1. 核兵器禁止条約の発効
この条約は、国連で採択された後、その批准国が50か国を超えた2020年10月24日に発効した。この条約の第1条には、核兵器の開発、実験、生産、製造、取得、保有、貯蔵、使用と使用の威嚇、譲渡、支配領域内での設置や配備を含むすべての行為を禁止するとあります。しかし、米ソ核保有国等と日本など「核の傘」に頼る国はこれに背を向けたままです。この条約には、非締約国に対する法的拘束力はありませんが、しかし核兵器が国際法上初めて「違法」となり、核保有国が当然のように主張してきた「核抑止論」の正当性は失われ、核兵器を持つこと、それに頼ることを許さない仕組みになります。国際社会は核抑止論を説く国を無法国という汚名を着せて、事実上行動を拘束できる世界となったはずでした。
しかしロシア・プーチン大統領は、彼が始めたウクライナ侵略戦争で、核兵器使用も躊躇しない戦闘準備態勢にあると発言しました。これは、核兵器禁止条約で明確に禁止されている核威嚇です。侵略されたウクライナに手を差し伸べようとする西欧と米国と、それを支持する国際社会に対して、核兵器禁止条約が発効したばかりなのに、核大国ロシアの大統領が核兵器の使用もためらわないというプーチンの狂気が人類の前に展開されたのです。
被爆者が被爆後75年の長きにわたり、決して被爆者を出してはならないという強い意志で、ようやくその成果が実った国際社会への許しがたい行動である。この狂気はいつ核兵器が使用されるかもしれない恐怖を世界に振りまいているが、ロシア石油、ユーコス元社長ミハイル・ホドルコフスキー氏は(※1)、「ロシア・プーチンが追い詰められたら核兵器を使う恐れが出てくると見る向きがあるが、私はその可能性は低いと見ている。核攻撃の決定を下すのはプーチン、国防大臣やロシア軍参謀総長のグラシモフが、実際にミサイルを発射させるかは、軍の将軍の判断だ。プーチンの命令から発射までは三つか四つの段階を踏むことになる。将軍たちは人類を滅亡させかねない核ミサイル発射という犯罪行為に出るだろうか」と語っている。彼の予測を信じるしかないが世界にとっても、それしかない。
2. これまでの原爆に関係する報道と、それにまつわる疑問
毎年の夏の暑い8月が来るたびに、広島・長崎原爆の惨劇に関係した事がマスコミで報道されるが、これまでの報道で被爆を巡る悲惨な内容はどこまで正しく伝えられたのか検討してみたので報告する。
疑問① 被爆者は何人だったのか。
被爆者手帳を交付された人数は、行政手続きの書類により分かっていますが、75年経過した現在でも実際の総被爆者数は分かっていません(※2)。広島・長崎が原爆地獄から立ち上がる様子は、数十年は放射能で草木も生えぬ、人は住むことも出来ないと噂された都市が、不死鳥のごとく蘇る様は日本国民の戦後の立ち上がりそのままでした。私自身が1943(昭和18)年生まれですから、広島を本拠地とする中国新聞の紙面を通じて目にしていました。
さて広島、長崎で被爆して被爆者健康手帳を交付された方には次のような区分があります。(ア)直接被爆者:原爆投下時、当時の広島市・長崎市あるいは法令で定められた区域内にあった方、(イ)入市被爆者:原爆投下2週間以内に爆心地から2キロメートル以内の法令で定めた区域内に、救護、医療活動、親族探し等のために入った方、(ウ)死体処理救護従事者等:原爆投下から2週間以内に被爆者の救護搬送、死体処理等に従事した方、(エ)胎児:上記(ア)、(イ)、(ウ)の被爆者の胎児(広島は1946(昭和21)年5月31日まで、長崎は1946(昭和21)年6月3日までの出生者)
表1. 被爆者健康手帳保持者数
厚生労働省、2021年発表 平均年齢83.94歳
被爆種類 |
合計被爆者 |
1号被爆者 |
2号被爆者 |
3号被爆者 |
4号被爆者 |
人数 |
127,755人 |
79,830人 |
26,842人 |
14,309人 |
6,774人 |
