【自主レポート】

第37回土佐自治研集会
第8分科会 市民とともに「憲法」と「平和」を考える

 広島市に周囲を囲まれている府中町。この小さな町がなぜ「非核都市宣言」を全国に広める先駆けとなったのか、その経緯など関係者へ取材した内容を紹介する。また今後の平和への取り組みの一つとして町とバチカン市国との連帯を例に挙げ平和・戦争への意識の希薄化や被爆体験の風化が懸念される今、記憶の継承を追求する。



なぜ、府中町は『非核都市宣言』を全国に広める
先駆けとなったのか
―― 今こそ、あの熱い気持ちを再び ――

広島県本部/府中町職員労働組合 加計 康敬

1. 府中町と原爆投下

(1) 町の紹介
 当町は、広島都市圏の東部に位置し、周囲を広島市に囲まれ、全国的に見ても特徴のある形態をしています。町域は、東西4.18km、南北5.20kmで、面積は10.4km2とほかの市町と比較して全体的にコンパクトなつくりで、行政機関や病院、ショッピングセンターへのアクセスが良いことが最大の魅力です。2018年(平成30年)4月現在の人口は、52,140人で、日本で最も人口の多い町です。
 町内には、大型ショッピングモール(イオンモール広島府中)があり、広島市中心部に出かけずとも生活面で便利な環境が整っています。
 また、自動車メーカーのマツダの本社が町内にあり、企業城下町としての一面も備えています。政令市である広島市の中心部に位置しながら、自然の渓谷を活かした「水分峡(みくまりきょう)森林公園」があり、四季を通じて散策やハイキングが楽しめるところも魅力となっています。
 このように、商工住のバランスを保ちながら、次世代へ元気をつなげる町として暮らしやすいまちづくりをめざしています。

(2) 町の歴史と原爆投下時の状況
① 安芸国の国府
 府中町の歴史は古く、町内には古墳時代後期の上岡田古墳の跡があります。また、平安時代には、安芸国の国庁や総社が置かれていたため、それらにまつわる史跡が多く遺されており、「府中」という町名の由来にもなっています。
 1889年、市町村制が公布されて「府中村」となり、1937年に町政を施行しました。以来一度も合併の歴史はなく、現在に至っています。
② 原爆投下当時の府中町の状況

