました。当時同小に勤務していた上田正昭教諭は伝十郎桃の由来を調べていましたが、大正の末期に大島から姿を消したはずの伝十郎桃が、多摩川上流へと移っていき、川崎市フルーツパーク(現・経済労働局農業技術支援センター)で花桃の木に接木されて保存されていることが分かりました。そこでその穂木(ほぎ)をフルーツパークより譲り受け、校庭にある花桃の台木に創立50周年記念事業として接木することにしました。
この接木は成功しましたが、残念ながら花は咲きませんでした。理由は、台木とした花桃が老木で力がなかったためと考えられました。しかし、これがきっかけとなって、地域、学校、市職労、農業技術支援センターが協力して伝十郎桃を復活させようという取り組みが始まりました。
2. 復活に向けて
(1) 取り組みの経緯
① 市職労の参加
川崎区選出の飯塚正良市議会議員(市労連特別執行委員)から伝十郎桃の話を聞いた川崎市職労の当時の多田委員長(教育支部出身)は、教育支部学校部会に働きかけ、1校だけでない、部会川崎班全体での取り組みに広げました。学校部会では、市職労自治研活動への参加の一環として、ゴーヤなどのツル性植物を使用した「緑のカーテン」の取り組みを中部・北部の学校を中心に行ってきた経緯もあります。また、教育支部としては、学校用務員が全体で培ってきた経験的専門性が伝十郎桃の復活のために活かされることで、職能継承の必要性をアピールする機会になるのではという思惑もありました。そして、具体的には、農業技術支援センターの協力を得て、川崎区内の10の学校で接木が行われることになりました。
② 経済労働局の協力
2008年からあらためて始まった取り組みでは、東大島小での反省を踏まえて、伝十郎桃の接木に先立ち、台木となる木を植えることから始めるよう、農業技術支援センターの職員から助言がありました。
伝十郎桃の復元はセンターの協力なしではありえませんでした。農林水産省関係の試験研究機関から伝十郎桃の穂木を取り寄せ、センター職員が接木をしましたが、貴重な穂木を手に、大変緊張を強いられる作業だったと思います。
接木した後は学校用務員が追肥や剪定、害虫駆除のための葉むしり、摘果などの世話をしてきました。
③ 飯塚市議の役割
議員の立場から地域のいろいろなところで伝十郎桃の話をし、関わる人を広げ、つなげる役割を果たしたのが飯塚正良市議でした。
市内の有力者もそれぞれの立場から関心や関わりを持ってくれることになり、伝十郎桃と、その復活に向けた取り組みが広く地域に知られることとなりました。新聞でも報道されたり、2010年には「川崎区の宝物」にも登録されたりしたのは、そうして地域に関心の輪を広げる活動をしてきた市議の役割が大変大きかったといえます。
このレポートをまとめるにあたっても、学校部会からの資料を基本としながら、細かな経緯や事実関係が不明なところは飯塚市議の議会での発言記録や活動報告などに多くの部分を依拠しています。
経過年表 |
2008年11月 |
川崎区内の5つの小学校(殿町小、東大島小、向小、田島小、渡田小)に台木として桃の苗木を定植 |
2009年4月 |
花桃が植わっていた藤崎小を含めた6小学校の桃に接木するが成功せず |
2010年4月 |
6小学校すべてで成功。殿町小=10カ所の接木のうち2カ所、渡田小=5カ所のうち3カ所、向小=6カ所のうち1カ所、田島小=10カ所のうち3カ所、東大島小=8カ所のうち1カ所、藤崎小=12カ所のうち2カ所で新芽が確認された |
2010年11月 |
川崎区内の小中4校と1事業所(宮前小、小田小、京町中、京町小、昭和電工)に苗木を定植 |
2011年 |
(東日本大震災の影響により中断) |
2012年4月 |
2010年に植えた4校と1事業所で接木を行う |
|
(2) 実 り
① 桃栗三年
2010年には花が咲きましたが、接木した木の成熟を促すため、3年程度は全て摘果する必要があるということで、最初の収穫が2013年になるという見込みがでました。その間も学校用務員は異動もありますので、業務引継ぎを確実にしながら、各校での取り組みをつないでいきました。
② 収 穫
それから3年目の2013年6月上旬、藤崎小学校の花桃に接木した部分から、実に100年ぶりとなる4個の実がつきました。発見した原田職員は、農業技術支援センターの助言を仰ぎ、鳥などの被害を防ぐための袋つけ作業を行うなど慎重に育てました。
藤崎小でなった実は直径7cmほどでした。結果的に渡田小、京町小を含めた3校で実がなりましたが、食べられるほどの大きさに育ったということから藤崎小において「復活を祝う会」が開かれることになりました。 |