【自主レポート】

能力と平等について
― 公共サービス労働の概念を考える ―

徳島県本部/中野 輝行

1. はじめに

 いま公務員の賃金制度が見直しされようとしている。自治労的には一昨年の長野大会で「『能力、実績』を重視した人事管理システムの見直しと新たな人事評価システム」が大きく議論されたことは、まだ記憶に新しい。一方民間の賃金体系は、「成果主義、管理職で6割。非管理職でも基本的に成果型を含めて7割になっている」(2002年7月13日付朝日新聞)ことが明らかにされた。ちなみに「基本的に年功序列型」は昨年の4割から3割になっている。このように民間では「終身雇用と年功序列賃金」は、「成果主義」へと大きく変わりつつある。
 連合の賃金政策もいま、「正規男性雇用労働者の賃金闘争の敗北」の上で大きく変わりつつある。パートや派遣労働者の均等待遇確保にむけて「雇用・就労形態の違いを理由にした労働条件の差別的取り扱いの禁止」をベースに、同一時間単価で労働時間の長短のみが賃金の差であるとして「パート・派遣労働法」の制定をめざしている。
 このような情勢の下で、「能力、平等、公共サービス労働」の概念を整理し、改めて「能力と平等」を考えてみる。

2. 能力主義と「結果の平等、機会の平等」

(1) 戦後日本の賃金闘争は「結果の平等」として取り組みながらも、資本・経営側から「働いても働かなくても同じ賃金はおかしい」との攻撃の下、結果の平等は敗北し、機会の平等へと進んでいった。高度経済成長下の企業繁栄がもたらす支払能力は低成長で失われ、雇用と賃金総額がきびしく抑制されたなかで「ゼロサム・サバイバル競争(誰かが勝った分だけ誰かが負ける)時代」へと大きく変化したことである【1】。岩田規久男は戦後日本型平等社会に貢献した諸制度(産業規制と保護、日本型雇用慣行など)が73年の変動相場制移行後、規制緩和・情報産業構造への転換により崩壊しつつあるとしている【2】
(2) さて、これら流れの中で「結果」であれ、「機会」にしろ、「平等」が使われているが、この平等概念そのものが大きく変化している。世界の平等論を紹介した竹内章郎は、平等と同一との間には何か大きな違いがあるはずだ、として、その様態を問う平等論を指摘している【3】。辞書的にも、「平等の概念」が「一様に扱う」ことから「多様で対立する平等概念が論じられ、公正や公平(fair)という言葉で要約される」へと大きく変化している【4】。だが、いまだに「一様に扱うこと」が平等と言説されていることから議論が噛み合わなくなっている。自治労の「考え方(案)」で使用されている平等概念も検証してみると、上記の多様な様態を前提とした概念で賃金闘争と平等問題をまとめている【5】。このように、「みんな一緒」で平等概念を整理することは困難であり、「誰にとっての平等か」が現実的な運動課題になってきた。
(3) 一方、公務員賃金の世界では「平等取り扱いの原則」が明記され、「平等=同一、みんな一緒」の概念により「全員一律3短や全員1号」などが対応され、公務労働の世界でも同様な平等概念で仕事が進められてきている。本年7月、鳥取県倉吉市で開催された第27回部落解放・人権西日本夏期講座で片山善博鳥取県知事は鳥取西部地震での住宅支援事業について、一部(注 被災者のこと)に金を出すことは行政のバランスを失うと行政担当者から指摘された、と話した。この「バランス感覚」が行政の平等取り扱いの中身であり、賃金と同様に「平等取り扱い(=みんな一緒)の原則」が行政担当者にも如何なく発揮されている。さらに吉田智弥が指摘している【6】自治体現場の人権感覚(人権を侵害されている人たちをホンネの部分では、競争社会の落伍者と見ている)を直視しなければならない。
(4) このような平等概念がどのように形成されてきたかを苅谷剛彦は、日教組の教育政策を検証し、文部省の教育行政(「適性適職主義」・知能レベルによってつける職業が違うという考え)を批判する運動の中から「だれでもがんばれば100点がとれる。生得的能力は決定的な差異がないという能力平等主義(注 能力はみんな一緒)」を普及させたと分析している【7】。結局、「違い=差異」は無視され、能力主義に巻き込まれていくことになる。鳥取県知事の「バランス感覚」の話を引用したが、行政担当者にとって「差異」を認めることは行政上の不平等と理解されているのであろう。
