【自主レポート】

第37回土佐自治研集会
第2分科会 まちの元気を語るかよ~町ん中と山ん中の活性化~

 近年、「地方が観光で稼ぐ」という言葉をよく耳にするが、観光は地域を幸せにするための手段の1つに過ぎない。観光ありきの議論ではなく、それより先に観光の目的を地域ごとに考えるべきなのではないか? 地方にはさまざまな産業があるが、観光が将来の地方の幸せのために果たせる役割について、やきものの町である佐賀県有田町を例に考えてみたい。



地方と観光の幸せな関係
―― 佐賀県有田町・有田焼を例に考える ――

佐賀県本部/有田町職員労働組合 深江 亮平

1. 「観光ありき」の議論の中で(問題提起)

 私は、観光行政に15年携わっているが、「観光」という言葉があまり好きではない。
 地方創生の施策が進められる中で、観光の果たす役割に期待が高まっている。各地の会議で日本版DMOという言葉が盛んに語られ、地方が観光で稼ぐための方法論が雑誌に数多く掲載されている。また、県や市町の面白い取り組みがテレビやWEBメディアでたくさん紹介されている。
 地域の経済を回すために、もちろん観光(で稼ぐこと)は必要である。ただ、観光は地域を幸せにするための「手段」の1つに過ぎない。日本版DMOや観光で稼ぐための方法論は、さらにその手段を実現ための手段の1つに過ぎない。そのはずなのに、観光ありきの議論の過熱によって「手段」が「目的」になってしまっている気がしてならない。地理的条件、産業、人口、気象条件など、その地域が置かれた状況はさまざまである。もしかしたら、国内全ての地域にDMOが必要ではないかも知れないし、他の手段があるかも知れない。地域の特徴によって、手段は違っていいはずである。
 また、画一化された観光施策のもと、「活性化」「交流人口の拡大」「お金を落としてもらう」という、少し乱暴な言葉が用いられ、観光の施策には必ず目標数値が設定されている。例えば、「海外からの観光客○○人」、「宿泊者数○○人」、「観光消費額○○円」、「○○%アップ」、といった具合である。この数字がクリアできれば、どんな人が来てもいいのか? 何が売れてもいいのか? こういう分かりやすい数字が、これまた目的になってしまっていて、本当の目的を見失っている気がする。この数字を追いかけて、地域は将来幸せになれるのであろうか? 大切なのは今ではなくて将来である。
 地域ごとの観光が果たせる役割、観光振興を行う目的は何なのか?
 私が住む佐賀県有田町は有田焼というやきもの産地である。有田町を例に、また有田焼という産業を例に、観光が果たせる役割について考えてみたい。地域や産業の幸せな将来のために、観光は何をめざせばいいのか?

2. 有田町と有田焼の現状

(1) 有田町の代表的な産業である有田焼
 佐賀県有田町は、400年続くやきものの町である。有田町とその周辺で製造される磁器のことを有田焼という。2006年にやきものの町である「有田町」と農畜産業が盛んな「西有田町」が合併をして「有田町」となったが、町民(成人)の20%近くが何らかの形で有田焼に携わって生活していることもあり、町の基幹産業と言っていいと思われる。

(2) 観光素材としての有田焼
 合併前の旧有田町エリアは、町全体が、およそ380年前に佐賀藩が作ったやきもの専用の工業団地で、現在も同じエリアで陶磁器産業が行われている。それに加え、有田焼の原料である陶石を産出した採掘場、古い窯跡、窯元のギャラリーや商店、美術館などの資源がある。中でも、江戸時代に高級量産品を作っていた内山地区は、東西およそ2kmの通りに窯元の屋敷や商家が立ち並び、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。古い町並みも大切な観光資源である。毎年ゴールデンウイークにはこの通りを中心に有田陶器市が開催される。これら、有田焼とそれを育んだ自然や町並みを素材とした観光振興にも取り組んでいる。

