【代表レポート】

多摩ニュータウンにおけるまちづくりと地域再生について

東京都本部/自治労都庁職員労働組合・多摩開発支部

1. 多摩ニュータウン事業について

 多摩ニュータウン事業は、昭和41年(1966年)に着手されて以来35年余となる。東京の西南部、都心から約30~40キロ圏内に位置し、総面積は約3,000ha、行政区域としては多摩、八王子、稲城、町田の4市にまたがる。
  (資料①-位置図)
 住宅建設と、道路・公園・下水道などの都市基盤としての公共施設、鉄道・学校などの公益施設や病院・店舗などの業務サービス施設からなる都市生活環境施設を一体的に整備し、その総投資額は公民合わせて、おおよそ5兆円強と見込まれる。
  (資料②-多摩ニュータウン開発の仕組みと施行者)
  (資料③-多摩ニュータウンにおける投資額財源別内訳)
 多摩ニュータウン計画の目的は、当初、住宅の大量供給と良好な市街地等の整備であった。その後、自然保護や、住宅の質の向上、住宅様式の多様化、地域の自立化・活性化などの要請に応えて、今日では、当初の目的に、多摩の豊かな自然環境を活かした「良好な居住環境を備えた活力ある新市街地の形成」及び「広域的機能を充実し、他都市との連携による多摩地域自立化の推進」が加えられた。それに伴い人口計画も見直され、当初の計画人口は41万人であったが、現在では、居住計画人口として約30万人(100人/ha)と定め、事業を進めている。平成13年度現在、約19万人が住み、都市基盤整備は、予測される総事業費約2兆1千億円の約80%、1兆7千億円を執行している。一定の計画に基づいてこれだけの大規模な都市が形成されつつあるという、日本では希にみる壮大なまちづくりといえる。
  (資料④-基本方針の変遷)

