【自主レポート】
歴史文化と連携したうだつの町づくり
徳島県本部/脇町職員労働組合
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道路の役割には交通機能だけでなく、市街地形成機能がある。脇町には、江戸・明治期に阿波藍や繭の集散地として栄え、当時の豪勢な「うだつ」をあげた町屋が現在に姿をとどめる町並みがある。この質が高く保存状態の良い町並みを中心とした町づくり(市街地形成)と連携した道路整備を紹介する。
脇町は徳島市より西へ約40㎞、吉野川北岸を東西にはしる憮養街道、阿讃山脈をこえて高松市に通じる讃岐街道の交差する要衝の地として重要視され、中世後期に町が形成された。江戸時代には、藩の通商振興策により、吉野川中流域での阿波藍の集散地として全国に名を知られ、藍商や呉服商などの富豪が軒を連ねた在郷の商家町として発達した。
その中心となる南町通りに面して、主屋の大半が江戸時代以来の伝統的形式で、本瓦葺の屋根に分厚い塗籠漆喰壁には、虫籠窓や「うだつ」など貴重な建築意匠が残されている。最も古いものは宝栄4年(1707年)のものであり、18世紀初頭以降の各時期の民家遺構が多く残り、近世在郷町の町屋の変遷を知ることができる。
「うだつ」とは町屋の妻壁の横に張り出した袖壁である。本来は防火壁という実用性からのものであったが、次第に装飾性をおびるようになり富豪の象徴となっていった。ことわざでいつまでもぐずぐずしていて一向に出世できないことを「うだつが上がらぬ」というのもこの由来からである。
こうした、地域の歴史や文化、風土や産業を歴史的な環境保全とあわせて地域の活性化対策として取り入れたのが町並み保存であり、「うだつ」の町づくりである。
1. 「うだつ」の町づくり
町づくりの具体的な動きは、昭和59年の「脇町の文化をすすめる会」の発足以来である。文化シンポジウムや研修会の開催、機関紙の発行など町並みの調査や先進地視察を行い、地域文化活動推進母体としてその機運を高めていった。
こうした住民運動は、行政との協調・協力関係のなかで脇町地域住宅計画や脇町総合振興計画に反映され、「歴史的町並みの保存と再生、その活用」は、脇町の主要プロジェクトとして位置付けられた。
各種団体や住民側も商工会青年部の「うだつの城下まつり」を取り組み、地域住民による「南町町並み保存会」が結成されることとなった。
町並み保存の先見的な取り組みとして、農業倉庫を活用した町立図書館、脇町高校資料館、脇町中学校などの公共施設や昭和63年にオープンした県西部屈指の大型ショッピングセンターなどの建設に本瓦葺に白壁仕上げ、そして「うだつ」等の意匠が用いられたことである。
行政と地域住民、各種団体との連携によって、市街地景観条例の制定とともに、推進期間2年という異例のはやさで昭和63年、重要伝統的建造物群保存地区の選定を受け、保存事業が進むこととなる。
2. 町づくりと道路整備
脇町の市街地中心を流れる大谷川をはさんで、左岸側の武家町跡地と商家町跡地にわかれる。川沿いの樹齢60~90年の柳並木が町並みに落ち着きをかもしだしている。現在は左岸側に近代商業地域が形成され、車両による消費者の拡大が図られている。一方、大谷川にかかる「南橋」を渡れば、時代をこえた歴史的町並みが広がる。
この町並みを東西に貫く通りは、幅員が5m程と狭いうえに道路の両側には電柱が立ち並び、架空の電線類はくもの巣のごとくであった。また、旧来基準のコンクリート側溝とアスファルト舗装であり、建物の保存・修復が進むにつれ、沿道建築物と調和した道路と道路空間の整備が求められるようになった。
平成7年度には建設省の「くらしのみちづくり事業」「歴史国道整備事業」の選定を受け、歴史的町並みの保存事業を背景に、幹線道路、周辺道路網など面的整備と休憩・交流機能を備えた道路空間を創出するための道路整備に着手することとなった。
整備にあたっては、脇町市街地景観審議会(行政、学識経験者、住民団体で構成)での議論を基本に決定した。その際、「歴史的町並みをあるがままに保存し復元すること、現代の社会生活環境の改善にどう活かすのか」という町並み保存の原則をどう守るのかが課題となった。路面にしても復元を優先すれば「土」であり、街路灯も過去には存在しないものである。したがって、保存・復元するものと新設整備するものを区分した上で、その調和を図ることを重視した。
3. 具体的な整備内容
道路整備計画にあたって、古写真や住民からの聞き取り調査、トレンチ調査結果等を参考とした。往時の通りは、開水路に青石の渡り板と土の路面である。街路灯はなく商家の屋根には屋号の入った灯篭があげられている。数回の大火を経て、土砂が5~6層に20㎝~80㎝も盛られており、川砂利が最も多い。道路の補修には石炭殻や河原の砂利を用いて、昭和30年代までは、全体に砂利が敷きつめられていた。そして、コンクリート製の水路やアスファルト舗装が施された。
【電線類の地中化】
町並みの電線類地中化は町並み復元の基本的条件であり、景観保全のみならず道路空間としての観点からも不可欠な要素である。電柱の撤去は、住民団体の「脇町の文化をすすめる会」や「南町町並み保存会」の発足で町並みの調査や保存・復元の気運が高まるにつれ要望されてきた。地中化区間は430m、対象電線類は電力線、電話線、共同TV線、電柱19本と架空線を撤去した。この電線類の地中化によって開放的な道路空間がうまれ、歴史的建造物を一層引きたたせている。
4. みちづくりの効果
最近では通りの空家であった町屋を利用して、民芸店や茶屋などが出店するようになった。平成8年7月には、うだつの町並みを訪れる人たちをもてなしの心でお迎えしようと「脇町うだつの町並ウェルカム観光ガイド」が15人で組織され現在は23人程になり、その温かい心も無形の土産品となっている。町並みを訪れる観光者も整備前の4万人から25万人が見込まれるまでになった。閑散としていた町並みから新しい息吹が感じられ、町づくりに対する活力がみなぎっている。観光客が大勢来る町は期待している何かがあり、人が住み生きいきとしているからだろう。最近、特に地域社会の住民が一つの観光資源であるとさえ言われている。博物館のような生気のない町並みではなく、生きて動いている町並みにしていく為にも、1人でも多くの観光客の方々との出会いを大切にし、語り合い、笑い、挨拶をかわし、心の触れ合いを深め、物プラスアルファーを提供することは住民の1人として役割と責任は決して小さいものではないと思う。
重要伝統的建造物群保存地区という歴史と文化と連携した道路整備事業を取り組むなかで、行政と住民や専門家、来訪者等、人と人との出会いや交流があった。そして、町づくり道づくりの議論は関わってきたすべての人々に自信と町並みへの愛着を生んできた。そして、そのプロセスから得た経験を通して醸成された文化感覚やエネルギーは今後の町づくりにおける大きな力となるであろう。多様化、個性化した現代社会に画一的な手法では対応できないのは明らかであり、柔軟な発想とたゆまない継続が必要である。
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