(3) 有田焼の現状
 有田焼の売り上げは、ピーク時(1990年)のおよそ15%まで落ち込んでいると言われている。
 また、売り上げの減少とともに深刻な後継者、担い手不足の問題を抱えている。これは、ほとんどの全国の伝統工芸の産地と同じ状況である。
 江戸時代に大量にヨーロッパに輸出をされ、王侯貴族の宮殿を華やかに彩った古伊万里(江戸時代に作られた有田焼のこと。伊万里の港から積み出されたので伊万里焼と呼ばれていた)が、今から40年ほど前に日本国内に買い戻された。いわゆる「里帰り」である。それが、全国の百貨店を巡回し、日本全国で空前の古伊万里ブームが起こった。そこからバブル景気に乗って有田焼の売り上げは好調となり、1991年にピークを迎えた。ところが、バブル崩壊後、ホテル、旅館などの割烹食器分野の市場が小さくなり、また食生活の変化に伴って、家庭で食器を使う機会が減ってきたことなどが原因で、有田焼は現在も苦境に立たされている。2016年に創業400年を迎え、(特に海外向けに)販路拡大などの大々的な事業を行ったが、そこで何かが飛躍的に伸びたということは、今のところない(もちろん、これから成長しそうなプロジェクトはある)。

(4) 有田焼産業の構造と課題
 有田焼産業の課題はたくさんあるが、その1つに上述した後継者、担い手の不足が挙げられる。
 それを詳しく見ていくために、この産業の構造を説明したい。
 やきものの製造体制は大雑把にいうと2つに分類することができる。
 1つは、「陶芸作家」と呼ばれる、全ての工程を1人で行い、個人の名前で売り出している人のことである。もう1つは、「窯元」と呼ばれる工場で、職人と呼ばれる各分野のエキスパートが分業で作っている体制である。有田という産地は、もともと陶芸作家がたくさんいるところではなく、従業員5~10人くらいの工場が多く集まったところで(近年は陶芸作家も増えてきているが)、家族で行っているところも多い。
 一般的にはやきものの製造工程全てを窯元で行っていると思われているが、各工程は細かく分かれていて、実は窯元はその一部を担っているだけなのである。下図のとおり、窯元の手に渡る前に、製土業、型製造業、生地製造業の職人たちの手を経て生地が完成し、窯元で絵付け、施釉、焼成(その後上絵付け、上絵焼成を行うこともある)が行われる。上絵付け、上絵焼成はさらに外注するケースも多い。ここで商品は完成するが、その後、産地卸、消費地卸を経由して、小売店に並ぶのである。この中で、そもそもの商品企画は商社や窯元が行う。400年の試行錯誤を経て、このような生産、販売の形態が完成したのである。
 製造の体制は、各産地の歴史や流通によって違う。
 例えば、栃木県の益子町は、益子焼の産地である。江戸末期にお隣の茨城県笠間で学んだ作家が農業の傍らに作っていたことに始まり、大正・昭和期に民藝運動の陶芸家・濱田庄司が移り住んで有名になった。現在も作家として活動している人が多い。
 長崎県の波佐見町で生産される波佐見焼は、原料や製造工程はほぼ有田焼と同じであるが、江戸時代から、巨大な登り窯による大量生産に活路を見出し、現在もその流れを汲んで一度にたくさんの商品を作ることが得意な産地である。
 有田焼は、(作家活動ではなく)産業として陶磁器生産を行っている他産地と比べると、多品種少量生産と言える。益子焼と波佐見焼の間。一品ものを作っている作家が多いところではないし、また、大量生産にも向かない。これは、商人と呼ばれる人たちが全国津々浦々の旅館や料理屋を回って業務用食器の注文を取ってきたという、昔からの販売のスタイルによって作られた体制とも言うことができる。もう少し遡って江戸時代は、オランダ東インド会社の注文に応え、海外へ輸出していた。得意先からのオーダーに細かく応えていたところ、多くの品種を小ロットで作る必要があり、そのための体制を取る必要があった。
 分業体制の中の、型製造業、生地製造業について、少し詳しく説明したい。有田焼はろくろで作っていると思われがちだが、実はほとんどの商品は、石膏型にドロドロにした陶土を流し込む「鋳込み」という方法で作られている。1つの器を作るのに、その石膏型を作る専門の人と、石膏型に陶土を流し込んで生地を作る専門の人がいる。型製造業の工程は非常に複雑で手が込んでいる。後の生地製造の人が鋳込みやすいように工夫した型を作らなければならない。まず、器の原型を石膏で作り、それを基に型を作る。石膏は水分を吸うので、何度も使うと磨耗してしまう。同じ商品を作り続けるために、「型を作り出すための型」が必要になってくる。また、生地製造業では、焼いたときに割れず、後の窯元が仕事がしやすいように、1つの器の中で細かく厚みを変えていく。これを寸分違わずたくさん作っていくのである。両者とも機械を使うが、驚くほど人の手のかかる作業で、その人の勘や経験が物を言う。
 2010年度の佐賀県の調査によると、この型製造業、生地製造業で後継者が「いる」「育成している」と答えた人の割合が、20%以下だったのである。つまり、80%以上は、後継者がいない。この人たちがいないと、有田焼の製造は続けられないのに、である。また、高齢化も深刻である。
 窯元や商社は、型製造業、生地製造業を含めた、全ての工程の人たちに、利益を分配しなければならない。
 この、型製造業、生地製造業の人たちが儲けるためには(仕事を続けるためには)、数多く作ることか、窯元が高く売って利益分配の金額を高くすること、のどちらかしかない。1つの商品を大量に作る体制ではなく、急に大量生産のための極端な機械化をすることが難しい。窯元は機能や絵柄などのストーリー(付加価値)をつけて販売し、利益を上げることができるが、型製造業、生地製造業の人たちはその注文を地道にこなすだけで、付加価値を乗せることはできないのである。
 そんな中、上述したように、産地全体の売り上げが減っている。量で勝負をすることはできない。であれば、高く売るしかない。しかも、その状態が続いていかなければならない。そのために、高く売れるいい商品を作り続けるしかない。いわゆる、ブランディングである。そうしないと、将来に渡って産業を維持することができない。