被爆者人数が確定していないのは、いくつかの裁判中の事例があるからです。その代表的なのは「黒い雨」訴訟です(※3)。被爆後の黒い雨は、広島での原爆投下直後に降った放射性微粒子や燃えカスを含んだ黒い雨です。広島市とその周辺で閃光の約20分~1時間後に降り始めたとされる雨で、直接浴びた場合に急性白血病などの放射線障害を起こすことがあるほか、雨が付着した野菜や食物を摂取して内部被爆し、がんや脳梗塞などを発症した事例があるようです。2021年7月14日の広島高裁での裁きは「黒い雨訴訟、二審も幅広く被爆者と認め原告84人全員」という結果でした。黒い雨地域を援護対象区域とし、特例として健康診断を無料で受けられる「第一種健康診断受診者証」を出し、がんなどにかかれば被爆者健康手帳を交付しています。区域外でも健康被害を訴える人がいるため、広島県と広島市が調査を実施。より広い範囲で降ったとして、国に援護対象区域の拡大を求めていると報じられています。さらに2021年7月に開催されている、2020東京オリンピックの最中に、黒い雨訴訟、首相が上告見送り表明(※4)「被爆者手帳を交付」となりました。すなわち、戦後76年も経過した今も被爆者の人数さえも分かっていないのです。
疑問② 原爆による死亡者数はわかるのか
中国新聞が出版したばかりの「ヒロシマの空白」被爆75年(※5)によると、広島での原爆被害者数は確定していないとある。広島市が国連事務総長に届けた被害者人数は14万人であるが、広島市の調査で名前を一人一人積み上げてリスト化した結果は8万9,025人であったという。これまでに、原爆投下後にいろいろな機関が調査を行っていますが、現在でも原爆でどれくらいの住民が亡くなったのか、正確には分かっていません。
これにはいくつか理由があります。まずは、被爆直前の人口状況が分かる資料が原爆で焼失してしまったこと、多くの人が疎開のため広島市を離れたり、逆に広島市に疎開してきたりして、人口が流動的であったこと、それに軍関係者の情報が不明であるとされています。更なる理由としては、敗戦後の日本を統治した占領軍GHQによって行われた言論統制があります。いわゆる「プレスコード」、報道規制の影響です。
人類初めての被爆の悲惨さと、その後に続く地獄絵図を被爆地住民は経験したのですから忘れようがありません。しかし、米国の占領軍が発した9月19日 ―― GHQ-SCAPからのプレスコード発令により、原爆被害に関する報道は禁止されました。プレスコード・Press Code、その名の通り「報道機関の統制」という意味で、大きく言えば日本全体への言論統制でした。その目的は「原爆を落としたアメリカへの反米感情が高まるのを防ぐ」ためだったようです。原爆の放射線の影響が国民に広く知られるようになったのは、第五福竜丸事件からですが、それは原爆投下から9年がたっていました。1979年3月1日、太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験において、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴び、乗組員の久保山愛吉さんが半年後に放射能により死亡したのです。これで改めて日本国民にはプレスコードで知る事のなかった放射線の恐ろしさが知れわたりました(※6)。
疑問③ 戦後の原爆への報道規制はどのようなものだったのか
2021年7月26日の毎日新聞第一面に記されている「余禄」に載っていたのは、「戦時体制下の弾圧で演劇は自由を奪われ、1941年6月には国策遂行のため日本移動演劇連盟が設立され、苦楽座は45年1月に参加。巡演のため広島に滞在していた9人全員が原爆の犠牲となったとある。東京目黒の五百羅漢寺に9人の分骨を納めた原爆殉難碑が建ったのは終戦7年後。建立に奔走した徳川無声が『のびのびになって、反って有難かった』と書き残すように、その年に占領下における原爆関連の表現の規制が解除された。碑にも『原爆』の文字が刻まれた」と喜んだ姿が描かれています。其の理由は、原爆による死者であることを墓石に刻むことを禁止し、原爆死があったことを歴史から消し去ろうとしていたのです。これと同様な事例は無数にあり、広島中心部にあった旧広島一中の原爆死没者慰霊碑には「慰霊」としか記されていません。原爆投下後1年後に建立された慰霊碑には原爆という文字を刻み込むことが出来なかったのです(※7)。