 ア 1945年8月6日の状況(『安芸府中町史 第2巻』一部抜粋)
 爆風によって主として西側、すなわち爆心地の側の窓ガラスはほとんどが破壊され、窓枠には損傷を生じたものがあった。天井は吹き上げられ、壁が落ちたり、剥離した家も相当数あり、中には畳がはね起こされた家もあった。炸裂後、埃が視界をさえぎり、自然に埃がおさまるまでの数分間は、周囲の状況が如何なるものか全くわからなかった。田の草刈りをしていた老母は、爆心地側の皮膚に熱さを感じたと話しているが、熱線で火傷を負ったという話は聞かない。また農作物に対する被害はなかったようである。府中国民学校では、当日児童が登校していたが、飛散するガラスの破片で負傷した者が多数あった。誰も閃光や爆発音に驚いて、とっさに地に伏せたから、その瞬間を詳細に視察する事ができなかった。しかし、広島市の西部上空に、ムクムクと盛り上がる雲が、七色に変化しているのを望見した。
 イ 避難者の状況(『安芸府中町史 第2巻』一部抜粋)
 6日の午前8時半を過ぎたころから、当町に流入する避難者を見はじめた。この人たちの多くは、隣接する矢賀町を経て府中大橋に至り、そこから各方面へ向かったもので、府中町に避難した者は、主として府中国民学校をめざして集まり、時間が経過するに従って、その数は増す一方であった。顔や手足の露出部分はひどい火傷を受け、皮膚は千切れたようにぶら下がり、ボロボロになった被服のまま、必死の形相で逃げてくる様は、生き地獄さながらの感があった。この中には府中在住の者で広島市内で被爆した者もいたが、ある者は、町に逃げ帰ったという安心感から気が緩んだのか、または精魂つき果てたのか、わが家にたどり着く途中で倒れるものもあった。学校では、机類を片付けた教室や講堂に収容したが、次第に増加する避難者のために、応急措置として、校庭にテントを張って休養所とした。しかし、医療を施そうにも医師もいなければ薬もない有様で、全くお手上げの状態であった。被爆者は、ただ暑さを凌ぐために、ボール紙や薄板を扇子代りに涼を求めるだけであった。町役場による炊出しが実施されたが、食糧のたくわえが充分でなかったので、支給は困難をきわめた。翌7日ごろから、死亡者が続出しはじめ、義勇隊員が薪や藁を集め、死体搬送用に荷車を準備し、警防団員は府中大川堤防で死体を火葬した。義勇隊員は昼夜も分かたず看護に尽力したのであるが、死亡する者は後を絶たなかった。(以下略)
 ウ 水分峡(みくまりきょう)からみた原子雲(町歴史民俗資料館資料より一部抜粋)
【町歴史民俗資料館資料より 原子雲】
 その時、私は水分峡(みくまりきょう)の入り口を歩いていた。
 爆心地から12km(直線で約6.5km)くらい離れた地点である。上空を機体を光らせたB29爆撃機が飛んでいた。当時、もうB29は、見なれた存在で、そう珍しくはなかった。
 ひょいと見たら、飛行機の下に白い落下傘が、たしか三個あったように覚えている。雲一つない澄んだ青い空。朝日にキラキラ機体を光らせ、旋回するB29、ゆらゆら落ちてゆく落下傘。きれいだった。そのとき、急に目の前で写真のフラッシュ、マグネシュームをたかれたような強烈な光がきた。「何だろう」、友人と二人、そんな話をしていた。そのうち、いとも不思議な現象があらわれた。池の中に小石を投げ込んだとき、起こる波紋、ちょうど、そのように、松の向こうから、虹が次から次へと出てきた。とても美しかった。ドカーン、ものすごい爆発音と爆風が襲ってきたのは、その直後である。すぐ目の前の、直径30センチメートルもある松の木が大きくゆれていた。しばらくして、いわゆる原子雲がムクムクと頭をもたげてきた。真赤、いや違う、黒味がかった朱色、そんな気もする。とにかく、過去一度も見たことのない、あざやかで強烈な色だった。(以下略)


2. 府中町が非核町宣言をするに至った経緯

(1) 「非核宣言自治体」とは
 「非核宣言自治体」とは、核兵器廃絶や非核三原則の遵守などを求める自治体宣言や議会決議を行った自治体のことです。非核宣言自治体が世界に広がっていく契機となったのは1980年のイギリスのマンチェスター市での非核宣言で、米ソ冷戦のさなか、核兵器の脅威をなくすため、自らのまちを非核兵器地帯であると宣言し、他の自治体にも同じような宣言をするよう求め、イギリス国内の多くの自治体が賛同しました。
 その後、この宣言運動は世界に広がり、日本では、1982年3月5日アメリカ海軍の太平洋艦隊への核トマホークミサイル配備計画発表が直接的なきっかけとなり、この非核宣言を行う自治体が増え続け、現在(2017年3月末)では、日本の自治体の90%を超える1,619自治体が宣言を行っています。
 なお、広島県内の自治体は、すべて非核宣言を行っています。

(2) 府中町の非核町宣言
 広島市内の職場や学校などで町民が多数原爆の犠牲になった府中町では、町民の間から非核宣言を望む声が強くありました。ウェールズ、ロンドンの非核宣言に刺激されたこともあり、1982年3月25日の府中町議会定例会において、議員全員が提案者となり、「非核町宣言」決議が満場一致で可決されました。当時の山田機平町長〔町長在任期間:1972年6月4日~1988年6月3日〕が次のとおり声明を出しました。
<声明文>
 「戦争は国がやり、犠牲は国民が負うという問題に対して、国民の側、町民の側からどういうことができるかとの問題提起をしました。国の問題といわれていた平和や核の問題を自治体の政策の基本に組み入れ、町民レベル、地域レベルから考える契機をつくり出す必要があります。世界初の原爆被災により、広島市とともに多くの犠牲を出した府中町民の胸には、いまなお当時の地獄絵がまざまざと焼き付けられています。このような惨事が二度と繰り返されることのないよう、戦争の悲惨さ、核兵器の残虐さを世界に訴え、その廃絶を求め、世界平和の実現に寄与することは、府中町民の重大な使命であります。また、広島県には米軍の秋月、黄幡、川上の各弾薬庫を初め、米艦艇の帰港地である呉港があり、また隣接の岩国市には米海軍航空基地がある背景を踏まえ、府中町長として町民が安心して生活できる環境の確保、核や戦争へ巻き込まれた不安の除去のための施策を講ずる責務があります。日本国憲法の原理に基づき、われわれは、戦争を放棄している、戦わないということを基本に国際的な核の脅威の中で、府中町は非核地域を宣言するとともに、このような宣言が地域ごとに日本全土を覆い、ひいては全世界を覆うことを念願するものであります。」

