1. はじめに
加計学園岡山理科大学獣医学部新設を巡って官邸、首相秘書官、文部科学省、農林水産省、愛媛県、今治市、加計学園、そして安倍首相本人を巻き込んだ騒動が連日報道されており、「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」「総理は自分の口からは言えないから自分が代わって言う」「本件は首相案件」「国政の私物化」「首相と理事長の面会話は虚偽」等の記事が新聞紙面に踊っている。しかし獣医学教育のあり方、そして公務員獣医師不足解決に向けた本質に関わる報道はほとんどみられない。そこで本レポートでは獣医師の仕事、日本の獣医学教育の問題点について報告し、公務員獣医師の現況と定員確保に向けた各県の取り組み状況についても紹介する。
2. 獣医師の仕事
獣医師の仕事は動物の病気の予防と治療、すなわち街の動物病院で犬や猫の小動物を診療する動物のお医者さんをイメージする人は多いが、獣医師が他にどのような仕事に従事しているかはあまり知られていない。
家畜の健康を守る、食品衛生・公衆衛生・環境衛生をとおして人の健康を守る、食品の抜き取り検査も実施する、これらの業務は都道府県や特定の市町村に勤務する公務員獣医師が担っている。研究職でも獣医師が活躍しており、製薬・創薬も獣医師の活躍分野である。創薬で必要な実験動物をきちんと扱えるのは専門教育を受けた獣医師だけである。
地球的課題としての食料・環境問題に対する上で、生態系の保全とともに、感染症の防御、食料の安定供給などの課題解決に向け「動物と人の健康は一つと捉え、これが地球環境の保全に、また、安全・安心な社会の実現につながる」との概念(One World―One health)が提唱され、人と動物が共存して生きる社会をめざすことが求められている。獣医師は動物に関する保健衛生の向上、食の安全性確保、感染症の防御、動物疾病の診断・治療、野生動物保護管理、動物福祉の増進に寄与するなど、幅広い責務を担っている。
3. 日本の獣医学教育と問題点
日本では明治政府が真っ先に獣医学校を設置した。帝国陸軍の軍馬のための獣医師養成が目的で、それをバックアップする畜産のためでもあった。戦後、獣医師は満州から引き揚げて来たが馬は満州に置き去りにされ、獣医師への需要はなかった。戦後の焼け野原で野良犬、野良猫を動物病院にかける人はいなかった。
戦後、日本に進駐してきたGHQは日本の獣医学教育を4年制から6年制にしようとしたが、日本政府は獣医師が人の健康に関わっているとの認識がなく、6年制を採用しなかった。約30年後の1978年入学者からようやく積み上げ方式6年制(学部4年+大学院修士課程2年)となり、1983年入学者からは医学部・歯学部と同じ学部一貫6年制に移行した。なお、薬学部が学部一貫6年制となったのは2006年入学者からである。
獣医学教育の対象は幅広い。医学と同じく基礎分野と臨床分野を学び、対象動物は医学では人のみだが、獣医学では犬・猫~牛・馬・豚・羊~魚、ミツバチまでと広範囲に及ぶ。教育には医学部と同じ規模の設備が必要である。全国には獣医師養成課程のある大学は新設の岡山理科大学獣医学部を含めて17大学ある。国立9校、公立1校、私立6校、1学年の定員は国公立大学では30~40人、私立大学は80~120人(岡山理科大学140人:うち20人は留学生枠)である。
GHQの教育改革では地方の小さな獣医学部を統合して大きな学部にしようとしたが、各大学、国、自治体がその必要性を認識しなかったため、小さな獣医学部が全国にばらまかれたままとなってしまった。世界標準では医学と同じサイズの設備・教官が必要とされており、学生1人でも70人以上の教官が必要である。70人の教官が120人の学生を教育する、私立大学のレベルが世界では普通である。国立大学では国の大学改革による予算縮減の影響もあり、時代に合わない、教官数も学生数も小さすぎる欠陥だらけの教育環境が何十年も続いてきた。国立大学を数校に集約すれば効率のよい教育ができるので統廃合をめざしているが、各県の知事は自分の県に大学が残らなければ反対である、そこで仕方なく大学間の協力体制(共同教育課程:獣医学部)を先行実施して教育の充実を図っているのが現状である。北大と帯広畜産大学など8つの国立大学が4つのグループを作り変則的に共同教育課程(獣医学部)を設置している。最終的には国立大学を数校に統廃合して、定員60~120人、教官72人以上の国際標準の獣医学部創設をめざしており、現在はその過渡期である。
4. 獣医師の就職状況
農林水産省では毎年、新人獣医師の就職状況を調査しており、過去6年間の就職状況は表1のとおりである。大学の獣医学部を卒業すると半数近くが小動物臨床分野に就職しており、都道府県の公務員獣医師となったのは112人(2016.3卒)~153人(2015.3卒)と卒業者の11.0%~14.9%にすぎず、近年この傾向に大きな変動はない。