プレスコードで原爆報道が封印されていたのですから、新聞も検閲を受けておりGHQへの批判や原爆に関する報道、文学は発禁処分。そればかりか、日本人の科学者による調査研究も制限されていました。原爆被害は隠蔽され、後遺症に関する研究を遅らせることになったのです。報道機関は勿論のこと、個人の手紙に至るまで検閲が行われました。その規制はおよそ10年続きました。その間に、アメリカの人類に対する罪を糾弾する世界の声とは反対に、原爆被害を矮小化しつつ、その悲惨さを薄めて報道し、その間に被爆地では原爆さく裂で影響を受けた範囲を出来るだけ狭く、その狭く限定した地域の被爆者の人数や、被爆地域の範囲、その後の人間に対する影響などを最小限にしていたのです。それが故に、「黒い雨」訴訟が起きて、実際に黒い雨で放射能を帯びた人々が裁判を起こしたのです。黒い雨による被爆を訴えた原告の主張が認められ勝訴したことは当たり前のことですが、被爆の苦しみを理解しようとしなかった日本政府にも猛省を促します(※8)。
そのほかにも、原爆関連の文学分野で栗原貞子の詩や、峠三吉の詩「にんげんをかえせ」など、壺井栄の短編小説「石臼の歌」では、原爆で家族を失った遺族たちの心理描写がほぼ削除され、疎開先である田舎の風景の描写を増補した表現に差し替えられました。
目下、世界的に大流行しているパンデミック・コロナ禍において、急速に増大して病床が足りなくなり、救急車で患者を運び込むベッドがないという医療崩壊が起きているなかで、若い妊婦が病院での手当ても受けられず自宅で出産して子どもを死なせてしまったという事件が起きた事と、被爆直後が似ているという報道もありました。永井隆の『長崎の鐘』は1946年8月には書き上げられていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲により出版許可が下りずGHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録本『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に出版されたようです。
世界初の原子爆弾を投下したばかりのアメリカは、愚かで狡猾であり、原爆のことを慎重に隠蔽工作を行いました。負傷した生存者の写真や詳細を公表することは許さず、報告はすべてアメリカ陸軍省を介して発表する仕組みとしていました。しかし、1954年アメリカがビキニ環礁で水爆実験を行い、日本の漁船第五福竜丸等が被曝した事件(※9)をきっかけに、国内で原水爆禁止運動が起きました。第五福竜丸事件が、原水爆禁止運動の起点になったのは、それは個人が始めたからだと言われています。被曝した広島市民の原水禁運動も、占領下では平和運動が弾圧されていました。しかし、1954年、原水爆禁止広島市民大会が、5月15日開かれ、原水爆禁止署名運動を県民運動にする提案があり、原水爆禁止広島県民運動連絡本部を7月発足させて、8月末県民200万の内100万人が署名したのです。原爆水爆禁止広島平和大会は8月6日に開かれて2万人が参加しました。その後、原爆10周年に世界大会を広島で開催することを提起しました。そして、1955年 ―― 平和記念資料館が開設。第1回原水爆禁止世界大会開催。1956年 ―― 日本原水爆被害者団体協議会結成。援護法要望運動が開始。1957年 ―― 原爆被爆者の医療等に関する法律が極めて限定的な内容だったのですが成立しました。
1958年5月5日 ―― 佐々木禎子をモデルにした『原爆の子の像』が平和記念公園内に完成。1960年、原爆医療法の改正。1963年、東京地方裁判所が「原爆投下は当時の国際法に違反する」旨の判決。1968年、原爆被爆者に対する特別措置に関する法律(被爆者特別措置法)が制定と続きました。この時代の取り組みが現在の被爆者のための法律や核戦争反対のための平和活動として確立したのです。
疑問④ 現在でも核兵器を使おうとしている人がいるのか