2. 石原都政による多摩ニュータウン事業に対する負の評価と事業からの撤退の動き

 最近、多摩ニュータウン事業の評価と今後のあり方について議論が盛んに行われるようになってきた。そのきっかけとなったのは、一昨年5月、石原知事肝いりのメンバーで作成された「バランスシート」において、多摩ニュータウン事業が採りあげられたことによる。「民業に近い」という理由から、都の数多くの事業から唯一、「事業別バランスシート」のモデルとして選ばれたのである。そこにおいて、「負の遺産」として扱われ、「破綻だ」「後の祭り」と感情的な言辞を浴びせられる。歴史的な事業に誇りをもって従事してきた私たちは、当然これに対して反論を行った。まず、この事業の最大の資産である土地について30年以上も前の買収時の単価を用いるという意図的な数字の操作を行っていることを指摘した。そしてこの「バランスシート」において全く無視された多摩ニュータウン事業の「正」の評価について以下の点をあげた。
 第1に、多摩ニュータウン事業が利益を目的とした「民業」としてではなく、「公共」事業として、公共住宅の用地を安価で大量に供給したという「遺産」が無視されていることである。現在までに673haという広大な宅地を、約5万戸の都営住宅や公団・公社の分譲・賃貸住宅建設のために供給してきた。しかもその価格は、用地買収費や建設費などからなる儲けなしの「原価」で算定され、実勢価格に比して約2分の1、バブル期には最大6分の1という安さであった。
  (資料⑤-新住事業の処分価格と周辺実勢価格の推移)
 第2には、高度な都市基盤が整備されたことである。例えば、歩車(歩行者・自動車)分離の道路、歩道や中央分離帯が整備されている広い幹線道路。開発に先立って毎時60mmの降雨に耐えられる河川改修が行われ、しかもそこに将来的には110mmにまで改修可能な用地が確保された。(現在、都の改修計画は50mmである。)下水道においては、雨水・汚水の完全分流式で居住人口30万人に対して37万人、6,000haの流域計画区域全体では60万人の処理可能な諸施設が建設された。公園は、一人あたりの面積が11.6㎡という、東京都(5.39㎡)においても、また他の都市に比べても格段に広く、そして「緑とオープンスペース」が、開発区域全面積の30%以上も確保した。
 しかもその建設費用における公負担が極めて少ない。資料③にあるように、このような質の高い基盤整備に要する費用2兆6千億円(以下、平成9年度時点での試算)のうち、そのほとんどが開発者負担であり、「税金」からの支出は合わせて5,800億円(約20%)ほどで、しかもそのうち都は2,500億円にすぎず、地元市の負担は240億円である。なおかつそれらを多摩ニュータウン事業から無償で手に入れることができ、最終的にそれが都民や市民の公共的な財産となるという極めて大きな「正」の部分がある。
 このように、「民業」とはほど遠い、利潤を目的としない公共的な事業であるがゆえに形成された都市経営や地域経営面における「正の遺産」は、経済波及効果などを考慮すれば莫大なものがある。私たちはそのデータを持ち合わせていないが、地元自治体の税収の推移を見れば明らかであろう。
  (資料⑥-多摩ニュータウン地元市財政状況の推移)
 確かに、一向に出口が見えない経済不況と「都心回帰」の中で、郊外の地価が下げ止まらず、土地の処分も低調であり、デベロッパーとしての事業経営は厳しくなっている。平成13年度末現在、残宅地は215haで、そのうち公共用地等を除く有償で売却可能な宅地は140haあり、その原価計算の採算ラインは平米14万円程度と見られる。ペイするかどうか微妙なところである。ところがこの「バランスシート」では、こうした「微妙な正味財産」を端から「負」と決めつけ、「破産」宣告し、事業からの「即時撤退」という結論を導いているのである。しかしこうした論法からすれば、「都心回帰」が不良債権処理であるように、その「正味財産」の「微妙さ」も、結局まちづくり次第であろう。
 つまり、この「バランスシート」の問題点は、事業の目的であるはずの都市づくりやまちづくりとして行われるべき議論を切り捨てていることにあり、したがって都市経営上評価されるべき莫大な「正の遺産」を無視し、事業経営上も端から「撤退」なのである。

3. 都心のための「住宅都市」を乗り越えようとした多摩ニュータウン事業の基本方針と仕組み

 日本の「ニュータウン」は、もっぱら「住宅団地」として建設された。「多摩ニュータウン」も例外ではなく、職住一体という西欧におけるニュータウンの常識とは反する形で建設が開始された。しかし全国の公的大規模ニュータウン建設は、昭和38年に施行された新住宅市街地開発法(略して「新住」法)により、単なる「団地づくり」ではなく、都市施設も一体的に整備するという「住宅都市」の建設を目指した。「多摩ニュータウン」においては、資料④にあるように、東京都主導による建設を決定した昭和39年の都首脳部会議において「新文化都市の建設」をその基本方針とした。そこで計画区域を6,900haというほぼ流域下水道の計画区域の規模とし、現在の「多摩ニュータウン」をその第1期事業と位置づけ、将来的には、都心のための「住宅都市」であることを乗り越え、近傍にある立川・日野や相模原の工業団地との連携を構造的に意識した「自立都市」としての仕組みを孕ませていたのである。そのため東京都は、昭和41年、事業の着手に際して、専管する組織を、「南多摩新都市開発本部」という、公営企業でも公社でもない、知事部局に属する局待遇の事業所として設置した。そしてそこを事務局に、東京都知事を座長として、6,900haの関係市長(多摩ニュータウン4市に日野市を加えた5市)と、都とともに新住事業や土地区画整理事業などのまちづくりの施行者である公団・公社とで構成する「南多摩開発計画会議」を置き、そこに地元自治体の行財政問題など都市経営・地域経営の観点から総合調整を行う機能を与え、その立場から都市基盤の整備を行う仕組みを作った。

