日本とフランスは、1858年10月9日、日仏修好通商条約を締結し、両国間の外交関係が開設されました。それから160年、日仏関係がこれほどまでに多様で充実していたことは、かつてありません。政治対話は定期的に開催され、相互信頼が深まっています。両国のパートナーシップは、安全保障から経済、学術・文化交流、大学間交流に至るまで、あらゆる方面で強化されています。オリンピック・パラリンピック競技大会が2020年に東京で、2024年にパリで開催されることは、日仏の連帯がかつてないほど必要とされる混乱の世界にあって、両国関係の一層の親密化に寄与することでしょう。
アンスティチュ・フランセ関西は、フランス語教育と、日仏文化交流に努める、フランス政府公式文化機関です。オーギュスト・ペレーの弟子レイモンド・メストラレと、大阪の建築家木子七朗の設計によって、1936年に建設されました。国の登録有形文化財(建物)にも指定されています。ここで少し、皆様に弊館の歩みを、年を追ってご紹介したいとおもいます。
1. 1927年 関西日仏学館設立
関西日仏学館は、フランス大使を会長とする財団法人「日仏文化協会」を母体とした、京都に根ざした日本とフランスの交流拠点です。1927年に、京都は、東山の懐にある、蹴上げ・九条山に設立されました。現在の「ヴィラ九条山」の地です。
東京には、すでに1924年に、日仏会館が創設されていました。そのできたばかりの日仏会館に、地理学者として滞在していた元海軍兵学校教授、フランシス・リュエランが、夏季を利用して、古都・京都の北西にある比叡山を調査研究のため訪れました。彼は、比叡山の地に「フランス文明講座」の夏季大学開校を考えました。フランス語はもちろんのこと、芸術、歴史、地理、哲学など、幅広いフランス文化一般にわたるものであります。この提唱は、たちまち、当時の京都帝国大学や関西大学の教授たちの賛同を得ました。残された課題は財源でした。
2. 駐日フランス大使 ポール・クローデル
詩人大使として、ポール・クローデルは、日本社会へ大きな反響を呼び起こし、着任したのが、1921年11月でした。着任後、東京の日仏会館が出来ました。同時に、それとならぶ施設を近畿圏に設立する期待がもたれました。クローデルはたびたび関西を訪れ、比叡山を古都の"聖なる山"と位置づけ、リュエランの提唱を強力に推進したのでした。
3. ポール・クローデルとロマン・ロラン
1926年7月4日から7日までの、クローデルの"京都旅日記"を覗いてみると、都ホテル(当時)に宿泊して、比叡山に登り、琵琶湖の眺望や杉木立のなかでの散策をメモしています。琵琶湖畔にある日本画家、山元春挙邸に、晩餐の招待を受け、山元との合作席画「馬来たれと 願えば 馬来たる」を残しています。この時期のクローデルの願望を、巧みに表現した詩句ではないでしょうか。同席しているであろう、時の人、大阪商工会議所会頭・稲畑勝太郎への為書きが一番上に筆記されています。
クローデルとロランは、パリにあるルイ・ルグラン高校で机を並べた仲でした。二人とも大都会パリのデカダンな雰囲気になじめず、孤独でした。二人はしばしばシャトレ座にコンサートを聴きに行きました。コンサート帰りの1889年3月、リュクサンブール公園で別れたまま、二人のあいだに50年間の別離が待っていました。
カトリック大詩人クローデル、『ジャン・クリストフ』で世界の愛読者を得たロラン、二人は、老境に入って、パリで再会しました。二人の澄んだ眼差しは少年時代と変わらず、お互いを深く見つめました。1944年、ロランが没したあと、パリに「ロマン・ロランの友の会」が発足し、ポール・クローデルが初代会長となりました。
4. 稲畑勝太郎の決定的な役割
さて、話を関西日仏学館設立準備へ戻すと、その財源を十二分に提供したのが、当時、首都圏よりも工業生産高がはるかに高かった大阪実業界でした。
大阪商工会議所会頭で貴族院議員だった稲畑勝太郎は、少年時代に京都府からフランスへ留学し、染色技術を取得して成功を収めていました。彼の呼びかけで、新会館設立準備会合が1926年9月29日に催されました。そこへ大使クローデルが出席し、協力を要請したのです。