世界中の軍人は、核兵器関連に全身全霊を込めて対応しているようです。国によっては国民を飢えにさらしても核開発を最優先している国が隣にあります。コロナパンデミックで世界が大変なご時世にもかかわらず、コロナで病院が患者であふれ、医師や看護師が長時間勤務に耐え、基本的な医療用品が不足する中、核開発を続けている国は大量破壊兵器に720億ドル(約7兆8,800億円)以上を充てたと報道されています(※10)。
日本の敗戦後の13年後沖縄は米軍の統治下にありました。その沖縄に配備された米空軍の核兵器管理部隊では、核爆弾の実弾を使った搬出入訓練が1957年前半だけでも少なくとも約150回実施されたとあります。これらは、アジアでの核の実戦使用を想定した基地として沖縄が使われていた証です。琉球新報の報道によれば、台湾をめぐるアメリカと中国の対立での核報復として米軍幹部が容認と報道されています。1958年に起きた台湾危機で中国へ核攻撃検討時、当時の太平洋空軍司令官は中台間の争いが激化した場合、中国本土の空軍基地を目標に、核による先制攻撃の承認を要求したとある。まずは10~15キロトンの小型核爆弾を使って中国のアモイ地域を攻撃する算段だったという。使う気満々の行動が今頃報道されても困るけど、本当に危機一髪だったようです(※11)。
令和の時代になっても、台湾海峡を巡る対立は、再び大国間戦争を引き起こす火種となる可能性を強めているようです。それは、中国の習近平政権は台湾に「一国二制度」の受容を迫るでしょうが、香港の民主化が覆された経緯から、台湾がそれを受け入れる可能性はないでしょう。そこで平和的な統一が難しいなら軍事的な統一を試みるしかない、と中国が考える可能性は高まっています。大国間の核戦争の可能性は現実的なリスクなのです(※12)。
わが国の核政策について、1968年の佐藤首相が国会で答弁した内容は以下の様でした。「わが国の核政策につきましては、大体四本の柱、第一は、核兵器の開発、これは行なわない。また核兵器の持ち込み、これを許さない。また、これを保持しない。いわゆる非核三原則でございます。これを私は核政策の基本にしておるのであります。」。1974年、佐藤首相はノーベル平和賞を受賞しています。しかし言葉の裏を返せば、令和の時代には普通になってしまった国会での堂々たる嘘やごまかし答弁、40年以上前から首相は国会でこのように大嘘で大見得を切っていたのです。1969年11月の佐藤=ニクソン会談で、核持ち込みの密約が結ばれましたが、その議事録は政権交代で実現した民主党政権により公開されて分かったのですが、こう書かれていました。「日本を含む極東諸国の防衛のため米国が負っている国際的義務を効果的に遂行するために、米国政府は、極めて重大な緊急事態が生じた際、日本政府との事前協議を経て、核兵器の沖縄への再持ち込みと、沖縄を通過させる権利を必要とするであろう。米国政府は、その場合に好意的な回答を期待する。」。この秘密条約は今も生きています(※13)。
疑問⑤ 現在の核兵器の破壊力はどれほどなのか
2017年にノーベル平和賞を受賞した国際NGO・核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が新たにまとめた報告書では、核保有9か国がコロナ禍でも核兵器への支出を増やし続けていることが報告されています(※14)。支出総額の半分以上を占めたのはアメリカで、昨年の支出額は軍事費全体の約5%に当たる374億ドル(約4兆1,000億円)に上ります。また、中国の支出額は約100億ドル(約1兆1,000億円)、ロシアは80億ドル(約8,800億円)とされています。さらに米中ロに加え、英、仏、印、イスラエル、パキスタン、北朝鮮の9保有国は、2022年は時間単位1分ごとに13万7,000ドル(約1,500万円)以上を核兵器に費やしているようです。
