【自主レポート】

第37回土佐自治研集会
第2分科会 まちの元気を語るかよ~町ん中と山ん中の活性化~

 文化庁は2015年度に「日本遺産」を創設し、2020年の東京オリンピック・パラリンピックまでに、全国から100件程度を認定する予定です。地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーで、出雲市は、「日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~」をタイトルに「日本遺産」に認定されました。日本遺産を広く情報発信し、魅力ある有形・無形の文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、観光振興・海岸保全と地域の活性化を図ります。



「日本遺産」文化の継承と観光事業の活性化

島根県本部/出雲市職員連合労働組合

1. はじめに

 出雲市の長い海岸は、この度認定された、日本遺産「日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~」のストーリーを語るうえで、なくてはならない重要なスポットです。
 その海岸には、潮の流れに乗って国内外の多くの漂流物が集まり、回収や処分に苦慮しています。漂流物の中には、外国からの薬品入りのポリタンクや、針付の注射器等の医療系廃棄物などの危険物も数多くあります。
 また、国勢調査の結果から、出雲市全体を見ると多少の人口の増加(+0.3%)が見られるものの、海岸部や中山間部の地域では世帯数及び人口が減少しています。
 出雲大社の大遷宮を皮切りに、観光客の増大やメディアへの露出が増え、出雲地域の認知度は向上していますが、海岸の保全、海岸部の人口減少に歯止めをかけるためにも新たな政策等が求められています。

2. 出雲市の情勢

 出雲市は、島根県の東部に位置し、北部は国引き神話で知られる島根半島、中央部は出雲平野、南部は中国山地で構成されています。
 出雲平野は、中国山地に源を発する斐伊川と神戸川の二大河川により形成された沖積平野で、斐伊川は平野の中央部を東進して宍道湖に注ぎ、神戸川は西進して日本海に注いでいます。
 日本海に面する島根半島は、リアス式海岸が展開しており、海、山、平野、川、湖と多彩な地勢を有しています。
 中でも、海岸部は、歴史的魅力の溢れる文化財が多くあると同時に、海岸清掃のボランティア活動が盛んで、海岸部以外の住民の参加もあり、広く市民に親しまれています。

3. 日本遺産とは

(1) 主旨と目的
 地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」に認定するとともに、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内外に戦略的に発信することにより、地域の活性化を図ります。

(2) 審査基準
① ストーリーの内容が、当該地域の際だった歴史的特徴・特色を示すものであるとともに我が国の魅力を十分に伝えるものになっていること。
② 日本遺産という資質を活かした地域づくりについての将来像(ビジョン)と、実現に向けた具体的な方策が適切に示されていること。
③ ストーリーの国内外への戦略的・効果的な発信など、日本遺産を通じた地域活性化の推進が可能となる体制が整備されていること。

(3) 出雲市における「日本遺産」
 出雲市は、「日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~」をタイトルにしたストーリーを2017年2月1日付けで文化庁に申請し、2017年度の日本遺産に認定されました。
① 特 色
  ア 興味深さ:「美しい夕日」という誰をも惹きつけるテーマ設定
  イ 斬新さ:地元でもあまり観光資源として注目されていなかった素材
    (これまでの日本遺産にないカテゴリー)
  ウ 訴求力:外国人にもわかりやすく、イメージしやすい「文化遺産」
  エ 希少性:夕日の名所は多いが「祈りの歴史」がたどれるのは出雲だけ
  オ 地域性:まさに出雲の地域性(地理的・歴史的特性)を全面に打ち出したストーリー
    (出雲大社や日御碕神社のあまり知られていない側面にスポット)
② ストーリーの概要
 島根半島西端の海岸線は、出雲神話の舞台となった「稲佐の浜」と「日御碕」の名で親しまれ、そこから見る夕日は絶景です。しかしこの海岸線に、夕日にちなんだお社である「天日隅宮(あめのひすみのみや)」(出雲大社)と「日沈宮(ひしずみのみや)」(日御碕神社)が祀られていることはあまり知られていません。
 古来、大和の北西にある出雲は、日が沈む聖地として認識されていました。とりわけ、出雲の人々は夕日を神聖視して、畏敬の念を抱いていたと考えられます。
 海に沈むこの地の美しい夕日は、日が沈む聖地出雲の祈りの歴史を語り継いでいます。