3. 将来の産業の幸せのために

(1) 有田焼の課題解決のために観光ができること
 こういう課題を抱える産地・産業に対して観光は何ができるのか?
 もちろん、宿泊施設や食事処はお客様が多ければ儲かるが、ここではそれらの人たちは一旦考えずに、あくまで「産業に対して」で考えたい。
 私は、有田焼の産地で観光振興に取り組む理由は、「活性化」「交流人口の拡大」という乱暴な言葉では表現できないと思っている。観光に来ていただいたお客様に器を売って儲けることは、もちろんその理由の1つではある。が、もう1つ重要なことがある。それは、器を高く売るための(有田という土地全体の)付加価値を見出し、伝えることである。
 言い換えると、産地の「いいイメージを売ること」である。この「いいイメージ」というのが、がやきもの製品(産業)の付加価値になる。同じ磁器製品として比較した場合、日本全国どこの産地も、成分や製造方法などはあまり変わらない。近年はSNSなどで情報が瞬時に伝わるため、流行を反映してデザインも似てきていて、産地による違いがより分かりにくくなくなってきている。
 それに付加価値を付けて少しでも高く売るために、「いいイメージ」が果たす役割が大きいと言うことができる。
 その「いいイメージ」とは何なのか? 観光によって付加できる価値とは何なのか?
 それは、有田という土地の恵まれた地形、自然条件、先人の努力、歴史などのストーリーを伝えて感動していただくことであり、また産業を育んでいる地域の人と交流していただくことである。

(2) 産業に観光が付加できる価値
 そのストーリーを、具体的に見てみたいと思う。
 伝統工芸や伝統産業を土台とした観光振興に取り組む地域は、全国に数多くある。伝統工芸、伝統産業の産地の多くは、特徴的な地形や地質に基づいて起こっている。
 例えば、有田焼の原料となる陶石を産出している泉山磁石場(写真参照)。今からおよそ400年前、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れて来られた陶工・初代金ヶ江三兵衛(通称:李参平)らによって発見されたと言われている。ここが見つかったことによって有田焼産業が始まった。この山だけが白くて粘土質であり、磁器の原料になったのである。この泉山磁石場が、本当に奇跡的な場所なのである。ここから陶石が採れた理由は、地質を調べれば見えてくる。実は、有田町がある九州の北西部は、日本には類を見ないホットスポットである可能性が指摘されている。ホットスポットとは、マントルが上昇し、溶け出したマグマが地表に現れるエリアのことである。世界的には、ハワイやガラパゴス諸島が、ホットスポットとして有名である。通常、日本の火山はプレートの沈み込みによってマグマが発生するが、このあたりの火山はそうではない。北西九州地方の火山は、ハワイと同じ組成なのである。さらに、西九州地方の中でも、有田は周辺地域と山の形が違う。急峻で切り立った山に覆われている。これを流紋岩といい、地下のマグマが熱で地殻を溶かしながら浮上してきて、粘り気の少ない溶岩は流れにくく、冷えて固まりドーム状の岩を形成したので急峻になったのである。この流紋岩の山々の中で、泉山磁石場だけが、他とは違って明らかに白い。これは、流紋岩の中から、217万年前の熱水(約300℃の弱酸性の温泉)の作用で鉄分などが抜けたためだと言われており、さらに、ナトリウム分も抜けたことによって粘土質が生成されている。これで、何も混ぜなくても磁器の製造にぴったりの原料が自然に出来上がったのである。このように、泉山陶石は、さまざまな奇跡が重なってできた有田焼の原料であり、有田焼は、それをうまく活用した先人の知恵と努力の賜物なのである。