(5) このように平等を考えるとき、「みんな一緒」は、「差異は、差別、無視・排除」として言説されてきたことである。なお、今村仁司(「排除の構造」)や赤坂憲雄(「異人論序説」)は、差異について興味ある議論を展開しているが、今回は「差異」がどのような経過で私たちの中に位置づけられてきたかを中心課題とするため、後日の課題としたい。さて、苅谷が言うような日本の戦後教育だけが差異を排除したのではない。ユダヤ系黒人として人種差別を定義したアルベール・メンミは「重要なのは差異ではなく、差異に与えられる意味なのだと、もう一度念を押しておきたい。反植民地主義者、反人種差別主義者の間では、差異は評判が良くなかった。逆に、保守主義者や植民地化支持者の間で、差異は評価され、擁護されていた。実は両者とも差異は悪だと想定していた【8】」ことも明らかにした。
(6) さて、「結果の平等」から「機会の平等」追求が今日的課題として、自治労賃金政策の中心となっている。だが、「機会の平等」にも不平等があることが明らかになりつつある。子どもの学力が親の所得に関係し、不平等な学力によって平等な競争が行われていることである。橘木俊詔は、機会の平等は失われつつある【9】と報告し、前出の苅谷も、教育機会の均等ということも事実に照らせば幻想でしかなかったと報告している。また、フランスの社会学者・ブルデューも文化的資本(知識・教養の総量)、社会的資本(社会的地位や威信)などに恵まれる家庭出身者は有利に文化的・社会的資本を再生産し、結局「知性、教養、才能といった個人的能力も決して無垢なものではなく、文化的・社会的資本などの直接・間接の果実である」としている【10】
(7) さて、このような「機会の平等」に必要な潜在能力について、アマルティア・センは「貧困が問題なのは、必要最低限の潜在能力が欠如し、その所得が特定の潜在能力を発揮するのに必要な水準に達していないことであり、長年に亘って困窮した状態に置かれていると小さな慈悲に大きな喜びを見出す努力をして自分の願望を控えめな(現実的な)レベルにまで切り下げ、達成可能な限られたものごとに願望を限定してしまう」と所得と能力の関係を明らかにし、「潜在能力の欠如は世界における最も富裕な国々においても驚くほど広く見られる」としている【11】。そして、佐藤俊樹は、機会の平等は結果の平等とはまったく異質な原理であり、決定的に本質的なちがいは、結果の平等は目に見えるが、機会の平等は直接目に見えないという(後からしかわからない)ことであるとし、そのためには不確定性を吸収するチェック体制が必要と指摘している【12】
(8) この、佐藤俊樹の問題の立て方に対し、佐藤仁は「二つの単純な軸を振りかざすだけでは、問題の本質が見逃されてしまう。最近の日本社会の不平等論は所得を基準とした議論を組み立てているが、知識や健康、幸福感などは分割して不足している人に分け与えることはできない。もっとも、所得などの分割可能な財が知識や健康の配分に大きく影響する」と疑問を呈している。さらに、アマルティア・センの議論を援用しつつ、「機会そのものがどのように配分されたのか。様々な制約条件(年齢、性別、障害、家庭環境)が異なることは、与えられる機会の活かされ方が異なる」と、選択肢や活用能力によって実質的な機会が変わるとしている。そして「後からしかわからない結果を最善の選択と読む功利主義的発想は、一見、各々の主体性を重視しているようにみえて、結果に至った不正義を覆い隠す可能性をもつ」と批判している【13】
(9) このように平等と差異、能力の問題についてふれてきたが、次に「差別と能力」についてふれてみたい。前出の苅谷は、アメリカやイギリスでの諸研究において、個人の能力差にもとづく差異的な処遇のことを指して「差別」と見なす議論はほとんどない。個人の能力差や業績の差異にもとづく差異的処遇までを含めて「差別」と言っていない【14】、と報告している。だが、「職業への社会的な評価がその職に従事する人への社会的評価に転化することが職業差別である」(自治労「部落解放・人権確立テキスト(案)」)ことから、職種の格付けは職業差別につながると考えられる。そしてヨーロッパ中世や近世のアメリカには、職種の社会的評価がその職種労働者への社会的評価(畏怖・偏見)に転化され、間違いなく職業差別はあった。しかし、2000年8月、国連人権小委員会は「職業と世系に基づく差別に関する決議」を採択し、具体的事例として、日本の部落差別、インドのダリット(被差別カースト出身者)に対する差別、アフリカに見られる類似の差別があげられ、「職業差別」については全く言及されていなかった。また、ILO111号条約解説した「雇用と職業における平等」(解放出版社、2000年)でも職業差別は言及されていなかった。労働をどのように評価し、評価されるのかは引き続き研究が必要である。