表1 獣医関係大学卒業者就職状況 |
所属 |
分野 |
2012.3卒 |
2013.3卒 |
2014.3卒 |
2015.3卒 |
2016.3卒 |
2017.3卒 |
国 |
全分野 |
13 |
15 |
15 |
24 |
26 |
20 |
都道
府県 |
農林畜産 |
73 |
46 |
67 |
85 |
65 |
93 |
公衆衛生 |
54 |
51 |
61 |
63 |
43 |
34 |
その他 |
22 |
21 |
2 |
5 |
4 |
14 |
市町村 |
農林畜産 |
3 |
0 |
3 |
5 |
7 |
1 |
公衆衛生 |
34 |
23 |
19 |
21 |
20 |
12 |
その他 |
4 |
6 |
3 |
1 |
4 |
7 |
|
愛玩動物 |
461 |
476 |
457 |
408 |
429 |
445 |
他 |
会社・農協・学校等 |
412 |
421 |
407 |
415 |
423 |
435 |
計 |
|
1,076 |
1,059 |
1,034 |
1,027 |
1,021 |
1,061 |
|
農林水産省家畜衛生週報より抜粋 |
すでに2007年5月に農林水産省が公表した「獣医師の需給に関する検討会報告書」で、小動物臨床獣医師は十分充足、大動物臨床獣医師・公務員部門獣医師は今後不足が発生し確保もさらに難しくなっていくとの予測が報告されている。
5. 他県の状況
公務員獣医師不足に悩む2県の状況を紹介する。
(1) 高知県
獣医師は不足しており、広い県内を限られた人数の獣医師職員がカバーしている。大陸では高病原性鳥インフルエンザが猛威を振るっており、ウイルスが空から降ってくるようなもので防ぎようがないが、養鶏場を獣医師職員が巡回して注意喚起している。すごく負担増である。仕事量が増えて、かつ高病原性鳥インフルエンザが発生しないかとぴりぴりしている。獣医師を毎年募集するが定員まで集まらない。
(2) 青森県
2017年4月1日現在、獣医師155人。10年前より30人減。募集人員を確保できない。2016年度募集13人で採用8人。家畜衛生と公衆衛生、どちらも獣医師不足、足りないが今の獣医師職員で補っている。業務には獣医師の資格が必要。
6. 文部科学省の報告
文部科学省が設置した「獣医学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議」(2008年12月~)で議論されてきた内容が2013年3月に公表された。ポイントは次のとおり。
・都市部の獣医系大学は自地域からの入学者が多く、自地域へ多くの獣医師が就職
・地方の獣医系大学は自地域以外からの入学者が多く、自地域以外へ多くの獣医師を供給
・三大都市圏や札幌都市圏以外の場所に新たな獣医系大学を設置しても獣医師の地域偏在解消にはつながらない
・獣医学部の設置・運営には多額の国費が投じられており、際限なく獣医学部が設置されると就業できない獣医師を養成することとなり、国として必要以上の負担を負うこととなる。
安倍首相の「(公務員)獣医師が足りなければ獣医学部をどんどん創ればよい」という発言がいかに無責任なものかがおわかりかと思う。
7. 岡山理科大学獣医学部への税金投入問題
岡山理科大学獣医学部新設にともなう総事業費は186億円、うち加計学園が半分の93億円を負担し、残り93億円は愛媛県が31億円、今治市が62億円負担すると報道されている。岡山理科大学獣医学部の学生120人(国内枠)が6年後に全員卒業して全員獣医師国家試験に合格すると仮定して、果たして何人が愛媛県職員となるか予想してみよう。まず、都道府県職員になる割合は「3獣医師の就職状況」のデータで11.0%~14.9%であるから13~18人と予想できる。都道府県の待遇にさほど差がない場合、学生の就職先は地元志向が強くなるので、この13~18人の中に地元愛媛県出身者が何人いるかで更に数値は変動するが数人残ればいい方ではないか。このような状況で、愛媛県が県民の血税を31億円も投入するのはいかがなものかと思う。獣医師職員の給与を倍にすれば全国から優秀な獣医師が殺到する、31億円の税金はこちらに投入すれば費用対効果の面ではよっぽどよいのではないか、住民訴訟の恐れもないのではないかと思う。また、岡山理科大学獣医学部では先進的獣医学教育をする、小動物臨床教育はしない、と一部で報道されているが先進的獣医学教育を受けた獣医師の就職先がどの程度あるのか、小動物臨床教育を実施しない偏った教育で本当によいのかも疑問である。
8. 公務員獣医師確保に向けた各県の取り組み
