人口約45,000人の加西市は、約150平方キロメートルに及ぶ広大な面積を有し、兵庫県のほぼ中央に位置しています。豊かな農業基盤に恵まれ、酒米として有名な山田錦を含めた稲作を中心にぶどう、とまと、いちご、アスパラガス等の生産が盛んに行われています。
また、歴史も深く、713年に編纂された播磨国風土記に賀茂の国として加西市周辺が記されており、風土記に登場する根日女(ねひめ)が眠るとされる前方後円墳の玉丘古墳などの古墳群や山陽道の裏街道である西国街道の在郷町として栄えた古い町並みが残り、先人達によって栄え、地域が維持されてきたことが見て感じられる地域です。
他方、1986年の53,000人をピークに、徐々に人口の減少が始まり、現在まで急激な人口減を経験していませんが、全国の多くの市町村同様、人口が減っていく中での人口構成内容で若者(18歳から28歳)が極端に少なく、地域住民の減少と共にコミュニティにおける共同体の関係が希薄になり、地域課題を自律的に解決してきた協同のシステムが機能しなくなり、行政側も職員の減少やコストの増加によって、地域ニーズに合った取り組みができなくなり、新たな仕組みづくりが必要となっていました。そこで、加西市も住民自治組織として、小学校区を単位とした「ふるさと創造会議」を立ち上げるべく、2012年度から事業を開始しました。私は、その事業の立ち上げからその部署に配属され、「地域づくり」に関わっていくことになりました。
全国では、まちづくり協議会や振興会などといった小学校区を一つの単位とした住民自治組織を立ち上げ、その地域に応じた活動を取り入れ、「自分たちの地域は自分たちで守る」という「自助」「共助」を高めるまちづくり活動が進められています。
この活動の一つのきっかけとなったのは、平成の大合併に伴い、市域が広くなり、行政が地域ごとのきめ細やかな住民サービスができなくなること、また合併により従来どおりに行政サービスを受けられなくなる住民側の思いからお互いがヒト・モノ・カネを出し、特に西日本において積極的に取り組まれてきました。
市町村合併が無かった加西市において、ふるさと創造会議の立ち上げを進めるには大変な苦労が伴いました。市としては、大変大きな事業という位置づけでしたが、担当が2人しか配置されず、その状況下で市内11の小学校区で立ち上げていくことは、時間も人材も不足しておりました。2013年度に最初の創造会議が立ち上がり、11番目の創造会議が立ち上がったのは2017年度で、取り組み開始から6年間もかかってしまいました。
では、これからどのようにして、立ち上げに向けて取り組んでいったかをお話ししたいと思います。
まずは住民に現状認識とこの取り組みの必要性を認識していただくことから始まります。
当時の高齢化率は約28パーセントで、地域もなんとなく子どもが少なくなってきたな、消防団員の確保が苦しくなってきたなと漠然とした情報や雰囲気で感じながらも、地域活動が困難になってきたという実感は無いので、なぜ、自治会があるのに、さらに広い小学校区単位で何をするかわからない創造会議なるものを立ち上げないといけないのか、なぜ屋上に屋を架すようなことをするのかといった意見が、タウンミーティングや地元説明会では出されました。
そこで、まずは現実を知っていただくために、4月1日時点における市内自治会ごとの人口表を作成しました。0歳児から15歳までは1歳刻み、16歳以上は5歳刻みで一覧表にしました。説明会は小学校区単位で行っていましたので、その学区内の自治会はお互いが見られるように配布しました。人口表は毎月、市のHPで公表され、自治会ごとの数字も公開されていましたので、それを見やすく加工しました。
この数字を見せるという取り組みは、大変効果がありました。自分の町はあと2年すれば、小学生の数がゼロになることがわかったり、20歳から25歳は1人しか居ないことや高齢化率が40パーセントに迫っていたりなどありのままの現状と将来の推計を知ることになり、参加されていた方の顔色が変わっていきました。
また、地域活動を支えている年代である40代から70代の人口を見て、近い将来、現在行っている地域活動(水路の清掃、ため池の管理、山の管理など)が行えなくなるという姿を想像できるようになってきました。そこで、小学校区であれば、文化や慣例が似ており、幼馴染も多く残っている中で、自治会を超えての活動ができるのではないかという思いを持っていただけるようになってきたと感じました。