4. 「多摩開発支部」の結成、そして多摩全域の都市づくり・まちづくりへの展開と挫折

 その7年後、そこで働く職員によって都職労の1支部として労働組合活動が開始された。名称には、「南」が意図的に外され、「多摩開発支部」として発足した。
 当時、2期目を迎えた美濃部都政が、「東京」を都心と多摩との2極構造にするという積極的な都市政策として「広場と青空構想」を打ち出し、そこにおいて、「多摩ニュータウン」が、立川 ─ 秋留台 ─ 八王子とともに、その極を形成する地域の1つとして位置づけられた。多摩ニュータウンという「住宅都市」を南多摩地域における広域的な連携で乗り越えるという当初の構想が、東京都全体の都市構造を扱ったこの都市政策によって、多摩地域全域に発展させられたのである。こうしたことを背景に、職場では、多摩全域に事業・職場が発展する期待感が生まれ、「多摩開発支部」として活動が始められたのである。
 その後、バブルによる都市の無秩序な膨張が最盛期であった平成2年に、「南多摩新都市開発本部」は、「多摩地域の複合的な都市機能を有する市街地の整備とこれに関連する都市施設の整備の推進」を掌理する「多摩都市整備本部」として改組された。
 しかし、バブルがはじけ、日本経済が先の見えない長期不況に陥り、そのことを背景に、それまでの都市づくりにおける分散論どころかバランス論も否定され、一極集中肯定=都心回帰の傾向が強まる。そうした下で、郊外でのまちづくりの仕事は切り捨てられ、今年4月、都においてそうした仕事を行う唯一の職場であり、また唯一「多摩」という名を冠する「局」でもある「多摩都市整備本部」は廃止された。私たちは、今、都庁の片隅に後始末的に残された職場で細々と仕事をしている。

5. 多摩ニュータウン事業の都市づくり・まちづくりとしての評価と課題

(1) 持続可能な都市づくり・まちづくりを担保した質の高い都市基盤整備
   持続可能なまちづくりにおいては、後世代の価値観にも対応できるポテンシャルと柔軟性が要求される。多摩ニュータウン事業による質の高い都市基盤整備は、その将来への可能性を担保したといえる。しかも公負担つまり後世代に余り負担をかけずにである。一方、それは過大投資であり、その分、維持管理に金がかかるといった議論がある。しかしこうした議論は、後世につながる価値観において行われるべきであろう。
   例えば、道路に広く取られた中央分離帯の存在は路面電車の敷設を、また治水としては比較的余裕のある河川改修は親水河川としての改修を可能にしている。その他水道・下水道等の生活インフラの余裕をもっての整備や、広いオープンスペースの存在は、新しい価値観による土地利用や住宅の更新に柔軟に対応できる可能性を担保している。
   また、多摩ニュータウンにおいては35年の間にそれぞれの時代に対応した様々な住宅様式が試みられ、良好な住環境もあって、域内や近隣において時代あるいは世代による需要に応じた「住み替え」という「定住化」が進行している。
   一方、「住み替え」から置き去りにされた諏訪・永山など初期入居地区において、老朽化し、今となっては狭隘となった住宅の問題がある。これは昭和40年代、多摩地域をはじめ全国の都市郊外において大量に建設された「住宅団地」に共通した深刻な問題でもある。多摩ニュータウンにおいて整備された都市基盤は、こうした団地の建て替え等リニューアルのためのまちづくりを実現可能なものとしており、現に住民の間にそうした動きがある。しかし経済環境等が原因で難航しており、政策的支援が求められている。