奔走した稲畑はもとより、クローデルの信望も加わり、当初の見積もりをはるかに超える寄付金が集まりました。東京の日仏会館設立時に比べて、2倍以上の大きな金額です。領事のアルマン・オーシュコルヌも骨を折りました。京大総長、三府県知事、市長たちも関心を抱きました。豊潤な資金をして、一時的な夏季大学構想を、恒久的な関西日仏学館設立へ結びつけたのです。
京都に日仏学館が建設されることに、東京では危惧と不安の念を表明する向きもありました。リュエランが滞在していた日仏会館の館長で、仏教学者として令名を馳せていたシルバン・レヴィーが唱えたのです。「東京の日仏会館は充分な活動予算がないのに、その上、京都に建設すれば予算が削られるのではないか、東京と張り合い、やがて京都が追い抜くのでは……」というのが理由であったようです。
5. 「京都」ではなく、「関西」
ポール・クローデルは、反対派に有無を言わせぬ根拠を具体的に次々と反駁し、本省を納得させた。詩人大使の外交官手腕はすごい。学館を彼の置きみやげとする由縁だったのでしょうか。
こうして財団法人「日仏文化協会」が設立され、その付属機関として「関西日仏学館」が誕生しました。名称は、京都の地にあって、なぜ「関西」なのかといえば、大阪財界人が拠金したためです。木造2階建(一部地階及び塔屋付)、建築面積、約137坪、総延面積217坪、総工費4万円、請負業者は大林組です。
6. 1927年10月22日開館
開館日は10月22日で、京都は時代祭の日でした。<日仏文化協会>、<関西日仏学館>、<ポール・クローデル文庫>と、ペンキ塗りたての鮮やかな看板が、かつては群をなして猪が出没していた熊笹の生い茂る丘陵地に掲げられました。ここに、関西ではじめて、日本人憧憬の西洋文化の華、フランスの種が蒔かれました。
開館記念講演は、「ベルトロ100年祭」のために来日していた、息子のルネ・ベルトロが講演しました。ベルトロ夫妻の日本旅行費用は、藤田組社長の藤田平太郎男爵が寄付しました。クローデルは感服しました。それは、フランス政府が、東京日仏会館へ送る派遣員たちの年間予算に相当する額です。しかも、彼は、すでに学館設立のために、その約2倍額を寄付していました。気前のよい大阪商人たちの心意気を結集させた果実、そのキャッチフレーズ、「フランスが来ている、諸君の前に」に惹かれた学者や学生たちで、九条山は溢れていました。
開館日より遅れた落成式は、離任したクローデルにかわって、新大使ロベール・ド・ビリー伯爵の挨拶から始まりました。関係者はもちろんのこと、官界、学界、財界の200人を超える著名士が集い、華やかに執り行われました。
7. 優秀な学生が集ったフランス語講座
その後、学館事業は順調に滑り出し、名家の子女や優秀な学生たちが、綺羅星のごとく集まりました。
神戸に邸宅のあった財閥の美しい令嬢が、九条山に通学するために、わざわざ京都に家を一軒買ったことも、伝わっています。学館には彼女専用のピアノがありました。男子学生の憧れの的でした。彼女が教室に入ると、男子学生が垣根を作って見ていました。その中には偉くなった学者たちがなんと大勢いたことでしょうか。
一人だけ名前を挙げると、日本人ではじめてノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(旧姓・小川)もいました。湯川は、「外国からこんな郵便物が届いたのですが……ちょっと見てくれますか」と、時々、教師に尋ねていました。新設の学館には、自由に学生が教師と会話のできる雰囲気が漲っていました。学生は教師を「先生」と呼ばず、「ムッシュー」と、同等に呼ぶことを学んでいました。社会は、身分制度が厳然と在り、普通選挙が実施されるか否かの時代だったので、若い学生たちにとって、このフランス学園はひときわ眩しかったのでしょう。