<非核町宣言>
 世界の核をめぐる情勢はますます緊迫の度合いを強め、地域核戦争への不安から、ヨーロッパを初め世界の人々は、人類の生存のために核兵器の廃棄と絶滅を叫び立ち上がっている。
 原爆によって広島市とともに世界で最初に凄惨な被害を被った府中町は、戦争放棄の日本国憲法の原理に基づき、恒久の平和を念願し、全世界の国民が平和に共存することを望むものである。
 全人類が絶滅の危機に立たされている現在、非核三原則の堅持とともに、あらゆる国の核兵器の使用に反対し、安全で住みよい街づくり実現のため、ここに全住民と共に府中町を「非核地域」とすることを宣言する。
   昭和57年3月25日
                                 広島県安芸郡府中町 
                                 広島県安芸郡府中町議会

 そして、1982年6月7日から国連軍縮特別総会が開かれるのを機会に、非核宣言文をデクエヤル国連事務総長のほか核保有5か国(米国、中国、ソ連、英国、仏国)の大統領、首相に送り、核兵器廃絶へむけて総会を実りあるものにするよう要請しました。また、町民は、「『非核宣言』を出し放しでは意味がない。具体的な運動を」と、平和のための草の根グループ「府中町平和のための集い」を同年11月21日に旗揚げし、10フィート映画の上映会、スーパーマーケットでの原爆写真展、主婦のための平和学習会、独自の反核署名運動、さらに「原爆資料館」の町内建設運動などを繰り広げ、特に「非核宣言の家」運動はその後全国に広がりました。

 
【非核宣言の町 府中町役場前】 【「非核宣言の家」運動のステッカー】

<2018年4月山田機平元府中町長の妻より聴き取り>
 府中町長として非核宣言に踏み切った山田機平さんを近くで支えた妻敬子さんに、山田元町長の想いを聴きました。
 敬子さんは、当時を思い起こし優しい語り口で私たちに話してくれました。
 「非核宣言のきっかけというか、基になったものは住民からの強い要望だったんです。広島市と隣り合っている府中町は、広島の街に働きに出ていた多くの住民が被爆していましたし、被爆し府中町へ逃れてきて亡くなられた方もたくさんおられました。夫が町長をしていた頃は、冷戦時代で、核軍拡競争が行われていた頃でしたから住民も危機感を感じていたんだろうと思います。夫は、『今の日本は、非核宣言をした当時ほどの盛り上がりがあるだろうか。非核宣言自治体が日本全土を覆えば、被爆国として大きなメッセージになる。戦争をするのは国家だが、犠牲になるのは住民なんだ。そのことを忘れてはいけない。住民の安全を守らなければならない自治体は、非核にむけた声と行動を発信し続けなければならないんだ。』と」。
 敬子さんは夫である山田機平元町長の思いを代弁した後、私たちにこう話しました。
 「私は、非核宣言をした府中町と夫を誇りに思っています。」

