【自主レポート】

第37回土佐自治研集会
第12分科会 新しい公共のあり方「住民協働」理想と現実

 東日本大震災から7年半が経過しました。飯舘村は福島第一原子力発電所の事故により全村避難となり、避難生活を余儀なくされました。そんな厳しい避難生活の中でも、住民と村が共に手を取り合い地域コミュニティの存続や、これからの村の復興のために全力で取り組んで来ました。これまでの取り組みがあったからこそ住民と村との強い関わりが生まれ、苦しい避難生活を乗り越え、村の復興へ進んでいる様子をレポートにまとめました。



新しい公共のあり方「住民協働」理想と現実
―― 大震災を乗り越えて 住民とのまでいな地域づくり ――

福島県本部/飯舘村職員組合・自治研レポート作成委員会

1. はじめに ~これまでの飯舘村~

までいライフとは、「手間ひまを惜しまず」「丁寧に」「心をこめて」「時間をかけて」「つつましく」暮らす飯舘流スローライフのこと。 「日本で最も美しい村連合」小さくても輝く、オンリーワンを持つ農山村が自らの町や村に誇りを持って自立し、将来にわたって美しい地域であり続ける運動を続けている。
 1956年9月、相馬郡大舘村と相馬郡飯曽村の合併により、飯舘村は誕生しました。飯舘村は福島県の浜通りに位置し、阿武隈山系北部の高原にある自然豊かな美しい村です。人口は5,777人(2018年6月1日現在)、面積は230.13km2、うち約75%が山林です。農業振興が盛んで、「やませ」の影響で冷害等がありましたが、影響が少ない畜産に力を入れてきました。以前は、人口の半数にあたる約3,000頭の和牛が飼育され、220戸の農家が畜産を営んでいました。黒毛和牛の「飯舘牛」は福島県を代表するブランド牛として県内外に知られてきました。
 2003年、全国各地での平成の大合併のあおりにより、村でも住民投票が実施され、隣接する市町村との合併がせまられました。投票の結果、村は合併をせずに個性的で自立した地域づくりをしていくことを決定しました。それが、2005年から10年間の飯舘村第5次総合振興計画にある「までいライフ宣言」です。自主自立の村をめざし、村民と行政が力を合わせて、までい(ていねいに・心をこめて)で持続的な村づくりを基本理念とし、以降飯舘村の地域づくりが全国で認められてきました。
 2010年に飯舘村は「日本で最も美しい村連合」に加盟し、全国的にも「美しい村いいたて」が定評されました。

2. 大震災 ~そして全村避難へ~

 2011年3月11日に東日本大震災が発生し、飯舘村では最大震度6弱を記録しました。前例のない大災害により、落石や土砂崩れによる道路被害や、住宅被害が拡大しました。地震に伴う津波による福島第一原子力発電所の放射性物質放出の事故により、同年4月22日に村全体が計画的避難区域に指定され、村は全村避難となりました。全村民が村を離れ、仮設住宅や借り上げ住宅での生活を余儀なくされました。その2か月後の6月22日に村の役場機能を25キロ離れた場所の一部をお借りし移転しました。
 先の見えない避難生活という困難な状況下でも、住民の持つ地域力、住民と村との深いつながりがあったからこそ長期にわたる避難生活を乗り越えていくことが出来たのではないかと思います。避難生活では、避難先ごと住民が主体となり自治会を組織し地域コミュニティの存続を図る取り組みや、仮設住宅ごとのお祭りや催し物、また週に1回の運動教室など、少しでも避難生活の苦しみを緩和できるような取り組みを行ってきました。非常に苦しい避難生活ではありましたが、住民と村が手を取り合いながら過ごしたこの避難生活は、よりいっそう住民と村との絆を深めこれまでの復興や、これからの村再建に大きな糧となりました。