他方、教授陣についていえば、名簿に掲載されたかも知れない一人の名前があります。それは、ジャン=ポール・サルトル。エコール・ノルマルを卒業して高等中学校の教師をしていた時代、東洋文化に惹かれ、関西日仏学館の教師に応募して合格しました。渡航準備も考えたらしいのですが、恐慌を孕む世界情勢から中止したといいます。「この時、日本に渡っていたら、私の著作活動はなかったかも知れない……」と、後日、サルトルが語っています。
8. 国際色豊かな集い
音楽会、詩の朗読会、講演会が催されると、学生、学者はもとより京阪神の名士たちやドイツや英米、ロシアの人たちも集い、国際色をいっそう豊かにしました。
9. 移転の決断
九条山は、今でも立地的に不便ですが、当時を思うと想像がつくだろうと思います。「九条山は天国と同じことで、昇るには少し骨が折れるが昇りつくと実にいい」と言われていましたが、3代目の館長ルイ・マルシャンが、京都帝国大学周辺にある現在の吉田泉殿町の移転を決めました。
希望周辺地は、すでにドイツのゲーテ・インスティチュートがありました。建設地獲得に当たって一向に進展しませんでした。「ドイツに貸してフランスに貸さないと問題になる」として、交渉を再開したところ、京都工芸学校跡地を、ドイツと同じく約2,030平方メートルを無償で借りうけることに成功しました。後日、それをフランス政府が買い上げました。
10. 稲畑勝太郎 再びの活躍
九条山建設時と同様に、再び稲畑勝太郎が寄付金を募って、多額の建設費を集めました。建設は清水組が請け負いました。レイモン・メストラレが設計の原図を描き、木子七郎が京都の風土に合わせて設計図を引きました。木子の友人である藤田嗣治は、自作の『ノルマンデイーの四季』を寄贈し、貴賓室の大壁面を飾ったのです。
11. 新館落成式 1936年5月27日
1936年5月27日、新館落成式が東久邇宮殿下臨席の下、フランス大使で「日仏文化協会」会長フェルナン・ピラー、建設委員長役の稲畑をはじめ文部、外務両大臣、京都府、京都市、京都帝国大学総長、パリ大学代表の日仏会館学長らが祝辞を述べ、盛大に挙行されました。
事業をさらに充実させるために、日本の教育界との関連を密接にするため、改善委員会が設けられました。科学、文学、美術、音楽芸術の時代を代表する学者や専門家を委員に委嘱し、協力を要請しました。彼らは、日仏学館をホームグラウンドのように愛し、頻繁に出入りしました。
12. 館長の決断
ヨーロッパでは、ナチス=ドイツとスターリンのソ連が、怪物のように黒い勢力を拡大していきました。1939年、イギリスとフランスが参戦しました。第二次世界大戦の勃発です。
学館の館長は、1939年秋からマルセル・ロベールが就任していました。ロベールは、1926年から1930年まで、京都帝国大学や、第三高等学校でフランス文学を講義して、学生の尊敬を一身に集めていました。ラフカデイオ・ハーンの研究家としても優れ、自らも小説を書いています。芸術にも造詣が深く静逸でした。
専任教員は、館長のほか、ジャン=ピエール・オーシュコルヌ、彼の父親は、創立時のアルマン・オーシュコルヌ領事、日本人は宮本正清、吉村道夫の4人でした。
館内は、館長の学問への真摯な態度が反映して、落ち着きと研究の雰囲気が漂っていました。
1940年6月、ドイツ軍がパリを占領しました。隣のゲーテ・インスティチュートには、ナチス=ドイツの勝利の旗が高く翻りました。そのニュースが伝わると、真っ先に世界的に知られた中国文学者で京都大学教授、狩野直喜が、学館を弔意訪問しました。「パリは陥落しても、フランス文化は滅ばず」の名文句は、新聞でも取り上げられました。時勢に阿ることなく、フランスを敬愛して止まなかった、心の叫びでした。
まさにその時、学館に別の訪問者がありました。彼は館長に向かって「学館を閉鎖するのはいつか?」と、乱暴に言いました。「学館の閉鎖はありえない。従来通り事業を続ける」と、館長は毅然と答えました。
フランスの敗北に対して、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいた日本は、軍事色をいっそう強めていきました。日仏学館は、フランスとの連絡を完全に絶たれ孤立しました。京都の警察特高課が、しだいに監視を厳しくしてきました。ついに1941年、太平洋戦争が勃発しました。