(2) 分散型都市構造の都市づくり
   また、神奈川県川崎市の新百合ヶ丘や相模原市の橋本までの鉄道や幹線道路の建設によって、東京圏西南部域の自立性を高め、首都圏における分散型都市構造への再編を促進している。しかし多摩市をはじめ郊外の都市の大多数は未だ昼間人口指数が100を超えておらず、依然として都心依存構造は変わっていない。こうしたことも相変わらずの課題のはずである。
   しかし今、日本では、小泉政権の下、全国でドラスティックな地方切り捨てと都市機能の一極集中が進行している。さらには、これまでの「集中か分散か」といった議論どころか、都市で集積された富を地方に配分することすらも否定されている。とりわけこの間の石原都政による都市づくりは都心に偏重し、多摩地域においては、まちづくりが放棄され、もっぱら都心のTDM=都心への車の流入を抑制する政策のための幹線道路を建設するのみという、あたかもそこに人が住んで居るということを無視したかのような偏った「都市再生」である。そこでは郊外の都心依存からの脱却という都市づくりは放棄されている。最近、その傾向がますます露骨になり、多摩地域において次々と都の施設が廃止され、行政そのものが後退している。石原都政の多摩ニュータウン事業に対する扱いは、こうした都市政策の象徴といえる。

(3) 多摩ニュータウンを中心にした住民による分散型ネットワークの進展と地域再生
   一方、郊外に定住化し、新たなライフスタイルを確立しつつある住民達によるコミュニティーが形成されつつある。とりわけ多摩ニュータウンにおいては、「まちづくりNPO」の先駆けともいえる「フュージョン長池」や、また「多摩ニュータウン学会」という、数多くの大学が多摩地域に集積されたことを背景に、「多摩ニュータウン問題」を紐帯とした学際的な研究のネットワークなどがあり、活発である。そしてこうした自発的・自立的なネットワークが近隣に確実に拡がりつつある。
   (資料⑦-フュージョン長池のホームページ)
   これは一定の地域において計画的に整備された高度の都市基盤整備の上にベッドタウンが作られたことを条件にしているのは確かである。なぜならば、これらの活動の誘因は、いずれも、ある意図をもった計画の下でのまちづくりであり、かつポテンシャルも高いがゆえに、それをどう住民として受け止め、今後どう利用するか、といった課題が実現可能な問題として住民に与えられたからである。それが住民主体のまちづくりを可能にし、またそれを促進させているのである。東京西部の丘陵部にある秋留台地域において環境問題に取り組んでいる人の「秋留台においては民間資本が土地を全面的に買い占め、住民がいない。多摩ニュータウンにおいては住民が居る。」といった発言が思い出される。多摩ニュータウンにおいても、開発当初は、他の都市近郊で行われたと同様、石油へのエネルギー転換によって既に生活基盤としての価値を失っていた山林の大規模な買収が行われたが、今、こうしたまちづくりによって生み出されたともいえる新たな「都市基盤」の上での新たな「住民」による地域再生が始まろうとしているのである。その動きを援助し、促進するまちづくりにおける新たな行政の役割が問われている。