4. 「日本遺産」文化の継承と観光事業の活性化

(1) 「日本遺産」による効果
 「日本遺産」では、地方に住む住民が当たり前のように感じていた文化や景色、一部で忘れ去られようとしていた歴史を、地域固有の魅力としてストーリーとしてわかりやすく整理し、国内外に情報発信することが求められます。
 これは、都市部が地方に求める各地域固有の情報として、近年注目されている内容であるとともに、文化庁の認定があることで、国内の都市部や国外の観光客に強いインパクトを与える、新たなコンテンツとして期待されます。
 出雲市では、出雲市日本遺産推進協議会を発足し、日本遺産「日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~」を、全国及び世界へ広く情報発信し、日本海に沈む夕日の美しさや人々の祈りの歴史を、観光客や市民に体感していただく取り組み等について、地域住民、企業等民間団体及び市が共働で事業を推進することにより、観光振興と地域の活性化及び出雲への愛着の醸成を図ります。
 なお、出雲市の観光産業においては、通過型の観光客が多く、出雲市内の宿泊施設等のサービス事業への事業効果が減少傾向にありましたが、今回、日本遺産のテーマに夕日を盛り込んだことにより、観光客の出雲市での滞在時間帯が延長されることが期待され、宿泊客の増加による、海岸部に多くある地域密着型の宿泊施設や飲食業の活性化が期待されています。

(2) 沿岸部での地域活動と課題
 「日本遺産」のテーマでもある夕日と関連の深い沿岸部では、地域のコミュニティやクラブ、小中学校等の実施団体により、年間を通じて大人から子供まで参加し海岸清掃のボランティア活動が実施されています。
 参加者の多い地域では1,000人以上の参加があり、延べ参加人数は4,000人を超えており、長大な海岸を有する出雲市の文化の一つとして構築されています。
 しかしながら、各地域のコミュニティそれぞれで活動が企画されていることが多く、過疎化が進む地域においては、参加人数が数人から数十人の清掃活動もあり、海岸の十分な清掃が実施できなくなってきています。

(3) 当組合の取り組み
 市民とともに活動できる海岸清掃活動への参加は、内容が明確であり参加しやすいだけでなく、効果が目に見えることから達成感も強く得られます。
 経験の共有による参加市民と職員の一体感の構築は、新たなつながりを生むとともに、出雲への愛着の醸成につながる重要な取り組みと位置付け、組織として日本遺産「日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~」との関連が深い海岸清掃活動への参加を働きかけ、文化、観光資源としての海岸の保全に取り組んでいきます。
 また、組合員によるネットワークやソーシャルメディアの利用による情報発信を積極的に促し、「日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~」のPRを行うとともに、日本遺産の理解を深めます。
 「日が沈む聖地出雲~神が創り出した地の夕日を巡る~」の理解と海岸清掃活動への参加は、市民と職員のつながりを強化し、沿岸部の素晴らしい景色と良好な環境、文化の保全は、観光客への上質なサービスとなり、地域活性化につながる有効な手法として、今後も継続し、発展させていきます。

5. まとめ

 日本遺産の認定に伴う観光業の振興策は、2018年度から本格実施するものであり、これまで行政が主体となって日本遺産認定まで取り組んでいましたが、今後は地域住民が主体となる協議会に実施主体が変わります。地域住民が自らの地域の活性化のために自ら考え動くことが、地域の中で誇りと愛着の精神を醸成させ、当該地域の活性化に期するものと考えます。また、本地域には既存の住民が主体となった協議会がそれぞれの地区で活動しており、それら既存協議会との連携の可能性も十分に考えられます。今後の取り組みの積み重ねの中で実績と課題が見え、労働組合としての取り組むべき活動が見えてくるものと思われます。
 次世代へ、この地域、文化を残そうとする思いが、人口減少の歯止めとなり、そこに暮らす人々が次の世代へ命をつなぎ、繁栄していくことで、真の地域振興が見えてくるのではないでしょうか。

― 日本遺産認定ストーリーの紹介 ―

「神が創り出した海岸線」
 『出雲国風土記(いずものくにふどき)』の「国引き神話」では、出雲平野の北にそびえる山塊と西を縁取る砂浜は、巨大な神ヤツカミズオミヅヌが、海の彼方から引き寄せた「国(土地)」と使った「綱」とされています。また、砂浜と山塊の境に位置する浜は、オオクニヌシが高天原の使者タケミカヅチと会見して、国を譲り渡すことを承諾した『古事記』の「国譲り神話」の舞台として知られています。
 西方の海に弓なりに開くこの海岸線は、滑らかな砂浜から岩肌がむき出しの荒磯へとダイナミックに変化し、まさに神業によると例えられるにふさわしい景観です。
 奈良時代に「伊那佐之の小浜(おばま)」や「出雲の御埼山(いずものみさきやま)」と記されたこの海岸線は、今ではそれぞれ「稲佐の浜」や「日御碕」の名で親しまれており、いずれも日本海に沈む夕日の絶景エリアとして人々に愛されています。
 しかし、出雲の人々がいにしえからこの地で日の入りにちなんだお社である「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と「日沈宮(ひしずみのみや)」を祀り、夕日に畏敬の念を抱いていたことはあまり知られていません。