それでも館長の決断どおり、日仏学館は、戦時もほとんど休館することなく、授業が続けられました。しかし、ついに1945年、島津製作所の軍需産業用の作業場として接収されました。学館の立ち退き作業が終わり、館員たちの疲労困憊の最中、6月15日、突然、宮本とオーシュコルヌの二人が、何の理由も示されることなく、警察に逮捕され投獄されました。
「戦後の最後の何ヶ月間、わが友、宮本とおなじ苦難をなめさせられたのを、僕は誇りに思っている。僕たちは絶え間ない尋問と獰猛な拷問を受けた。隣り合った独房に押し込められた」と、後にオーシュコルヌは述懐しました。日本の敗戦が少しでも長引けば、宮本の生命はなかったと、聴いています。
大爆撃がなかった京都でしたが、学館の建物は無事であったものの、内部は特高の手で書類や紙類がすっかり焼かれ、荒廃していました。
日本の敗戦後四ヶ月にわたる復興作業ののち、戦前と同じスタッフで再開館しました。ひとつの机には主が帰ってきませんでした。ジロドウの若き翻訳者であった吉村が、戦争の最後の日、中国で戦死しました。インドシナ占領に協力することを拒んで召集され、中国へ送られていました。インドシナ占領を拒んだのは、愛するフランスに敵対して働かざるを得なくなるのを避けたのだったのです。
戦後の1950年、宮本は関西日仏学館を辞任して、大阪市立大学のフランス文学科開講のため教授として迎えられました。仏国政府交換教授第一号として、フランスでロマン・ロランの未発表作品や書簡の調査にあたりました。ポール・クローデルを自宅に訪ねました。クローデルは開口一番、「日本は今度の戦争でどうなったか」と、尋ねてきました。「日本の復興を祈って」と言いながら、柏手をパーン・パーンと打ち響かせました。
13. 戦後の新たな旅立ち
日仏学館は戦後、平和裡に事業を拡大していきました。京都のなかのフランスとして、京都市がパリと"友情盟約"を取り交わしたときも、窓口となりました。最近、瀟洒な白亜の殿堂は、文化庁の「登録有形文化財」にも登録されました。
毎年春には、パリのコンセルヴァトワールの音楽教授たちが大挙して学館を訪れ、日本の青年たちの音楽指導をし、また、手本となるような演奏会を各地で催すようになりました。
九条山で廃墟化していた旧学館は取り壊されて、ヴィラ九条山として蘇りました。学者、研究者、芸術家のフランス人たちが滞在して、日本と交流する施設が造られました。稲畑勝太郎の孫、勝雄氏が社長をする稲畑産業株式会社が陣頭指揮に立って、大阪、京都の財界、官界をまわって寄付金を募り建設しました。稲畑家三代にわたるフランスへの友情は、利益をあげているときの、一時的な税金逃れに寄付する会社が多いなか、貴重な存在です。
これまで、フランス語、フランス文学、美術、フランス文化を学んだ学生は数え切れません。そのなかには、「自分が死んだら、学館へ幾ばくかの寄付をするように」と、家人に遺言するほどフランス文学が好きで、文学講座に30年以上続けて出ている女性もいます。
14. 2003年 リニューアル・オープン
この度のメディアテーク事業は、しなやかで力強く頼もしい。リニューアル・日仏学館は、握手の出来る人たちばかりではなく、顔の見えない不特定多数の人々を相手に、日仏のコミュニケーションの場として飛躍するでしょう。世界は貝のように小さくもなり、また壮大な交響曲のようでもあります。多岐にわたる科学、芸術思想の要素が醸しだす日仏の美しいハーモニーを切に祈念するものです。
2013年1月、歴史ある関西日仏学館(京都)に、アクセス抜群の大阪日仏センター=アリアンス・フランセーズが統合され、アンスティチュ・フランセ関西はさらにパワーアップしました。西日本最大のフランス文化センターとして、幅広い活動を展開しています。
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