【自主レポート】 |
第37回土佐自治研集会 第12分科会 新しい公共のあり方「住民協働」理想と現実 |
東日本大震災から7年半が経過しました。飯舘村は福島第一原子力発電所の事故により全村避難となり、避難生活を余儀なくされました。そんな厳しい避難生活の中でも、住民と村が共に手を取り合い地域コミュニティの存続や、これからの村の復興のために全力で取り組んで来ました。これまでの取り組みがあったからこそ住民と村との強い関わりが生まれ、苦しい避難生活を乗り越え、村の復興へ進んでいる様子をレポートにまとめました。 |
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1. はじめに ~これまでの飯舘村~
2003年、全国各地での平成の大合併のあおりにより、村でも住民投票が実施され、隣接する市町村との合併がせまられました。投票の結果、村は合併をせずに個性的で自立した地域づくりをしていくことを決定しました。それが、2005年から10年間の飯舘村第5次総合振興計画にある「までいライフ宣言」です。自主自立の村をめざし、村民と行政が力を合わせて、までい(ていねいに・心をこめて)で持続的な村づくりを基本理念とし、以降飯舘村の地域づくりが全国で認められてきました。 2010年に飯舘村は「日本で最も美しい村連合」に加盟し、全国的にも「美しい村いいたて」が定評されました。 2. 大震災 ~そして全村避難へ~ 先の見えない避難生活という困難な状況下でも、住民の持つ地域力、住民と村との深いつながりがあったからこそ長期にわたる避難生活を乗り越えていくことが出来たのではないかと思います。避難生活では、避難先ごと住民が主体となり自治会を組織し地域コミュニティの存続を図る取り組みや、仮設住宅ごとのお祭りや催し物、また週に1回の運動教室など、少しでも避難生活の苦しみを緩和できるような取り組みを行ってきました。非常に苦しい避難生活ではありましたが、住民と村が手を取り合いながら過ごしたこの避難生活は、よりいっそう住民と村との絆を深めこれまでの復興や、これからの村再建に大きな糧となりました。 3. 帰村宣言 ~新しい村づくり~
2017年8月12日には、復興のシンボルとなる道の駅「いいたて村の道の駅 までい館」がオープンしました。館内には直売コーナーや特産品コーナーがあり、村民の方などがつくる農産物や手工芸品が棚に並びます。花卉栽培を行うガラスハウスが併設しており、直売コーナーで季節を彩る花を購入することもできます。 2018年4月には、避難先で行われてきた学校が村内で再開されました。また、避難前までの幼稚園と保育園とを併せて認定こども園が新設されました。ほとんどの児童、生徒が避難先からのバス通学となっていますが、現在の通学児童、生徒は104人(2018年6月1日現在)となり、村に子ども達の声が戻ってきました。 震災が住民に与えた影響はマイナスなことばかりではなく、様々な人たちとの出会いがあり、多くの交流が生まれてきました。避難指示解除を機に新たに感謝の気持ちを伝えたく始まったのが、「ようこそ補助金」です。村の「ふるさと納税」及び飯舘村に寄付して頂いた方への感謝の気持ちを込め、寄付して頂いた方にぜひ村にお越しいただくため、交通費の片道分を上限6万円まで補助する制度になっています。 全村避難によって飯舘村を離れてしまっても、飯舘村を応援してくれる方、応援したい方に「ふるさと住民票」を交付しています。離れていても飯舘村を応援し、これからも村との「つながり」を深く長くするために開始しました。 これまでたくさんの支援や応援をいただきながら、復興に向けて歩みを進めることができました。これからも村は前進を続けていきます。「までいの村に陽はまた昇る」を念頭に、職員一丸となって日々復興業務等に取り組んでいきたいと思っています。 4. 行政区とコミュニティ担当者制度
