1. はじめに
ひたすら自分の生活と国策、自治体への順応のため希望をもって渡満した開拓移民は、最も悲惨な戦争政策の犠牲者となった。それは大戦末期、男子は根こそぎ動員令により戦地に派兵させられ、義勇隊(少年兵)は警備に動員された。どの開拓団も老若女子のみのところに武装したソ連兵、暴徒化した中国人民による虐殺、略奪、強姦を受け、集団自決が行われた。正に世界移民史未曾有の大惨劇が行われ、国境沿いのある長野県の開拓団では95%が二度と日本に帰ってくることができなかった。
当時の基礎自治体は、国を信じ、日本が戦争に負けること、そしてこのように大惨劇になることを誰しも知る由もなかった。基礎自治体の行政資料の殆どが敗戦時に焼却処分されており、わずかに残る書類と当時の担当者の聴き取りによるものしか残っていない。この悲劇に対し、どのような経過で判断されたのか。そもそも満州国という砂上の国家に対し、県と基礎自治体は膨大な計画を立て国策に踊らされたのか。二度と繰り返してはならないことを切に願い、検証したい。
2. 当時の長野県民の実態
(1) 背 景
当時は昭和恐慌・農村恐慌により、国内の主力産業であった生糸は大暴落し、農村は極度の不況に苦しんでいた。貧困により娘の身売りの取次を基礎自治体も行わなければならなかった。その打開策として地方農村では国策であった「満蒙開拓」を県と連携して推進し、農家の生活基盤を構築させるとともに自治体の財政基盤を構築させようとした。満蒙開拓へ取り組むことで補助金による財政支援が行われ、重要な財源となった。さらに当時は民生知事ではなく、地方長官として任用されたことから、自己の栄達のため国策に従って行うことが最善とされたことも全国一満蒙開拓に取り組んだことと推察される。
(2) 長野県の主力産業の蚕糸業の推移
長野県は中山間地が多く、1戸当たりの耕地面積が狭いため、桑を植えて集約的に養蚕を行うことが進められてきた。関連する企業は蚕糸関係が多く蚕糸王国とよばれるほど全国でも豊かな県であった。
なお、県では蚕糸業に特化した産業政策は暴落した際の影響が大きいと他産業への危険分散を図るべきと提唱していたが、第1次世界大戦の好景気で一向に進まなかった。
世界恐慌の影響を受け、繭糸価格が1/3以下にまで落ち込み、養蚕農家のみならず蚕糸企業も相次ぎ倒産し、県下第2の銀行までもが突如倒産するなど、長野県経済に未曾有の大打撃を与えた。
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しかし、当時の知事から県民に対し、向かうべき進路を示したが、その内容は具体的なものではなく精神主義的なものとなっていた。
この農村不況のため、市町村財政も圧迫され、1932年(昭和7年)の町民税未納の戸数16万3千戸、県税未納7万7千戸に達した。このことにより、小学校教員、役場職員等の給料不払いや強制寄付が行われた。そして、教員給料の2割引き運動が全県に広まった。
その後、県は郡市町村に経済更生委員会を設けるよう通達し、更生計画を立てて具体的に農村経済更生運動を展開した。その計画では桑園の改良、金融改善、生活改善と精神運動としての側面が強かったといわれている。
(3) 県行政と満州移民施策
陸軍省は建国したばかりの満州国へ武装移民の募集を行うにあたり、県知事の協力を受けて行う仕組みを作り、県は市町村に対し在郷軍人と協力して欲しいとする内容の県報を出している。
県は市町村を指導して満州移民を進める動きとして、役場と経済更生委員会の共催で行い、更生運動と満州移民との結びつきを具体化した。しかし、農村の更生のうち農業等を担当した経済部は、新たに県と町村との中間行政機関の経済部出張所(16か所)を設置したが、農政事務に主眼を置き移民政策には積極的ではなく関わっていなかった。
一方、県教育を担当する県学務部は、市町村に対し移民に関する講習会を行い、国(拓務省)の後援を得て、県と市町村の系統で移民行政が進みはじめた。
また、信濃海外協会(総裁は県知事)は移民政策を先行して第1次武装移民の現地調査を行わせた結果、移民に警備を行わせる政策には反対した。また、南米移民と異なり、先住満州人を強制的に立ち退きさせている事実を認識したうえで取り組むべきと国に提言したが受け入れられなかった。
(4) 満蒙開拓団の目的
政府は満州事変以降、「満州国」防備の軍隊の食糧増産と警備を兼ねさせ、全国の在郷軍人で編成した武装移民を送り込んだ。この国策に長野県の農山村民は軍部に協力し、県も独自で選出するなど積極的に次男・三男を中心に移民団を作るとともに、15~19歳までの男子を少年義勇隊として送り込んだ。