稲佐の浜の夕日と「天日隅宮」
 夕暮れ時の稲佐の浜に立つと、紅くれないに染まる空が渚にたたずむ弁天島のシルエットを際立たせる幻想的な光景が広がります。また、弁天島より南では見渡す限りの夕焼け空と、海に溶け込む茜色の光が織りなす大パノラマを体感できます。
 稲佐の浜(薗(その)の長浜(ながはま))は南北約10kmにわたる砂浜で、かつては西へ開いた出雲の海の玄関口として多くの船や人を迎えました。「国譲り神話」の舞台となったのは稲佐の浜の北端で、この弁天島がある辺りと言い伝えられています。ここでオオクニヌシは自身の霊が住むための宮を築くことを条件に国譲りを承諾しました。この宮が浜から東へ1kmほど離れた出雲大社であり、『日本書紀』では「天日隅宮」と記されています。その名称から、この地がかつて日が沈む聖地として認識されていたことがうかがえます。
 今でも旧暦10月10日には日没を待って、出雲大社の神職が全国から参集される八百万(やおよろず)の神々をお迎えする「神迎(かみむかえ)神事」がこの稲佐の浜で執り行われています。太古から変わらない日の入りへの思いは、今日まで連綿と受け継がれています。

日御碕の夕日と「日沈宮」
 日御碕の海岸線は、奇岩や絶壁が複雑に入り組む荒々しい景観を呈しており、稲佐の浜とはまた異なった魅力のある夕日や景色を見ることができます。平安時代初期、画聖の巨勢金岡(こせのかなおか)は、この海岸線にある島の一つを絵にしようとしましたが、朝夕刻々と変化する美しさをついに描ききれず絵筆を投げたそうです。「筆投島(ふでなげじま)」の名称の由来として伝わるこのエピソードは、そのことを端的に示しています。
 日御碕の名が示すとおり、古くから「日」に縁がある岬として広く知られていたこの地には、明治時代に出雲日御碕灯台が建設され、白亜の灯台が立つ今日の美しい風景が整いました。日御碕を訪れると、灯台越しに海に沈む夕日が、次々に打ち寄せる波頭や海に浮かぶ岩礁を赤く染める、絵画のような景色を観賞することができます。
 日御碕の西側にはたくさんの経巻が固まってできたという伝承が残る経島(ふみしま)があります。春先から夏にかけては、島の上を飛び交うウミネコのシルエットが夕日の美しさに変化を加えます。また、毎年8月7日には、日御碕神社の神職によって夕日を背景にした「神幸(みゆき)神事」が執り行われます。
 日御碕神社にはスサノオを祀る神(かみ)の宮(みや)とアマテラスを祭神とする日沈宮があります。日の出の太陽に象徴されるアマテラスは、ここ出雲では日の入りの夕日に象徴され、江戸時代には、日沈宮は日が沈む聖地の宮と称されるようになります。
 さらに、南東の高台に鎮座する月読社(つきよみしゃ)にはツクヨミが祀られています。アマテラスと対をなす神とされ、スサノオを含めて三貴子に称されるツクヨミもまた、この地の夕日を見守っています。

日が沈む聖地出雲
 古来、政権の中心であった大和から見ると、太陽は北西の出雲に沈みます。このことから出雲は「日が沈む海の彼方の異界につながる地」として認識されたと考えられます。中央で編まれた『古事記』や『日本書紀』で、出雲が「黄泉国(よみのくに)」と「地上世界」をつなぐ地として描かれているのは、古代の人々が出雲を「日が沈む地」とイメージしていたことに端を発するのかもしれません。
 今日も出雲では夕暮れ時の挨拶として「ばんじまして」という方言が使われています。他の地域ではあまり耳にしない「こんにちは」と「こんばんは」の間を結ぶ挨拶で、夕刻に格別な思いを抱く出雲の人々の心情が垣間見えます。
 穏やかな表情や荒々しい姿を見せる海岸線。それを舞台に圧倒的な存在感を示す夕日。両者が織りなす美しい夕景は神により創り出されたとこの地に生きた人々は感じてきたことでしょう。
 出雲の海岸線に立って海に沈む美しい夕日に祈り、出雲神話にちなんだ神社や登場地を巡ると、日が沈む聖地出雲の祈りの歴史を体感することができます。