写真(泉山磁石場)
 この泉山磁石場は見学することができる。もちろんそれだけではなく、この産業を育んだ町並みを散策したり、それに詳しいガイドの説明も付けることができる。工場で職人さんの製造工程を見学することもできる。また、歴史を体系的に紹介する美術館もある。こういう体験を上乗せすることによって、商品に対するお客様の満足度は高まっていくし、価格に対して納得していただけるようになる。
 これが有田の観光が産業に対してできる付加価値の1つの例であり、引いては、有田焼、有田町のブランディングにつながる。また、先に一旦考えないでおくと書いた宿泊施設や食事処も、内容によっては有田町、有田焼の付加価値となりうる。
 こんな例がある。長野県小布施町はもともと栗の産地で、栗菓子で有名なところだった。町並みの修景に取り組み観光客が増えると、栗菓子の売り上げも伸びたそうだ。ところが、小布施町内で観光客相手に売れたと思いきや、小布施町内での売り上げは全体のわずか1割程度で、東京での売り上げが9割とのこと(少し古いデータであるが)。これは、小布施に来た観光客が、小布施に対していいイメージを持って帰り、「あの小布施の栗菓子はきっといいものだ」という認識で買っているのである。小布施に来たときに持ったいいイメージが、観光と産業の好循環を生み出している。
 有田焼も、都市圏でも多く販売されている(もちろん都市圏だけではないが)。有田に観光に来たお客様に、付加価値を理解し、いいイメージを持って帰っていただき、都市圏で買っていただければよくて、そのお客様がリピートしてくださるのが理想である。

(3) 観光の目標とは?
 私は、「いいイメージを売ることができたか?」の指標は来場者数や売り上げなどの数字ではないと考えている。ただし、現状、私たちや、あるいはその地域の施策を評価する指標は数字しかないのも事実である。このジレンマと日々たたかっているのである。
 例えば、私が旅行会社に営業に行って、その結果旅行商品を造成してもらい、お客様40人が乗った大型観光バス1台が有田町に来たとする。メインの行先は長崎県佐世保市にあるハウステンボスであり、有田町もその商品に何とか立ち寄り先として入れてもらった。滞在時間は15分。それでも、私は(町は)40人という実績を上げたことになる。
 お客様が来たことによって「活性化」や「交流人口が拡大」したことには違いない。ただ、この40人という数字の報告やそれを追いかけることが有田焼の将来にいい影響をもたらすのであろうか? 有田焼のいいイメージを売ることにつながるであろうか?
 こんな経験をしたことがある。ある昔から憧れの温泉観光地があり、観光バスもたくさん来て大賑わいだが、近年は海外のキャラクターのショップが並んだりしていて、「これは別にここになくてもいいのに」と思った。同じような経験をされたことのある方も多いのではないだろうか? 目的を失って数(来場者数や売り上げ)だけを追い求めてしまうと、このような観光地になってしまう。
 私は、大切なのは交流人口の多さではなくて、「交流の内容」だと考えている。