3. 行政・教育・県議会と一体となった長野県の国家主義化
(1) 県の県移民政策のスローガン「統制あり訓練ある満蒙植民を行うことが最大の急務」
行政・教育が一体となった学務部に拓務課を設置し、県議会が一体となって推進した。
県経済部よりも教育委員会の前身である学務部が中心になったのは、2・4赤化事件(教員の共産主義者弾圧事件)の汚名を雪ぐためであった。
県学務部は郡市教育会や郡市・町村に満州移民や義勇隊の割当を決め、教員には生徒を義勇隊に仕向けるよう強要させた。志願させた人数によって、平の教員から校長に抜擢するなど人事に影響させ、県の行政の中心的施策として行った。
(2) 県学務部拓務課と地方事務所の設置
満蒙開拓を一層推進するため設置した拓務課は、出先機関として経済部出張所を廃止し、軍事目的で地方事務所を設置した。特に義勇隊の中隊は、地方事務所におき、県職員も編成にあたっては中心的な役割となり軍に加担した。
4. 県と市町村の取り組み
(1) 県施策と予算
1934年に県から市町村長あてに「満州特別農業移民実情紹介に関する件」を通知し、その翌年には移民募集要項を示した。満蒙移民に係る国庫補助金は負債整理事業を段階的に上回り、ピーク時には50倍以上と県予算の大部分が計上された。
(2) 市町村行政と満州移民
更生計画と移民計画を相互に行うことにより、国補助金として、経済更生特別助成金(負債整理)、低利資金が融通されるなど満州移民に応じた補助金が交付されることになった。
(3) 県と信濃教育会(学校)の満蒙開拓と少年義勇隊への推進
満蒙開拓青少年義勇隊の募集は、拓務省の配当を見込んで県が市町村へ募集人員の割当を行った。
信濃教育会は日中戦争が長期化するなかで、満州農業移民を国(拓務省)とともに積極的に推進した。特に少年義勇隊に焦点を当てて、学校教育に組み込み、青少年に「我が北門の守りたる満州に骨を埋むるこれ男子の本懐なりとの固き覚悟を持たしめ」と洗脳した。
また、県内に訓練所を設置し、男子が行きたくなるよう大陸花嫁を確保する政策をとりつつ、農本教育を徹底した。(当時、農家の次男、三男以降は婿養子に行かない限り、長男宅で一生労働力として働き結婚はできない状況からみると相当魅力があったと思われる)
更に当時の学校は市町村行政に深くかかわり、相当の発言力ももっていた。(教員賃金は市町村)
しかし、満州視察を行った村長の中には、満州人の土地を奪う移民政策には疑問を呈し、移民・義勇隊を送らない村も少数であるが存在した。(相当、国や県から圧力があったことは想定される)
戦後、教育機関が戦争に大いに加担した反省から教育委員会は行政から独立していたが、安倍政権下では再び戦前・中と同様に行政が教育に口をだせるように戻している。
5. 満蒙開拓へ突き進んだ理由(事後的な検証)
(1) 県
経済部サイド → 蚕糸に特化した産業(農業、工業)からの脱却 → 経済対策
県民の借金返済、生活向上
学務部サイド → 2・4赤化事件に対する共産主義弾圧 → 汚名返上
拓務課を設置し、満蒙開拓を主体的に推進(県からの発文は学務部から)
県から市町村への指導強化のため地方事務所を設置
知事(地方長官) → 天皇から勲章を直接、授与される
(2) 市町村
経済対策 → 借金返済、養蚕以外の農家所得の向上(耕地面積の拡大)
人口調整策 → 人口増加による耕地面積の不足、次男、三男対策
市町村と学校の連携 → 子ども教育による浸透
6. ソ連の侵攻、敗戦によって一夜にして崩壊
1945年8月9日午後、ソ連の参戦布告はそれぞれの開拓団にも知らされた。なお、すでに関東軍は満州国の大部分を武装放棄しており、見捨てられた遺民ということばが合致する。軍は国民を守るという建前は、沖縄戦とともに完全に崩れ去った事実である。
どの開拓団も男子は召集され、少年義勇隊も国境近くに派兵させられ、女性老人子どもばかりであった。開拓団の男性幹部が数人残った程度であったが、ある開拓団の日露戦争に参戦した幹部は「自分達は妻子をみんな殺し、あくまで開拓民として立派に最後をかざる」と覚悟を決め団員に青酸カリを配布した。なお、混乱時期とはいえ、開拓団の幹部の考え方によって帰国率が異なり、県土が広い長野県ならではの文化風習により違いが生じた。なお、悲惨な逃避行の記録は、多くの出版物があるので今回はふれない。
7. 引揚開拓民への対応
(1) 県議会での追及