3. 非核都市宣言を広める旗手となった府中町

 1982年6月の国連軍縮総会にむけた住民の草の根運動の盛り上がりの中、「非核宣言をした自治体が中心となって日本の反核平和運動をやろう」と山田府中町長が呼びかけ、9つの非核宣言都市の首長が同年8月5日・6日の両日、府中町に一堂に会し、核時代における自治体の役割について考察し、非核都市宣言の輪を全国的に広めるため「非核宣言シンポジウム・非核都市宣言の輪を広げよう」をテーマに協議会が開催されました。山田町長には、被爆地広島から平和・非核を発信するという強い想いがありました。このシンポジウムにおいて核兵器の廃絶と平和で安全な国民生活のために、「全国の自治体さらには全世界の自治体に核兵器廃絶・平和宣言を呼びかける」共同声明を採択し、これをさらに実効あるものにするため、「非核都市宣言の輪を広げるための組織づくりを進めよう」という機運が高まり、翌年の1983年8月5日に「非核都市宣言の輪を広げよう-組織作り準備会」が同じく府中町において開催されました。
 その後、仮称・非核都市宣言自治体連絡協議会の結成にむけて府中町、日野市(東京都)、藤沢市(神奈川県)、津島市(愛知県)、読谷村(沖縄県)、北中城村(沖縄県)の担当者により、同年10月19日、翌年4月13日、6月15日、7月18日の4回、府中町において結成準備会が行われ、1984年8月5日、6日の両日、19自治体31人の参加のもとに「非核都市宣言自治体連絡協議会結成総会」が開催される運びとなりました。
 設立の趣旨は、「核戦争による人類絶滅の危機から、住民一人ひとりの生命とくらしを守り、現在および将来の国民のために、世界恒久平和の実現に寄与することが自治体に課せられた重大な使命である。宣言自治体が互いに手を結びあい、この地球上から核兵器が姿を消す日まで、核兵器の廃絶と恒久平和の実現を世界の自治体に呼びかけ、その輪を広げるために努力する」というものでした。
 総会では、初代会長に山田機平府中町長が就任しました。結成総会においては、「米・ソ両大国、並びに核保有国に対し核兵器の廃絶を訴え、わが国の政府に非核三原則を厳守させること。核兵器が地球上から姿を消す日まで、その廃絶を叫び続け、平和で安全な国民生活の実現にむけて全国の自治体さらには全世界の自治体に核兵器廃絶・平和宣言を呼びかけ、その輪を広げるための努力を続けることを確認する」との決議を採択しました。
 この時、府中町は、「非核都市宣言自治体連絡協議会」結成の中心的な役割を果たし、まさに、非核都市宣言を全国に広める旗手となったのです。(1990年8月、協議会名称は、「日本非核宣言自治体協議会」に改称されました。)

4. 「非核宣言の町」として

(1) 現在の取り組み
① 府中町原爆死没者慰霊式および平和祈念式(毎年8月6日)
 原爆死没者を慰霊し、永遠の平和を祈念することを目的として、町の原爆慰霊碑前で毎年慰霊式を行っています。式には、町長、町議会議員、町職員をはじめ、町立小中学校の生徒等が参列しています。また、町内会や婦人会等の各種団体が、平和を祈念して折鶴を奉納しており、毎年150人を超える参列者がいます。
② 原爆慰霊碑の建立
 死没者の霊を慰め、核兵器の廃絶を訴えるため、被爆者の遺体を火葬した府中町役場前の榎川河川敷に慰霊碑を建てようと、町内の草の根グループ「府中町平和のための集い」や町内会などが募金活動を行い、1985年8月6日の原爆投下の日に碑の除幕式が行われました。府中町には、広島市内で被爆し負傷した約5,400人が避難し、亡くなった数百人を榎川河川敷に穴を掘って荼毘に付し、遺骨の一部は河川敷に埋められたと府中町史などに記されています。

 
【榎川河川敷に建てられた原爆慰霊碑】 【町民から募集した短歌が刻まれた石碑】

(2) 現在の状況・課題
 地方自治体が、政府の専管事項とされる安全保障に対し自らの意思を表明する時代が着実に到来しています。住民の安全を守るため「非核都市宣言」を行う自治体が全国の9割に当たる1,600を超えているという事実が、このことを物語っています。
 その一方で、非核宣言自治体の全国組織である「日本非核宣言自治体協議会」へ加入する自治体は331市区町村(2018年3月23日現在)にとどまり、うち中国地方では25市町村となっています。「自治体の財政難の中、分担金が必要なことも敬遠される要因」と協議会事務局の長崎市は言っています。人口規模などに応じ、年2万円から8万円の分担金が求められ、「予算がつかない」と脱退した自治体もあります。
 非核都市宣言に法的拘束力はありません。協議会は活動内容の積極的なPRをすることに加え、この宣言を実体化する活動を進めていく必要があります。
 また、多くの自治体が非核宣言を行い、地方自治体の立場から核兵器の脅威をなくす行動をとる一方、被爆国日本の政府は、米国の「核の傘」の下に安全保障を頼るという構造は未だ変わっていません。
 核兵器廃絶を求める国際的な機運に合わせ、平和・非核の風を再び起こせるのか、「わが町発の宣言」を礎にした行動が欠かせません。