3. 帰村宣言 ~新しい村づくり~


いいたて村の道の駅「までい館」。館内の天井、「までいホール」は、カラフルな花かごを模したデザインとなっている。

「ふるさと住民票制度」。村に興味・関心ある村外の希望者が申請可能。取得することで、飯舘村での生活体験、イベントへのお誘い他、様々な特典あり。

村内で再開された認定こども園、小中学校の開園、開校式
 2017年3月31日、村は住民に帰還を呼びかける帰村宣言を出し、一部の地域を除いて避難指示区域が解除されました。帰村に合わせ避難先に移転していた役場機能の大部分を村に戻して業務を再開しています。村民の帰還率は全体人口の1割となっています(2018年6月現在)。
 2017年8月12日には、復興のシンボルとなる道の駅「いいたて村の道の駅 までい館」がオープンしました。館内には直売コーナーや特産品コーナーがあり、村民の方などがつくる農産物や手工芸品が棚に並びます。花卉栽培を行うガラスハウスが併設しており、直売コーナーで季節を彩る花を購入することもできます。
 2018年4月には、避難先で行われてきた学校が村内で再開されました。また、避難前までの幼稚園と保育園とを併せて認定こども園が新設されました。ほとんどの児童、生徒が避難先からのバス通学となっていますが、現在の通学児童、生徒は104人(2018年6月1日現在)となり、村に子ども達の声が戻ってきました。
 震災が住民に与えた影響はマイナスなことばかりではなく、様々な人たちとの出会いがあり、多くの交流が生まれてきました。避難指示解除を機に新たに感謝の気持ちを伝えたく始まったのが、「ようこそ補助金」です。村の「ふるさと納税」及び飯舘村に寄付して頂いた方への感謝の気持ちを込め、寄付して頂いた方にぜひ村にお越しいただくため、交通費の片道分を上限6万円まで補助する制度になっています。
 全村避難によって飯舘村を離れてしまっても、飯舘村を応援してくれる方、応援したい方に「ふるさと住民票」を交付しています。離れていても飯舘村を応援し、これからも村との「つながり」を深く長くするために開始しました。
 これまでたくさんの支援や応援をいただきながら、復興に向けて歩みを進めることができました。これからも村は前進を続けていきます。「までいの村に陽はまた昇る」を念頭に、職員一丸となって日々復興業務等に取り組んでいきたいと思っています。

4. 行政区とコミュニティ担当者制度


飯舘村20行政区
 飯舘村は、20の地域に分かれています。その地域はそれぞれ町内会のような「行政区」と呼ばれる地縁団体で構成されていて、特別養護老人ホームの入居者等のごく一部の例外を除いて、村民は自分の居住する地域の行政区に加入しています。
 行政区は、一般的な町内会よりも役場と関係が深いのが特徴です。行政区を20区設置することは村の条例で定められていて、行政区の代表である行政区長はそれぞれの行政区内で選ばれた後、村長から委嘱を受け、2年間の任期で区長を務めるという仕組みです。
 この仕組みの中で、飯舘村が独自に設けた制度に「コミュニティ担当者制度」というものがあります。コミュニティ担当者とは、すべての村職員の中で、出身地域や職務内容を考慮しながら、非管理職の者を2人ずつ各行政区に任命し、それぞれの行政区と村役場の連絡や調整を行うことを主な仕事とする制度です。出身地域の行政区に任命される職員もいますが、村外出身の職員も多く、他県から村役場に就職してすぐにコミュニティ担当者に任命され、村のことをまだよく知らない中で行政区の集会に参加する場合もあります。
 コミュニティ担当者制度では、地域づくりの主体はあくまでも「住民」であるという観点から、担当職員は、地域コミュニティ活動が「自主的・主体的」に運営できるように支援するものであり、命令したり拘束したりする立場ではないことも、この制度の特徴です。
 この制度の大きなねらいは、村職員と住民が互いに顔を覚え、いざとなればすぐに連絡を取り合えるような関係を構築し、住民とのつながりを強化することです。職員が地域に溶け込むことで、住民の顔と名前だけでなく、職業や得意分野などを把握し、「餅つきのイベントなら、○○さんに頼もう」、「あの地区の○○さんは新規就農希望者への面倒見が良い」といった、広い意味での地域資源の有効活用を行うことができるようになります。村役場として委嘱する「行政区長」、そして役場職員による「コミュニティ担当者」が、

村民とコミュニティ担当者との会議の様子
住民への働きかけを行うことで、住民主体の村づくりを活性化することができているのです。
 村民との関わりが少ない職場へ配置されていたり、人と関わるのが苦手という職員も、この制度の中で、自然と住民と仲が良くなり、どうすれば暮らしやすい村になるのかを上司に提案するようになり、休日に地域のイベントに自主的に参加したりするなど、職員本人・村役場・住民それぞれに良い影響が出ています。
 今後については、人口減少等による行政区の合併等を検討しながら、住民・職員の意見を随時取り入れつつ、地域づくりを行っていきたいと思います。

