【代表レポート】

フィリピンからの「花嫁」問題とその後の課題

徳島県本部/東祖谷山村職員労働組合 高橋 玉美

 「過疎の嫁不足対策」として自治体と民間業者によってすすめられた「国際結婚」が成立して15年が来る。
 現在、東祖谷山村は人口約2,432人という小さな村、地場産業も観光事業も特にこれと言うものもない山深い村である。出生数は年間10人程度、中学校卒業後ほとんどの子供は村外へ出て行きそのまま帰って来ない。最近リストラによるUターンが目立ってきている。
 そんな村にフィリピンから6人の花嫁がやってきたのが1987年9月である。村をあげてのフィーバーぶりはマスコミを通じて全国に放送された。村おこしブームに乗って、又、過疎の嫁不足対策を考える町村が増えたこともあってか、他町村の議会議員たちが視察に訪れたりもした。
 私たちの職場でフィリピンから花嫁をむかえることを初めて聞いたのが2ヵ月前の7月であった。職場や地域の女性達と話をする中で、「男性中心の考え方で進められた結婚ではないか。」、「これは大変なことだ。しかしなぜフィリピンでなければならないんだろう。」、「行政が個人の結婚に口をはさむなんておかしい。ことばも通じないし、来てからのことは考えているんだろうか…。」、等々、口々に女性から声が出た。
 何を、どうすれば良いのかわからないままに、フィリピンからの花嫁をむかえたという東北の村の保健婦と連絡をとり、資料を集めては、地域の4~5人の女性達と話し合った。何度か話し合ううちに「女たちで何とかできないか」という気持ちにかられ、東京のフィリピン資料センターを訪れてみた。そこでは、直接フィリピン花嫁についての資料・情報は手に入れることは出来なかった。しかし、同じ原因、根っこから起きている外国人労働者の諸問題を知り、これから先、情報交換の出来る人間関係をつなぐことが出来たのは大きな収穫であった。
 たくさんの問題をかかえた「国際結婚」ではあるが、現実に村での生活がはじまった。地域住民として、保健婦として、行政としてどう考え対応していくのか……。国がちがい、文化やことばも全くわからない地域で生活をしなければいけない花嫁達やその家族のことを話し合う中で、私たち女の立場で出来ることを、何からでもやってみようということになった。
 そして、海外協力隊の経験をもつ同僚の協力もあり、行動が開始された。まずは友達になろうと、子供を連れ辞書を片手に訪問することを始めた。4~5人の若い母親たちそれぞれが6人の花嫁とかかわり、花嫁たちが今、困っていることがないか話を聞いたり、催しにいっしょに参加するなどで寂しさを少しでも解消できるよう努力した。広い東祖谷山村で、交通の便も悪く6人の花嫁たちがしょっちゅう行き来することはできないし、想像していた日本のイメージと全くちがう祖谷で私たちが訪問するぐらいで解決される程、事は簡単でないと思いながらも、とにかく足を運び続けた。その間、行政側としては日本語教室を1ヵ月間、週1回開催したが寒くなるにつれ集まりが悪くなり、春に再開するということで中止になった。その後再開はされなかった。
 村をあげての歓迎熱はなかなか冷めず、6人の花嫁たちは“秘境サミット”等、村おこしとイベントや、敬老会等に出席させられ、常に住民やマスコミの視線の中にいた。「村おこしのための結婚でもないし、いいかげんに本人同士の生活をそっとしてやるのが本当じゃないか。」「敬老会と花嫁が結びつくなんておかしい。見せものではないのに……。」等の声が住民や私のいる職場からも出され、それぞれが自分の生活を考えられるようになったのは、花嫁がとついで3~4ヵ月経った頃だった。
 私たちは、フィリピン資料センターのスタッフと連絡をとり、一緒に6組のカップルを訪問した。かかわっていく中でことばの問題や、嫁姑間の問題……たくさんの問題をかかえながらもたくましく生きている花嫁たちを前に、私自身のなかに、日本社会に同化させようとしている姿に気がつくことができた。日本語教室を彼女達にするのなら、私達の側においてもタガログ語教室を開くなどして、フィリピンのことを知ろうとすることが必要ではなかったかと……。そして同化させるのではなく、東祖谷山村でフィリピン人としての誇りを持って、生活がおくれるように周囲の人たちといっしょに考えなければいけないと思った。
 花嫁たちは、自分達の住む地区のお祭りなどの手伝いや接待に出るなど、はやく東祖谷になじもうとする努力が感じられた。私たちは、各戸を訪問したことによって、ことばがわからない、あそぶところがない、山の中でさみしい、夫は酒をのむつきあいが多い、朝はやくおきて弁当をつくるのがつらい、日本料理がわからない、など、「さみしい」、「知らない」「わからない」、など花嫁たちがひとりで動けない状況が見えてきた。そのことがきっかけで、月1回のミーティングの時間を持つようになった。四国学院大学からもボランティアで参加してくれ、月1回のミーティングは「ミズオープンセミナー」として形あるものになり、1988年4月から具体的に動き出した。
 「ミズオープンセミナー」では、地域の女性の交流を深めるとともに、女の立場で生活を見直してみるという内容で計画をたてた。生活改良普及所、村教育委員会の補助事業など行政の援助があり、わずかながら予算化された。参加者の募集は、村の広報誌に載せたり、この問題を一緒に考えてきた女性たちが中心になって呼びかけた。セミナーではフィリピンの料理を花嫁たちから教えてもらい、弁当やおやつを一緒につくりながら学びあった。また、4人の花嫁たちは妊娠しており、かかりつけの県立三好病院のスタッフがセミナーに参加するなかで信頼関係を築くことができ、花嫁たちの希望にそいながら無事出産につなげることができた。
 6人の花嫁を中心に始まったセミナーが東祖谷に住む女性たちにとって、地域の女性たちの交流を深めることや、生活を見直しという点では一定の成果は得られたと思うが、外国籍住民の持つ悩みや問題を自分のこととしてとらえるための話し合いを深めることは充分できなかった。また、地域の女性やボランティアの協力でセミナーを開くことができたが、行改のなかで外国籍住民の問題を将来にわたって考えていくための位置づけまでには至らなかった。
 例えば、ことばの問題にしても、「しゃべれたら良し」としており、読む、書く、話すの全体的な力をつけなければ、それが原因で仕事につけない現実があることや、家族関係においても疎外されることにつながっていることに当時の行政関係者は気がついてはいなかった。セミナー自体通訳のボランティアがいつも必要だったし、ことばの壁で悩むことがいちばん多かった。また、日本国籍をとることを家族は望むが、フィリピンの家族との関係が変わることへの不安や、国籍をとることが、本当に日本でフィリピン人として生きていくことにつながるのかなど、考えさせられる問題が多く出された。これらのことを行政の課題として議会や行政に働きかける力が私たち女性の側になかったことが、結果として、問題が過去のことのようにとらえられていることに現れている。
 これらの問題が解決されていくためには、マイノリティの人たちの思いや実態を出し合える場が必要であり、そこに参加をした私たちのなかにある自らの問題に気がつくことで共有化を図ることが大切である。そこからでないと、自治体行政における人権をキーワードにしたひとづくり、まちづくり、社会づくりの具体化はスタートしないのではないかと考える。
 東祖谷山村には現在8人のフィリピン籍の女性が住んでいます。0歳から14歳までの子どもたちは日本とフィリピンとを行き来しながら成長しています。異文化交流が世代を越えて拡がることを願いながら、報告とする。