ほとんどの道府県では獣医師に医療職Ⅱ表を適用しているが、福岡県では2017年4月から家畜保健衛生所及び食肉衛生検査所に勤務する獣医師に対して「特定獣医師職給料表」が適用され、若年層・中堅層を中心として給与水準の改善がはかられ、最大で月額2万円程度、平均で月額7,500円程度の給料月額の増となり、再任用職員でも月額26,400円の増額となっている。更に福岡県人事委員会では次のとおり意見を付している。「今回、家畜保健衛生所及び食肉衛生検査所に勤務する獣医師については『特定獣医師職給料表』を新設し、適正な給与体系を構築したが、近年、高病原性鳥インフルエンザをはじめとする人と動物の共通感染症のまん延が世界的に危惧され、その流行制御への関心が高まっており、この業務の中核を担う公務員獣医師の果たす役割が一層大きくなることが見込まれる。このため、今後も家畜保健衛生所及び食肉衛生検査所等に勤務する獣医師を取り巻く情勢を注視し、職務・職責に応じた処遇のあり方について、幅広い視点から引き続き適切に検討していく必要がある。」これは家畜保健衛生所勤務獣医師の職務が高い専門性と技術力を必要とされる業務であることを認知させた大きな出来事で、今後はこの給料表をもとに更なる待遇改善が進むことを期待したい。
新人獣医師職員確保対策として給料調整額と初任給調整手当の支給が挙げられる。給料調整額は24道県で措置、調整数は1~3、初任給調整手当は表2のとおり32道県で支給され、初年度月額は1万円~5万円、支給期間は5年~20年で経過年数とともに漸減し、支給総額は36万円~675万円であるが、増額や支給期間の延長も進んでいる。これらは新人獣医師確保の難しさを強く反映している。
表2 初任給調整手当支給一覧及びその内容 |
都道
府県 |
初年度~
最終年度支給月額 |
支給年数 |
支給総額 |
備 考 |
北海道 |
46,500~7,300円 |
15 |
6,723,600円 |
2017年度増額 |
青森 |
45,000~7,500円 |
15 |
6,750,000円 |
2016年度増額 |
岩手 |
35,000~7,000円 |
15 |
3,780,000円 |
2012年度増額・期間延長 |
秋田 |
30,000~6,000円 |
15 |
3,780,000円 |
2014年度増額 |
宮城 |
35,000~7,000円 |
15 |
3,780,000円 |
2016年度適用 |
福島 |
35,000~6,500円 |
15 |
4,140,000円 |
2016年度増額 |
新潟 |
35,000~2,500円 |
15 |
3,930,000円 |
2015年度適用 |
富山 |
35,000~2,500円 |
20 |
6,030,000円 |
2009年度増額・期間延長 |
石川 |
30,300~5,100円 |
15 |
3,939,600円 |
2016年度増額 |
福井 |
30,300~5,100円 |
10 |
2,728,800円 |
2017年度増額 |
岐阜 |
30,000~3,000円 |
15 |
3,780,000円 |
2015年度適用 |
三重 |
30,000~3,000円 |
12 |
2,700,000円 |
2017年度新規適用 |
滋賀 |
30,000~3,000円 |
11 |
2,340,000円 |
|
奈良 |
30,000~3,000円 |
10 |
1,980,000円 |
2016年度適用 |
和歌山 |
33,000~3,000円 |
11 |
2,376,000円 |
2017年度新規適用 |
鳥取 |
45,000~5,000円 |
9 |
2,700,000円 |
2015年度増額 |
島根 |
45,000~5,000円 |
9 |
2,700,000円 |
2011年度増額・期間延長 |
岡山 |
30,000~3,000円 |
10 |
1,980,000円 |
2014年度増額・期間延長 |
広島 |
10,000~2,000円 |
5 |
360,000円 |
|
山口 |
30,000~3,000円 |
10 |
1,980,000円 |
2012年度適用 |
徳島 |
50,000~3,000円 |
15 |
5,388,000円 |
2016年度増額・延長 |
香川 |
30,000~3,000円 |
10 |
1,980,000円 |
2007年度増額 |
愛媛 |
30,200~3,200円 |
10 |
2,004,000円 |
2016年度増額 |
高知 |
50,000~3,000円 |
15 |
5,268,000円 |
2015年度増額 |
福岡 |
30,500~5,300円 |
15 |
4,578,000円 |
2017年度特定獣医師給料表適用 |
45,000~5,300円 |
15 |
5,965,200円 |
2017年度一般職給料表適用 |
佐賀 |
30,000~5,300円 |
15 |
4,500,000円 |
2017年度増額 |
長崎 |