5. 東日本大震災前後の行政区の活動とコミュニティ担当者との関わり

 飯舘村は行政区と住民間のつながりがとても強い村であり、地区の住民が協力し合い、時には行政の手も借りながら、自分たちの住む地区、飯舘村を盛り上げていました。
 2011年3月11日の東日本大震災により長年築き上げてきた地区のつながりが分断されかけましたが、長期化する避難生活にも負けず、コミュニティ担当者と住民が協力し合い、地域のつながりを守ってきました。
 ここでは東日本大震災前後の地区の活動とコミュニティ担当者の関わりについて、いくつかの事例を紹介します。

(1) 関根・松塚行政区との取り組み
【震災前】~行政区の概要・震災前のコミュニティ担当者との関係~
 関根・松塚行政区について、村内における人口比率は3%程度と、村を構成する行政区として小さい部類に入りますが、農畜産業に精力的に取り組む村民が多く住み、行政区独自に村部局と掛け合い、各事業の活用を積極的に行ってきた経緯があります。震災前のコミュニティ担当者については、表舞台に立つことは少ないながらも、事業申請書の添削、担当への橋渡し等スムーズな行政区運営ができるよう陰で支える重要な役目を担っておりました。
【震災後】~発災後から避難指示解除後の行政区の動きとコミュニティ担当の支援体制~

除染後の水田を使った肥育牛の放牧実証試験

コミュニティ担当による支援事業の説明
 東日本大震災が発生し、続く福島第一原子力発電所の事故によって村全体の産業は大打撃を受けました。関根・松塚行政区も例外ではなく、住民が農畜産業から距離を置くことを余儀なくされましたが、生計を立てることを度外視してでも、今後村内での就農再開を希望する住民も現れました。
 このことを受け、農業担当職員をコミュニティ担当者に任命、営農再開に係る財政支援の持込等を実施しました。その甲斐もあり、避難区域を持つ市町村においても、先進的な取り組みを多数実施できました。
 避難指示解除後は、避難中も農業を試験的に続けてきた住民の本格的な営農が再開し、採算を採るための事業展開を考える段階になりました。ここでもコミュニティ担当者の働きがあり、村外から行政区に適する品種を選定し、住民に紹介を行っています。
 新品種を取り扱うにあたり、コミュニティ担当者が所属する部署全体で支援を行った結果、見込み通りの収穫実績が生まれました。またこの産品は、間近に控えている東京オリンピックでの活用も考慮されており、知名度が上がれば、更に価値が上がることも期待されています。

(2) 大倉行政区との取り組み
【震災前】~はやま湖 森と湖まつり~

「はやま湖 森と湖まつり」の様子
村内外からも人が多く集い、飯舘村の夏を盛り上げていた。
 飯舘村の北部にある大倉地区では、飯舘村北部を東流する真野川をせき止めた多目的ダム(はやま湖)があります。東日本大震災の前は、森林やダムの役割、重要性について広く知ってもらうことを目的に、県が運営する真野ダムに親しむ運営委員会と真野ダム管理事務所が毎年7月に「はやま湖 森と湖まつり」を開催していました。ダム施設や取水トンネル見学、森林教室、ポニー乗馬体験、モーターボートの湖上遊覧、花火大会などの様々なイベントが催され、老若男女問わず多くの村民が集い、夏の暑さに負けない熱気で祭りを楽しんでいました。
 そういった地域の活発な動きをサポートすべく、コミュニティ担当者は企画から運営に至るまで、幅広く住民のサポートに取り組むとともに、一年に一度の祭りを住民と一緒に楽しんでいました。
【震災後】~はやま湖花火大会~