次に人材をどうするかが課題となりました。地域への説明会では、区長(自治会長のこと)を中心として、各自治会の役員が多く参加されていました。その中で、区長を経験された方の中から創造会議の中心を担ってもらえるような方にお願いすることになりました。
加西市の自治会への加入率は95パーセント以上を誇っており、区長経験者はその地域を熟知しているとともに住民からも一目置かれる存在の方が多くいらっしゃいます。歴代の経験者の中からより良い人材を選んで代表者(会長)へ依頼することになりました。同時に、各創造会議に事務局を置くことを必須としておりましたので、代表の右腕となるような方も同時に選出をお願いしていきました。代表者と事務局長が決まると創造会議の立ち上げに向けていよいよ動き出すことになります。
次のステップは、小学校区内からの人材探しです。
加西市の場合は、円卓会議の実施を進めていました。円卓会議とは、同じ小学校区内で活動している各種団体や自治会からの推薦という形で、地域活動への理解や行動力のある方に参加していただいて、同じテーマでワークショップを行うというものです。
どうしても各種団体や自治会推薦となると、50代以上の男性で固まってしまうのですが、可能な限り多くの住民の声を聴いていきたいという主旨から、女性や若者に積極的に参加を促しました。地域によっては、各町から女性は必ず1人は推薦するというルールや地元から大学に通っている学生が参加してくれました。女性や若い世代が入ることで、高齢の方も気づきや刺激を受けて、積極的に話をしていただくことができました。その小学校区内で活動している各種団体の代表者も新たな横のつながりが生まれ、単独で行ってきた事業を一緒になって実施してみようかといった動きも出てきました。
円卓会議では、「人の話は聞く」「批判はしない。でも、しかしは禁止」といった共通ルールで開催し、地域おこし協力隊員や市役所の職員で地域担当職員を任命された者が司会進行を行い、各地域で2から5回開催して、その地域の課題や強み、地域を知るといった体験をしていき、組織化を進めていきました。特に女性の意見は、斬新で前向きな発言が多く、結婚によりその地域に移り住んだ方ばかりなので、いわゆる「ヨソモノ」目線を組み入れていけたのは良かったと感じています。
円卓会議で人材を発掘し、主要なメンバーとしての役員が固まれば、あとは、設立まではスムーズに進み、小さな事業から、成功体験を積み上げていき、円卓会議を開催してから1年以内に設立まで進んでいけるようになり、6年間で11地区全てに創造会議を立ち上げていくことができました。
さて、私には加西市内の11地区の創造会議の中で、印象深い創造会議が2団体あります。「富田まちづくり協議会」と「西在田地区ふるさと創造会議 虹の郷にしありた」いう2つの団体です。
「富田まちづくり協議会」は、兵庫県の事業を活用して2006年に立ち上がっていた協議会で、地域で栽培されてきた青大豆を活用して、味噌づくりを核に地域づくりを進められてきました。創造会議としての組織移行はスムーズにできたのですが、設立から6年を迎え、味噌づくりや夏祭り等の事業や人材も入れ替わりがほとんどなく、マンネリ化している状況でした。創造会議事業は、市からの交付金がありますので、それをうまく活用して地域の皆さんを活気づけられないかと考えていました。毎週のように役員会に参加して、他愛もない話をしつつ、役員さんが協議会をどのようにしていきたいのかを聴き取るように努めました。職場で話をするよりも役員会の中に参加し、現場で見て聴いて行動すると見えてくるものがあります。この協議会は、味噌づくりを発展していけたらという思いが強い地域でした。味噌は、地域住民が当番を決め製造し、注文をあらかじめ聞いて、地域内で消費していました。そこで、製造している場所で味噌製造許可を得るためには必要最小限どこを修繕すれば許可を得られるのかを、保健所と協議を進めて、念願の許可を取りました。さらに、食品衛生管理者を地域内で募集し、4人の管理者が誕生しました。
製造許可を得るには、大変難しいという固定観念を持たれていたので、県の職員に現場を見てもらい、指摘事項を改善すれば許可を得られることが分かったので、役員や味噌づくりを担っている方々の機運が一気に高まりました。許可を得たことで、市の小学校の給食にも採用され、販路の確保と地域貢献を実践しているというプライドが生まれ、組織のステージがワンランク上がったと感じています。