人類の戦争に関する技術的な発展は限りがないようです。それにより戦争の環境も劇的に変化しています。高高度核爆発(High Altitude Nuclear Explosion,HANE)と言って、核爆発による強力な電磁パルス(EMP)を攻撃手段として利用し、広範囲での電力インフラストラクチャーや通信、情報機器の機能停止を狙うものです。これにより、敵国の情報システムを破壊して、丸裸にしたうえで攻撃するという兵器です。ロシアの極超音速兵器とレーザー兵器は、現在も発展の過程にあり、ロシアは極超音速兵器を用いるようです。極超音速兵器(hypersonic)とは一般的にマッハ5以上の超高速領域をいい、大気圏外を飛行する弾道ミサイルに限られていました。ですがこれほどスピードが速くなると人類には対応できないようです。それでも近年、米中露をはじめとする世界の主要国では、大気圏内でも極超音速を発揮できる兵器の開発が熱心に進められており、2018年にはプーチン大統領により二つの極超音速ミサイルが紹介されました。それはICBMで加速されマッハ20以上の速度で飛行するとされるアヴァンガルドと、戦闘機から発射される射程2,000km、最大速度マッハ10のキンジャールである。
ただ、同じ極超音速ミサイルといっても、一つは従来の核弾頭よりも遥かに低い高度を飛行することで地上のレーダーからは探知しにくいことと、大気圏再突入後に複雑に飛行軌道を変化させることでミサイル防衛(MD)システムの迎撃をかわす能力を持つことが特徴とされている。要は従来型の核弾頭をより迎撃されにくいよう改良したものなのである(※15)。そのうえ、日本の開発した誘導は世界一の性能で、宇宙の果ての小さな星から石ころを持って帰るという人類初の快挙も成し遂げました。この精密さでは地球上に隠れる所は皆無となり、限りない開発・改良の追究に終わりはないようです。
疑問⑥ 核兵器が廃棄される日を世界は手に入れられるのか
米科学誌「原子力科学者会報(BAS)」は2020年1月23日、地球滅亡までの時間を示す「終末時計」の針が2022年より20秒進んで残り100秒となり、1947年の開始以降、最も「終末」に近づいたと発表しています(※16)。ウクライナを侵略しているプーチンの言動により、人類の残り時間はさらに短くなったでしょうし、人類は生き残れるのでしょうか。
2018年長崎の平和式典で、被爆者代表の田中熙巳(てるみ)さんが「平和への誓い」を述べている(※17)。田中さんは、その中で「紛争解決のための戦力を持たないと定めた日本国憲法第9条の精神は、核時代の世界に呼びかける誇るべき規範です」としている。このように、被爆者は、自らの体験から生まれた「ふたたび被爆者をつくるな」という思想に基づき、戦争の放棄はもとより、一切の戦力の放棄と交戦権を否認する日本国憲法9条の世界化を呼び掛けているのです。私は、世界がこの呼びかけに応えるべきだと思う。
アメリカの元国防副長官、ロバート・ワークは、原爆は人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許さない、絶滅だけを目的とした絶対悪の兵器です。被爆者が人間として生きるには、原爆を否定するほかに道はありませんと言い切る。被爆者はこの76年間ものあいだ、苦しみをのりこえ、世界に原爆被害の実相を語り、「三たび被爆者をつくるな」と訴えてきました。被爆者の訴えは「核兵器廃絶」の世論と運動となって広がり、世界の大きな流れとなっています。
広島・長崎以後、核兵器の実戦使用は阻まれています。それは、世界の世論と運動こそが、核戦争の抑止力になっているのです。そんな時代だからこそ、「核兵器も戦争もない世界」を掲げて、国連本部で核兵器の開発や保有、使用などを禁止する核兵器禁止条約が2021年発効したのです。その後署名国は増え続け、2022年6月13日現在86か国となっています。それにもかかわらず、日本政府は米国の「核の傘」に依存する安全保障政策を理由に、核兵器禁止条約に署名・批准しないと国会で条約に署名する考えはないと明言、また条約締約国会議のオブザーバー参加にも慎重です。条約参加の道は閉ざすべきではないし、被爆国としての早期批准を求める声も強くあるので、これからは政治家の力ではなく、国民の平和を求める力を結集して「核兵器禁止条約」への賛同者の拡大運動を被爆国日本で展開しなければならないと私は強く思います。
|