3. 公共サービス労働と評価

(1) 公務労働と公共サービスをめぐって様々な議論がある。大阪市従は、「公」と「民」をつなぐ「共」の領域のパイプ役的な仕事を新しい業務としてコミュニティ労働の概念を提起し、自治体現業労働が行政の補完的業務に収斂するのであれば、その評価基準は、費用対効果の基準でしかなく、委託議論に終結される【15】、と現業労働の視点から公務労働を問いかけている。一方、公共サービスとはそれら三つ(注 自助・共助・公助)をすべて包括した概念で、公務労働とは、このような広範囲の文脈で理解されるべき、と田尾雅夫は公共概念の混乱を指摘【16】している。
(2) なぜ、このようなカオス的状況なのか。結論から言えば「公共」とは欧米の翻訳語であり、日本の歴史的経緯と齟齬を来しているからである。辞書的には「公共」とは「社会一般。おおやけ」である。溝口雄三は公(オオヤケ)について「私」概念を同時に検討しながら、①首長的な側面からの政治的な公の群れ、②共同体的な側面からの公の群れ、は日本のおおやけ=公の意味に取り入れられ、③公平・公正など倫理的・原理的な公の群れが中国の独自性、と日中の比較を行い、現在でも中国のような公の用語例は日本には存在せず、日本で公・公共といえば、すべて私の干与できない、あるいは私の権利が主張できない、私以外の領域をさしている。このため、日本人は「戸外のおおやけ領域では表向きの顔で交際する【17】」としている。なお、ヨーロッパの市民的公共性についてハーバーマスは言語学的には17世紀以降に成立した【18】、としている。日本の地方自治法では「地方公共団体は包括的な統治権的支配権を有する地域的統治団体」と解釈され、住民の福祉を維持増進するために普通地方公共団体が設置する施設を「公の施設」と呼ぶ【19】、など溝口が言う「官かそれに近い機関の管理下」が行政的にも「公」となっている。いま、議論されているのは、溝口のいう③の公平・公正の概念をどのように具現化するかである。たしかに③の部分を担うNPOなどの市民活動も大きくなり、日本人の思考深層にある「おおやけ領域では、表向きの顔で交際する」ことを変革する活動もはじまってはいるが、公務労働と公共サービスを変革・確立していくためには二重・三重の取り組みを同時に進めていかなければならない大きな課題となっている。
(3) かつて「同一労働同一賃金」が現在は「同一価値労働同一賃金」となっている。上野千鶴子は、「コンパラブル・ワース」(同一価値労働同一賃金)が登場する過程で、背景として性による職種への偏見がある【20】ことを指摘した。自治体・公務労働には多様な職種があり、清掃差別や現業差別が存在しているときに「職種への偏見を無くした上での同一価値労働同一賃金の確立」が必要である。