当時の会長が事務局長となり、新たな会長が誕生し、組織力の強化にも繋がりました。
「虹の郷にしありた」は市内の最北端に位置する7つの自治会によって構成された創造会議です。
この地域の設立に向けては、加西市で最初の地域おこし協力隊(市単独事業)を導入し、地域の大学生も関わり、設立に向かって動き始めました。円卓会議を進めて、当時の区長が退任するタイミングで設立という運びとなりました。この地域は、若い世代は地域外に流出しており、なかなか人材が集まりません。また、秋祭りというような地域が一体となって行う行事がありませんでした。そこで、お盆の帰省のタイミングで夏祭りを企画し、地域の住民が集まれる場を作ろうと実行されました。その中心となったのは、50代の子育てが一区切りついた方々でした。50代の住民が地域参加し、企画運営することは市内でも無かった取り組みであり、第1回目は大成功に終わりました。
しかし、役員の構成の中で、いわゆる充て職として入っていた方が、会議でネガティブな発言や他者の発言を遮るアイデアキラーとしてふるまわれた関係で、役員の機運が下がってしまい、約2年間夏祭りが中止となってしまいました。アイデアキラーも地域住民でもあり、役員から外すという強権的な行為はできませんでした。会社であれば、方針にそぐわない方は組織から外すということができますが、地域自治組織はそういう訳にはいきません。適度な距離感を持って、アイデアキラーと付き合いながら、創造会議の地域力をどのように高めていくかが課題となってしまいました。
そこで、地域おこし協力隊が、その50代の方々との人間関係を構築していくことを継続して取り組み、夏祭り以外の事業に取り組んで、地域での活動体験を積んでいき、地域愛(シビックプライド)を高めていきました。
役員交代によって、アイデアキラーが不在となり、いままで温めていたアイデアを実行に移そうとなったときの地域力はすばらしいものがありました。20代は推進力を生み、40から50代の方はそれを役員と一緒に地域の区長や各種団体との調整を行い、3年ぶりに夏祭りが開催されました。
お盆ということもあったのですが、地域の子ども達がたくさん集まり、帰省してきた大人たちも同窓会のように昔話を繰り広げ、温かい雰囲気で居心地のよい夏祭りが成功しました。夏祭りの最後は、地元小学生有志がステージに立ち、校歌を歌い、参加者も大合唱し、拍手喝さいで夏祭りが終了しました。
私も夏祭りに参加したのですが、その地域に住んでいない者でもホッとする夏祭りで、このような取り組みを全地区で実施していただけたらと、その日から他の創造会議に話をし、交付金制度の中に地域の祭りの開催を盛り込みました。
創造会議を全地区立ち上げるというファーストステップは終了しました。次のセカンドステップでは、創造会議は法人化し、自ら地域課題を解決し、包括交付金を市が準備し、自主的な活動を実践していく団体に成長できればと思っています。
しかし、地域づくりは一足飛びにはできません。企業のように従業員が企業利益を得る目標に向かって同じ方向を向いて活動するのではなく、たまたまその地域に住んでいる人の集合体が地域であり、さまざまな意見を持った人の集まりであるから、意思決定に時間はかかるし、慎重にならざるを得ません。
この創造会議の取り組みは、一つの家族でできないことも地域を一つの家族として捉えたら対応していけることがあります。それに向けて、地域の人と人を繋いでいくことから始めていかないといけないと感じています。もう語りつくされていますが、地域育ては人育て、子育ては地域育て、人が変われば地域も変わると思っています。地域の良さを知り、愛し、誇る。そして、人がつながり、地域を思う気持ちが相互に芽生え、高齢化や少子化を嘆くより、気軽に挨拶し会話をし、お互いが支え合える環境を作り上げていくことがこれからの地域づくりに最も必要なことだと思っています。
そのためには、地域に1歩、いや半歩でも歩みだすという勇気を全住民に持っていただけるようにしたい。地域づくりにゴールは無いと思います。子どもや孫の世代に地域愛を育むために、性別や仕事は関係なく、地域参加していきたいと仕事を通じて、私の心も成長させてくれました。
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