昨年の花火大会では大倉地区の神楽も特別出演し、会場を盛大に盛り上げた。

2018年「はやま湖花火大会のチラシ」
 東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故で全村避難を余儀なくされ、村の夏を飾っていた「はやま湖 森と湖まつり」の歴史は途絶えてしまいました。事故から6年が経ち、一部地域を除き避難区域が解除された2017年、県の運営委員会で祭り再開の目途が立っていないことから、飯舘村長から一つの提案が行政区長に出されました。それは「祭りの復活が難しいのであれば、まずは花火大会から復活させてはどうか。」というものでした。提案を受けた行政区長は大倉行政区の住民と意見交換を実施し、花火大会の復活が決まりました。
 財源確保や事務手続きの煩雑さが課題となる中、コミュニティ担当者は実行委員会の立ち上げや、県へ補助金の申請を行うなど、震災前以上に大倉行政区の住民と連携し、花火大会復活に向けて力を尽くしました。その結果、大倉行政区の住民はもちろん、村内外からの観覧者も多数見受けられるなど、花火大会は大成功に終わりました。2018年も祭りの復活は叶いませんでしたが、大倉行政区の住民たちによる屋台の出店など、2017年より規模を大きくして花火大会を開催します。
 今後もコミュニティ担当者と大倉行政区の住民が連携し、花火大会のさらなる盛り上げと「はやま湖 森と湖まつり」復活に向けて活動を進めていきます。

(3) 飯樋町、前田・八和木、大久保・外内、上飯樋行政区(通称:飯樋四区)との取り組み
【震災前】~流し盆踊り大会~

家族で盆踊り大会を楽しむ様子
 ここで紹介する飯樋四区とは飯樋を大字とする四行政区が集まり、合同で地域作りを進めることで、より多くの成果を残すために結成された組織です。飯樋四区で毎年夏に合同で開催する流し盆踊り大会は、村内の一大イベントとして村民全員が楽しみにしている祭りであり、飯樋四区の各行政区が踊りながら会場まで練り歩いていく姿は圧巻でした。
 コミュニティ担当者は、この盆踊り大会を成功させるために、飯樋四区と何度も打合せを行い、2017年より多くの村民に楽しんでもらいたいという気持ちで企画を進めていきました。また、飯樋四区だけでなく、盆踊り大会に訪れた住民ともふれあうことで地域の活性化に繋がってきました。東日本大震災後はまだ開催できていませんが、流し盆踊り大会を復活させることがコミュニティ担当者の目標の一つです。
【震災後】~①飯樋四区連絡協議会・②大雷神社遷宮祭・飯樋四区復興祭~
① 飯樋四区連絡協議会
 この協議会は、2017年3月31日の一部地域を除いた避難区域の解除に向けて、震災前からつながりのあった飯樋四区でまとまり、住民同士の不安や問題を共有、話し合うことで、地域の絆を大切にするために立ち上げられました。 
 協議会は2016年度に3回、2017年度は6回、避難解除後の2018年度は既に3回実施しています。また、協議会には毎回コミュニティ担当者が参加しており、村の現状や行政の立場での意見等を住民に近い距離で発信することができるとともに、地域の人たちが何を望んでいるのかなどを直接聞き取ることができるため、住民とコミュニティ担当者の信頼関係を構築するための場にもなっています。
② 大雷神社遷宮祭・飯樋四区復興祭

飯樋地区を120人の行列が練り歩く様子

実行委員会が屋台グルメを提供する様子
 震災前から長い間、地域の人々が大雷神社に祀られている田の神と雷の神に五穀豊穣を祈り、伝統的な祭りを行っていました。大祭は3年に1度開かれ、本来は2011年に行う予定でしたが、東日本大震災のために中止となったため、2018年5月に2008年以来10年ぶりの開催となりました。
 さらに、このタイミングに合わせ、地域の人々とコミュニティ担当者で実行委員会を立ち上げ、誰でも気軽に参加できる飯樋四区復興祭を2018年度から新たに開催しました。当日は村外・県外からの参加者のステージに加え、実行委員会で屋台グルメの提供を行うなど、コミュニティ担当者、住民、村内外からの協力を得て大いに盛り上がりました。

6. まとめ

 このように、住民と村が一緒になって地域づくりを行ってきました。このような経験があるからこそ東日本大震災のような未曾有の災害も乗り越えることができたのだと思います。住民を支援する立場ではなく、自ら地域に溶け込み、住民と一体になって取り組んでいくことが必要であり、それが現在の「までいライフ」の一部となっていると思います。
 これからは東日本大震災による大幅な人口減少で、新たな村づくりにシフトしていかなくてはいけない一方で、今まで培ってきた地域コミュニティの再生や、伝統を消滅させてはいけないという住民の強い気持ちが、村の復興を加速させる原動力となっていくと思います。