6. 結論として ─ 住民参加のまちづくりと広域自治体の都市づくり

 日本社会も、未だに競争による「過剰」を求める一部の人たちを除き、ようやく生活の中味を大切にする、安定し成熟した社会における生活スタイルを求める傾向が強まってきている。都市郊外における自立した生活の場づくりともいえる「新文化都市の建設」という都の先輩達が多摩ニュータウン建設に思い描いた都市づくりは、そこでますます重要なものとなるはずである。多摩ニュータウン事業は、これまで先輩達の構築した枠組みの上で、その時代時代の要請に応えつつ、その潜在的な可能性を建設してきた。今後必要なのは、こうした社会経済環境に対応した新たな事業手法の開拓と仕組みづくりそして政策的な支援である。しかしバブル崩壊以降、こうした試みは頓挫したまま放置されている。「世間」では逆に、超高層ビルでの生活を「トレンド」とした都心回帰であり、行政はその「要請」に応えた「都市再生」である。そこでは莫大なエネルギーと公費が費やされるであろう。まさしく地球=グローバル的時代錯誤の過剰な生活である。多摩地域などの郊外生活に立脚した生活者がもっと声を大きくし、政策転換を求めていくことが必要であろう。
 地価の上昇が見込めないこれからのまちづくりにおける事業手法においては、開発利益と負担の公正な仕組みが不可欠であり、したがって住民の参加が事業の成否を決定する。一方、多摩ニュータウン事業がそうであったように、分散型の都市づくりにおいて広域的なマスタープランは不可欠である。住民参加という枠組みにおいて、広域的な機能・効果も意識したまちづくりを行うためには、広域自治体も「当事者」として参加することが肝要である。つまりそれは、まちづくりにおいて広域自治体 ─ 基礎的自治体 ─ 住民が、上下のツリー構造ではなく、利益もリスクも共有する横の関係で協働する枠組みである。多摩ニュータウンにおいて、都は、広域自治体としての総合調整者とまちづくりの施行者を兼ねて事業を執行してきたが、そこに欠けていたのは住民、あるいは基礎的自治体の参加の仕組みである。なぜならば開発の施行者としては、地価の上昇による余りある原資によって彼らに負担を要求する必要性が無く、一方的な「迷惑料」の拠出で済んだからである。
 今、都においては、行政改革の名の下に、幹線道路等の広域的な都市施設の建設は都、まちづくりは市町村といった一見もっともらしい行政の役割分担論が盛んである。しかしそれは、都心への「集中」による「都市再生」という都市づくりにおいての仕組みであり、地域のまちづくりを基礎にした分散型の都市づくりにおいてのものではない。
 そもそも市場原理は集積利益を追求しがちであり、ロバート・オーエン以来、労働者によるまちづくりはそうした都市化との対決の歴史であった。西欧における「ニュータウン」は、そうした郊外での分散型まちづくりとしての一つの運動であった。また行政も、市場原理によって生じる問題を様々な社会政策として対処してきたが、まちづくりにおいても、「集積不利益」という都市問題に対して対応してきた。それが都市政策であり、都市計画行政である。したがってそれらは、これまでは一応、一極集中を抑制し「分散」を志向してきた。しかし、新自由主義においては、行政自体が赤裸々に市場原理に奉仕し、まちづくり・都市づくりにおいても一極集中を促進する。これが小泉内閣・石原都政の進める「都市再生」である。それは、プラザ合意という一時的な経済環境の上で踊ったかつての中曽根民活とアーバン・ルネッサンスと同様であり、したがって「バブル」であり、そしていつか破裂する。なおかつ今度はその後始末として繰り返しているのである。
 東京都には、戦後、首都復興という都市づくりを推進するために、現在の首都圏整備法の前身である「首都建設法」の制定を住民投票によって促したという歴史がある。多摩ニュータウンにおいては、この事業を、当時の国家的要請であった大量の住宅供給にのみ応えるのではなく、「新文化都市の建設」として、したがって国ではなく、あえて広域自治体である東京都のイニシアティブの下で執行してきた。そこにあるのはいずれも「自治の精神」である。今、国家的事業とされる「都市再生」に奉仕する都の姿勢にそれは見えない。ただ国の方針に追随しているだけである。「東京から国を変える」の中身は、都と国を同値関係にすることであり、そこでは地域生活は無視される。したがって都心のまちづくりは自治体としてのそれではなく、多摩はそもそもその対象外である。
 私たちは、都の多摩のまちづくりからの撤退に反対し、東京都の都市計画行政における自治の歴史と多摩ニュータウンの経験にもとづき、あくまでも都が、多摩のまちづくりと分散型の都市づくりに当事者として関わり続けるよう主張する。そしてこうしたまちづくりは、もはや行政主導ではありえず、したがってその主張は、生活者とりわけ多摩地域・多摩ニュータウンに生活する者のものにならなければならないと考える。