(4) 理想的な観光交流とは?
 では、理想的な交流の内容とはどんなものなのか?
 私は、求めるべきは交流の数ではなく「文化度」だと思う。有田での観光に私が求めるのが「文化度の高い交流」である。文化度とは、人々の「文化に対する興味の高さ」である(他にいい言葉が見つからないので今のところ「文化度」と言っている)。400年の歴史の中で、全国津々浦々販売して回ったり、逆に海外から仕入れに来られたりするお客様と交流しながら、各地の文化を吸収していたことが、現在の有田町の文化度の高さにつながり、それがいいやきものを作り、この町の産業を維持してきたと思っている。外からの情報による新しい文化が美しいものを作り出す感性を育て、新たなデザインを生み、そのデザインを形にする技術を生み出したのである。そうしてさらに価値が付加されるという循環が起こってきた。つい20年ほど前までは、有田に「観光(=一般のお客様が来る)」という概念はなかった。今後は、来ていただいたお客様を将来に渡るファンとしていい循環を続けるため、観光が果たせる役割があると思っている。
 逆に、これから目先の数字だけを追い求める観光を行ってしまうと、町の文化度は低下し、キャラクターショップが並ぶなど、有田でやらなくてもいいようなことをやってしまうことになりかねない。「観光」という言葉は、単に人が多くて地域が賑わっている状態をイメージさせ、そのために目先の数字を求めるニュアンスが強い。これが私にはいささか軽く感じられてならない。冒頭に書いた、「観光という言葉が好きじゃない」という言葉の真意は、実はここにある。
 文化度の高い交流とは具体的にどういう交流なのか? 町に来ていただいたお客様に対しては、上述したような、地形、自然条件、歴史などのストーリーを丁寧に伝え、町のいいイメージを持っていただくことであり、それを受けたお客様との交流が継続し、次回またさらなる魅力を提案して感動していただくということではないか。その過程で町の人もお客様から学び、さらにこちらの素材を磨く姿勢が必要である。有田に来て感動されたことによって購入された器を、こちらが思いもよらないような素敵な使い方をしていただくことがある。そういうお客様の多くは、都市圏での催事にも足を運んでくださる。また、大昔に流通した有田焼が、実はある地域のこんなことに使われていた、ということを教わることもある。お客様の言葉によって、町の歴史を調べ直すこともある。お客様から逆に自分の町のことを学ぶきっかけをいただく機会は、実はかなり多い。かつて全国を回って得ていた貴重な情報を、今は観光で来ていただくお客様から得ることができる。お客様との交流によって町の人も成長できる。それによって町のホスピタリティは上がり、また、さらなるいい作品ができる。そんな観光交流が理想的だと思う。

4. まとめ

 日本中の全ての市町が観光振興に取り組んでいるといっても過言ではない。
 上述した、観光の方法論が盛んにメディアに出ていることもあり、地方での議論も国の補助金などを取りに行くために、手段、方法に傾いている気がする。本当に必要なのは、手段、方法の議論よりも、この町のこの産業のために観光振興を行う目的の議論ではないか。何のために、どういう交流を観光によって起こしたいのか? それが町の将来の幸せにどうつながるのか? その議論の結果如何で手段は大きく変わってくる。
 私たちのめざすところの究極は、「町の幸せ」である。有田町の例でいうと、将来の町の幸せのために産業を維持する必要があり(もちろん農業などの他の産業もあるので、あくまで有田焼のことだけ考えた場合)、私が観光に求めるのは、「交流の文化度の高さ"だろう"」というところに今のところ落ち着いている(今後町の方々との議論によって変わるかもしれない)。また、それを自分の活動の柱としている。そういう視点で町の観光に関わるみなさんや有田焼の将来を考えている方々と議論をしてみたい。
 ただ、何か事業を行う以上は、分かりやすい成果指標は必要であるので、来場者数や売り上げ額というのは、現状仕方ないのかも知れない。このジレンマを解消する新しい指標を生み出したいと、いつも考えている。
 私の仕事は観光だが、「観光」という言葉では表現できない。「お客様に有田に来ていただき、町の資源を使って、外の人と町との文化度の高い交流を生み出し、町のホスピタリティを上げて、さらに付加価値の高いやきものを作り、産業を継続させること」である。これをひとことで言い表す言葉が「観光」以外にないのだろうか。
 みなさんの町の特徴や課題は何ですか? 観光に取り組む理由は何ですか? そのために必要な指標は何ですか?
 私は、新しい施策や指標を、全国の伝統産業、伝統工芸に携わっていらっしゃる方々と一緒に、考え、模索したいと思っている。