30,000~30,000円 |
10 |
3,600,000円 |
2011年度適用 |
熊本 |
30,000~5,100円 |
15 |
4,545,600円 |
2016年度増額 |
大分 |
30,000~5,000円 |
15 |
4,500,000円 |
2015年度増額 |
宮崎 |
30,000~5,000円 |
15 |
4,500,000円 |
2011年度適用 |
鹿児島 |
30,000~3,000円 |
20 |
5,580,000円 |
2016年度増額・延長 |
沖縄 |
30,000~5,000円 |
15 |
4,500,000円 |
2017年度増額・延長を適用 |
|
全国家畜衛生職員会報より |
獣医学部学生への県単独修学資金制度は表3のとおり13県で実施されており、卒業後に県内で公務員や産業動物臨床獣医師として一定の期間従事すれば返還を全額免除される。獣医師不足が深刻な県では地元出身者の囲い込みを狙っているのがわかる。
表3 県単独修学資金制度 |
|
事 業 名 |
貸与月額(万円) |
貸与人数 |
国公立 |
私立 |
青森 |
青森県獣医師修学資金 |
10 |
12 |
4 |
岩手 |
岩手県獣医学生修学資金貸付金 |
10 |
12 |
5 |
富山 |
富山県医学生等奨学資金貸与条例 |
4 |
4 |
3 |
島根 |
島根県獣医師確保緊急対策事業 |
10 |
10 |
|
山口 |
獣医学生 |
10 |
10 |
12 |
徳島 |
徳島県獣医師職員養成・修学資金貸与等事業 |
10 |
10 |
2 |
香川 |
香川県獣医学生修学資金貸付条例 |
8 |
8 |
|
高知 |
高知県獣医師修学資金 |
10 |
10 |
2 |
佐賀 |
佐賀県獣医師修学資金貸与条例 |
10 |
10 |
0~2 |
長崎 |
長崎県獣医修学資金貸与事業 |
10 |
10 |
3 |
大分 |
獣医師確保特別修学資金給付事業 |
10 |
10 |
3 |
熊本 |
熊本県獣医師確保修学資金貸与事業 |
10 |
12 |
2 |
鹿児島 |
鹿児島県獣医師確保対策修学資金貸与事業 |
10 |
12 |
22 |
|
全国家畜衛生職員会報より |
9. 北海道獣医師職員の現況
道内に14ヵ所ある家畜保健衛生所の定員は189人(この定員についても、全国の家畜飼養頭数比でみた職員数は、最下位レベルの少なさである)で、欠員は2017年度当初30人、2018年度当初は34人と増加し、欠員率は約18%である。2017年度末の退職者は定年5人、自己都合6人の計11人で、自己都合による中途退職者の増加が欠員増加の一因となっている。表4は北海道職員(獣医師)採用予定数の推移である。公表されていないが、2018年度の家畜保健衛生所採用予定数が欠員と同数であることから、各年度当初の獣医師欠員数と採用予定数は同数と考えられ、年々欠員が増加していることが判る。2018年度の募集要項によると、採用試験は年8回実施、札幌・函館・東京・大阪が受験会場となっており、採用予定日現在で59歳未満の者が対象となっている。しかしこの募集人員数がいかに現実離れした数字かは「4獣医師の就職状況」をみれば明らかであり、北海道獣医師職員の待遇改善が定員確保に向けた喫緊の課題であることが判る。ちなみに2018年4月1日、家畜保健衛生所に新規採用された獣医師は募集人員30人(2017年度当初欠員数と同じ)に対して僅か4人である。
表4 北海道職員(獣医師)採用予定数 |
採用予定箇所 |
2013年度 |
2016年度 |
2017年度 |
2018年度 |
家畜保健衛生所 |
36 |
60 |
70 |
34 |
保健所・環境生活課・食肉衛生検査所 |
43 |
|
北海道職員(獣医師)採用選考募集要項より抜粋 |
10.終わりに
獣医師、獣医学部等の言葉が今日ほどメディアに取り上げられたことはない。特に一国の首相が獣医師の存在を広く国民に知らしめたことは感謝したいとも思う。しかし、日本の獣医学教育は未だ世界標準に達しておらず、様々な問題を抱え改革途上にある。また、獣医師が特定の分野に偏在する問題は獣医学部新設という安易な対応では解決できない。人の健康と直結する家畜衛生、食品衛生、公衆衛生、環境衛生等の業務を担う公務員獣医師のなり手不足は重要な課題である。牛の口蹄疫、BSE、高病原性鳥インフルエンザの発生を経験した畜産王国北海道では当局が家畜保健衛生所の業務の重要性を再認識し、定員確保に向け採用試験の頻回実施や待遇改善に努めてきたが、いまだ多数の欠員は解消されていない。家畜保健衛生所連絡会議では獣医師の欠員解消に向けて、今後も全道庁本部と連携して活動していく決意である。
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