資料① 多摩ニュータウン位置図

資料② 人口30万人の活力ある都市づくり

資料③ 投資額財源別内訳・都市基盤整備の費用の財源別内訳

資料④ 基本方針の変遷

資料⑤ 新住事業の処分価額と周辺実勢価額の推移

資料⑥ 多摩ニュータウン地元市財政状況の推移

資料⑦ ネットワーク 多摩フュージョン長池(八王子市)

 

●ネットワーク
No.17
多摩フュージョン長池(八王子市)

1. 事業の概要 | 2. 事業の経緯 | 3. 事業の推進体制 | 4. 事業の具体的な内容
まちも人も時代とともに変化していくが、自然のままにしたために空洞化し、地盤沈下を起こしている地域が全国に広がっている。高度経済成長期に、全国の都市郊外に次々に生まれた“ニュータウン”も、そんな危機にさらされている。行政も企業もこうしたまちの健康維持や住み良いまちづくりには、あまり手を貸してくれない。ならば自分たちの手でまちをもっと良いものにしていこうというのが「多摩フュージョン長池」の出発点である。活発かつ多彩 な事業展開に発展し、NPOとなった同組織のまちづくり手法は、全国の同じ悩みを抱える地域でも応用できる、大きな可能性を持っている。
「自由に自立した人々が創る街」がテーマ
1. 事業の概要
  • 住民の暮らしに関する様々な支援活動を行っているボランティア団体。近隣の団地・6団体と相談して約600世帯の地域に「見附が丘連絡協議会」を結成して、ゆるやかなネットワーク型の組織をイメージしながら「自由に自立した人々が創る街」を推進。最近では住民指導で高速インターネットを誘致し、話題になっている。
  • 高齢化・失業率増加・資源問題・都市の衰退・環境問題・産業構造の転換など、現代の社会問題は住民の暮らし・まちづくりに直接的間接的に大きな不安を与えているにもかかわらず、従来の行政や企業では対応しきれなくなってきているのが現実である。そんな中、「クオリティ・オブ・ライフ」の時代の主役が、行政でも企業でもなく、地域発NPOだということの実例。
  • フラットでフレキシブルな組織、アウトソーシングとIT活用などに取り組んできた。
イベントやミニコミ誌発行を通じてコミュニティが拡大
2. 事業の経緯
  • 平成6年:団地有志によるコミュニティ委員会(3人)発足。
  • 7年:アニメ上映会「平成たぬき合戦ぽんぽこ」の鑑賞会実施。
  • 8年:見附が丘フェスティバル開催(各団地)。
  • 9年:第2回見附が丘フェスティバル開催(前夜祭1,000人、当日2,000人参加)。公団ミニコミ誌「FUSON長池」に編集協力。コミュニティが拡大する。
  • 10年:インターネットによるメーリングリスト開始→PCレスキュー・街並み探検隊・スポーツ大会などへ発展。
  • 11年:ホームページ「ぽんぽこウェブ」開設。
  • 11年12月:NPO法人化「特定非営利活動法人NPOフュージョン長池」誕生。NPOとしてさらなる活動期へ入る。
10の事業部隊が横一線で活動
3. 事業の推進体制
  • 社員総会・理事会・事務局(3名)が縦の関係で並び、その下に「住見隊事業・夢見隊事業・高支隊事業・リサイクル事業・ぽんぽこ鉄道倶楽部・PCレスキュー隊・街並み探検隊・多摩丘陵散歩隊・ぽんぽこスポーツ大会・長池ぽんぽこ祭り」が横一線にフォーク状に並ぶ。

  • 正会員80人、年会費3,000円。賛助会員20人、年会費1,000円。法人会員20社、年会費3万円。
住環境づくりから子育てや福祉まで、幅広く事業展開
4. 事業の具体的な内容
  • 暮らし全般をカバーする「暮らしの支援事業」として9本の事業の柱があり、それを貫き束ねるように情報ネットの事業が位置付けられている。