1946年11月議会では「県の送出責任」が追及され、知事は「送出者の責任として当然特別措置法外援護の必要性」を認め、特別援護策を講じた。組織は、積極的移民を行った拓務課を廃止し、地方課、厚生課が担当した。これは、日本国政府による在外邦人の復員引揚業務の禁止により、県が自治的援護団体となった。具体的には定着援護と医療援護、生業援護、生産資金融資、生活物資郵政配給などかつて軍事目的で設置された地方事務所が市町村と連携し対応した。
(2) 公選知事の施策
初代公選知事は「県復興3ヶ年計画」を策定し、引揚者に対し、開拓事業を推進した。県内の数ヵ所に高原野菜、畜産、米生産の開拓を行うため、膨大な資金を投入した。引揚開拓民の不休の努力により、現在も県下で有数の産地に至っている。
8. 県職労先輩の満蒙開拓への反省の取り組み
満蒙開拓に多くの県職員が加担した反省から、県職労が中心となって浅間山米軍演習地反対闘争(1953年)を展開した。
1953年当初、全国で米軍基地がないのは「長野県のみ」であったことから、米軍から「浅間山ろく一帯を米軍演習地として使用したい」と県、軽井沢町に申し入れがあった。
演習予定地は引揚開拓民の開拓地であることから、県職労定期大会で反対を決議し、反対期成同盟会の事務局を県職労書記局に設置、県議会対策を行い総務委員会で反対申し入れが決議された。
しかし、米軍当局の強硬な要求はその後も続けられた。
5月1日、メーデー集会(県下14ヵ所)はいずれも演習地指定反対を決議した。続く5月3日、軽井沢町民大会を開催し絶対反対を決議した。県労働組合評議会(県評)、教員組合、青年団、開拓団も一様に拒否の態度を決定、浅間山麓にある地震研究所は「演習地になれば観測は全く出来ない」との見解を発表、地震学会総会では演習地指定反対の決議を行った。
6月7日、軽井沢町中学講堂で開催した官民あげた県民大会では全県下から多くの団体・個人が参加され会場に入りきれず、雨の中、傘をさして会場の周囲を囲んだ。反対期成同盟会会長から「雨降らば降れ、風吹けば吹け、われら長野県民は断じて浅間を守る」という決意表明を全員で確認した。大会最後には全員で県歌「信濃の国」を涙ながらに合唱し、官民労が一体となった。
7月16日米軍当局から申し入れの撤回があり、引揚開拓民の開拓地を守り、全国で唯一米軍演習地を設置させなかった。
さらに侵略した土地に移民として入ったにもかかわらず、残留孤児として育ててもらったことなどの恩義から県日中友好協会を立ち上げ、全国に先駆けて残留孤児対応・支援を市町村と連携して行った。
県教組、高教組は「教え子を再び戦場に送らない」をスローガンに取り組みを継続させている。
9. まとめ
県選出の国会議員である篠原代議士(民主党)は2014年の予算委員会で特定秘密保護法反対の事例として、この満蒙開拓の悲劇な集団自決を取り上げた。安倍首相に対し質したが、初めて聞いたという答弁に悲しく、怒りを感じたことを忘れない。篠原代議士曰く、「満州には、今の原発安全神話と同じく、日本の連戦連勝しか伝えられていなかった。しかし、こうした浮ついた動きと比べ、文字通り地に足が着いた農民の目は確かである。安倍首相は侵略かどうかは歴史学者が決めることだと言っているが、農地に関する限り、侵略は明らかである。諜報戦が繰り広げられ秘密厳守を徹底していた満州では、こうした軍事秘密は開拓農民になど全く知らされない。何と8月8日に現地に入植した一団もいた。まさに悲劇である。一方、ソ連参戦を察知した一部の高級官僚や軍幹部は、トラックや車を徴用し、列車も確保して早々と逃げのびている。終戦を知っていたら絶対自決をしなかった。最後までソ連参戦の情報も伝えず、終戦の予定すら秘密にして平然と放置していたのである。国民を救うという発想がなかったのだろう」と特定秘密保護法の本旨である政府の都合で大事なことは国民に知らされていないことをずばり述べている。戦争ができる国づくりを進める安倍政権は、軍備目的に「国民を守る」を掲げているが、そんなことを信じることは歴史を知れば決してできない。「自治労は何故、反戦平和に取り組むのか」と疑問を感じる若者が多いと聞く。理由は明確である。戦争が起これば自治体職員は真っ先に加担させられることは、史実から明らかである。このことから、自治体職員であるからこそ、戦争に加担させられた史実を認識・直視し、二度と繰り返さないことを誓うことが改めて重要な時期であると考える。
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