4. まとめと今後の課題

  今回のレポートでは、まだまだ多くの未整理な課題があるが、今日の公務労働と賃金を考えるうえで、次のようなまとめと今後の課題がある。
(1) 平等は多様であり、平等概念(みんな一緒)を「誰にとっての平等・何の平等か」へと見直すことである。そして「差異への意味づけ、価値付け」が重要となっている。それは様々な公共サービスを問い直すときに、多様な様態に対する公平性の説明が公務労働者に問われているからである。そして今日、一つの到達点となっている「機会の平等」にも不平等があり、潜在能力が所得に関連し、入試や就職のスタートラインは一律になっていないことである。
(2) 「職業差別」概念は、世界の中では日本の特徴となっている。それは「労働観」が欧米や中国などでは近代になって変わってきたことである。その結果が「能力差や業績の差異による差別」はそれらの国々では差別として認識されていないことでもあった。ただ、カースト制度と職業評価や日本の職業評価は、別途に譲らざるを得ない。
(3) 「公共」概念は多様であるが、公共概念の整理と同時に公務労働を「コミュニティ労働」として捉え返す試みなど、公共サービスと公務労働をめぐって二重・三重の取り組みを同時に進めていくことが大きな課題となっている。
(4) 同一価値労働同一賃金の確立には、職種への偏見を無くすことが前提である。自治体職場には民間で同じ職種が多くあり、たとえば当局は「民間と同じ給食調理であれば、現業の賃金は高い(その前提は同一価値労働同一賃金である)」として、賃金合理化や外部委託を主張してくる。だが、この間の現業闘争で培った取り組みで「われわれの給食調理労働は民間の給食調理労働に比較して付加価値労働が加わっている」ことを主張してきたし、今後もこの視点で現業労働論を再構築することが必要である。


*参考文献
【1】 熊沢誠「能力主義と企業社会」(岩波新書、1997年)p29~33、p43
【2】 月刊自治研495号(2000年12月)論文
【3】 竹内章郎「現代平等論ガイド」(青木書店、1999年)p3、p101~102
   「平等の意味を尋ねられれば、やはり、同一(同じ)と答える場合が多いだろう。しかし、君と僕の背の高さは同一だとは言っても、背の高さが平等だなどとは誰も言わないだろう。そうであるなら、平等と同一との間には何か大きな違いがあるはずだ」「集団間での平等だけでは、集団内での諸個人間の不平等が放置され、血縁および身分・財産にかかわらない平等の実現だけでは、性にかかわらない平等は実現されず、諸個人が真の平等主体とならない」
【4】 国語辞典(小学館、1981年)、イミダス2000(集英社、2000年)
【5】 自治労討議素案[「能力、実績」を重視した人事管理システムの見直しと新たな人事評価システムについて]
【6】 月刊自治研506号(2001年11月)論文
【7】 苅谷剛彦「大衆教育社会のゆくえ」(中公新書、1995年)p120、p154、p182
【8】 アルベール・メンミ「人種差別」(菊地昌実・白井成雄訳、法政大学出版局、1996年)p44~46
【9】 月刊自治研497号(2001年2月号)論文
【10】 石崎晴己「2002年3月30日付朝日新聞」
【11】 アマルティア・セン「不平等の再検討」(池本幸生・野上裕生・佐藤仁訳、岩波書店、1999年)p77~78、p174~p177
【12】 佐藤俊樹「不平等社会日本」(中公新書、2000年)p167、p172
【13】 月刊自治研495号(2000年12月)論文
【14】 苅谷剛彦(前出)p157~158
【15】 月刊自治研497号(2001年2月号)論文
【16】 月刊自治研497号(2001年2月号)論文
【17】 溝口雄三「一語の辞典 公私」(三省堂、1996年)p57~58、p84~84
【18】 ユルゲン・ハーバーマス「公共性の構造転換」(細谷貞雄・山田正行訳、未來社、1994年第二版)p37~p38
【19】 基本法コンメンタール№142「地方自治法」
【20】 上野千鶴子「『家事労働』の発見と再生産費用分配戦略」(伊藤誠・野口真・横川信治編『マルクスの逆襲』日本評論社、1996年)p286~287