(3) これからの取り組み―バチカンとの連帯を
 「再び戦争の過ちはおかさない」と、72年前、平和憲法により全世界にむけて誓った日本ですが、国内の情勢は徐々に、「戦争をできる国」に傾きつつあります。2014年7月、集団的自衛権行使の容認が閣議決定されました。その翌年には、集団的自衛権行使が法制化(安全保障関連法)されるに至りました。他にも、武器輸出三原則の見直しや特定秘密保護法の制定など、着実に「戦争ができる国」にむけて歩んでいます。
 そして、「戦争放棄」をうたった世界に冠たる日本国憲法を改めようとしています。
 このような状況だからこそ、真に平和を求める「非核都市宣言」の精神を再確認し、非核都市宣言の輪を広げるため、中心的な役割を果たした府中町に働く職員の労働組合として何ができるのか、組合の中で議論を重ねてきたところです。
 その議論の中で生まれてきたのが、非核宣言都市府中町と都市国家バチカンと、何らかの形で連帯できないかというものでした。
 府中町は、地理的によく似ている同国に例えられます。
 世界一小さな国である同国は、その周囲全てをイタリアのローマに囲まれています。同国は人道的立場による平和の提唱が同国外交の特色と言われており、言うまでもなく国際的に影響力のある都市国家です。何よりも同国は軍事力の不保持を宣言し、実際に持っていません。
 日本は憲法において軍事力の不保持を宣言しつつも、実際には軍事力を保持しています。日本の地方都市である府中町は軍事力不保持という憲法の精神と非核都市宣言を全国に広める先駆けとなった熱い気持ちが潜在的に存在する町です。
 このように地理的にも類似しており、ともに平和を希求する両者が姉妹都市提携をするなどの方法で連帯をすることができないかと私たち府中町職員労働組合は考えています。
 軍縮・核不拡散に関して国際的に影響力を有するバチカンと、原爆投下の記憶を残し、戦争放棄や非核化を全国に訴えた府中町という象徴的な二つのまちが連帯をすることで、今一度、平和を希求し行動した先人の熱き想いを再認識します。これにより平和への積極的な取り組みの再活性化や、平和に貢献できる努力を重ねていきます。
 現在でも毎年8月に開催される「折鶴平和行進」、「原水爆禁止世界大会・広島大会」への参加、前述した「府中町原爆死没者慰霊式・平和祈念式」への参加等に労働組合として取り組んでいるところですが、このレポート報告を契機として、「非核宣言都市・府中町」とバチカンの姉妹都市提携に向けて積極的に行動していきたいと考えています。

5. 結びに

 このレポート報告を行うにあたり、当時の文献を読み込み、山田元町長の関係者にも取材する中で、平和、非核に対する当時の熱い思いを感じ取ることができました。そして組合員のなかでも議論を深めてきたところです。
 私たちにできることは何でしょうか。それは、戦争の苦しさ、悲しさ、恐ろしさ、醜さ、汚さ、虚しさ、悲惨さ、残酷さを知ることではないかと考えます。
 それでは、平和や戦争への意識の低下・希薄化や被爆体験の風化が懸念される今、どのようなことを行えば、それらをわがこととして共感することができるのでしょうか。また、これらを次の世代に引き継ぎ伝えていくことができるのでしょうか。
 そのためには、職場や家庭で73年前にあった出来事を基に話し合うことが必要です。そして、各自治体で行われた「非核都市宣言」の意義を再確認し行動に移すことが求められています。恒久平和を祈り黙祷をささげること、一人の国民として、地域に暮らす住民として、自治体で働く職員として、労働組合に結集する組合員として、私たちの周りにあるたくさんの平和・非核活動に積極的に取り組み、原爆や戦争の記憶を繋いでいくべきだということを強く自覚しました。

<レポート執筆者>
府中町職員労働組合 三村 正義
          近藤 一郎
          加計 康敬
          末信 彰洋