行政区は、一般的な町内会よりも役場と関係が深いのが特徴です。行政区を20区設置することは村の条例で定められていて、行政区の代表である行政区長はそれぞれの行政区内で選ばれた後、村長から委嘱を受け、2年間の任期で区長を務めるという仕組みです。 この仕組みの中で、飯舘村が独自に設けた制度に「コミュニティ担当者制度」というものがあります。コミュニティ担当者とは、すべての村職員の中で、出身地域や職務内容を考慮しながら、非管理職の者を2人ずつ各行政区に任命し、それぞれの行政区と村役場の連絡や調整を行うことを主な仕事とする制度です。出身地域の行政区に任命される職員もいますが、村外出身の職員も多く、他県から村役場に就職してすぐにコミュニティ担当者に任命され、村のことをまだよく知らない中で行政区の集会に参加する場合もあります。 コミュニティ担当者制度では、地域づくりの主体はあくまでも「住民」であるという観点から、担当職員は、地域コミュニティ活動が「自主的・主体的」に運営できるように支援するものであり、命令したり拘束したりする立場ではないことも、この制度の特徴です。 この制度の大きなねらいは、村職員と住民が互いに顔を覚え、いざとなればすぐに連絡を取り合えるような関係を構築し、住民とのつながりを強化することです。職員が地域に溶け込むことで、住民の顔と名前だけでなく、職業や得意分野などを把握し、「餅つきのイベントなら、○○さんに頼もう」、「あの地区の○○さんは新規就農希望者への面倒見が良い」といった、広い意味での地域資源の有効活用を行うことができるようになります。村役場として委嘱する「行政区長」、そして役場職員による「コミュニティ担当者」が、
村民との関わりが少ない職場へ配置されていたり、人と関わるのが苦手という職員も、この制度の中で、自然と住民と仲が良くなり、どうすれば暮らしやすい村になるのかを上司に提案するようになり、休日に地域のイベントに自主的に参加したりするなど、職員本人・村役場・住民それぞれに良い影響が出ています。 今後については、人口減少等による行政区の合併等を検討しながら、住民・職員の意見を随時取り入れつつ、地域づくりを行っていきたいと思います。 5. 東日本大震災前後の行政区の活動とコミュニティ担当者との関わり
飯舘村は行政区と住民間のつながりがとても強い村であり、地区の住民が協力し合い、時には行政の手も借りながら、自分たちの住む地区、飯舘村を盛り上げていました。 (1) 関根・松塚行政区との取り組み
このことを受け、農業担当職員をコミュニティ担当者に任命、営農再開に係る財政支援の持込等を実施しました。その甲斐もあり、避難区域を持つ市町村においても、先進的な取り組みを多数実施できました。 避難指示解除後は、避難中も農業を試験的に続けてきた住民の本格的な営農が再開し、採算を採るための事業展開を考える段階になりました。ここでもコミュニティ担当者の働きがあり、村外から行政区に適する品種を選定し、住民に紹介を行っています。 新品種を取り扱うにあたり、コミュニティ担当者が所属する部署全体で支援を行った結果、見込み通りの収穫実績が生まれました。またこの産品は、間近に控えている東京オリンピックでの活用も考慮されており、知名度が上がれば、更に価値が上がることも期待されています。 (2) 大倉行政区との取り組み
そういった地域の活発な動きをサポートすべく、コミュニティ担当者は企画から運営に至るまで、幅広く住民のサポートに取り組むとともに、一年に一度の祭りを住民と一緒に楽しんでいました。
財源確保や事務手続きの煩雑さが課題となる中、コミュニティ担当者は実行委員会の立ち上げや、県へ補助金の申請を行うなど、震災前以上に大倉行政区の住民と連携し、花火大会復活に向けて力を尽くしました。その結果、大倉行政区の住民はもちろん、村内外からの観覧者も多数見受けられるなど、花火大会は大成功に終わりました。2018年も祭りの復活は叶いませんでしたが、大倉行政区の住民たちによる屋台の出店など、2017年より規模を大きくして花火大会を開催します。 今後もコミュニティ担当者と大倉行政区の住民が連携し、花火大会のさらなる盛り上げと「はやま湖 森と湖まつり」復活に向けて活動を進めていきます。 (3) 飯樋町、前田・八和木、大久保・外内、上飯樋行政区(通称:飯樋四区)との取り組み
コミュニティ担当者は、この盆踊り大会を成功させるために、飯樋四区と何度も打合せを行い、2017年より多くの村民に楽しんでもらいたいという気持ちで企画を進めていきました。また、飯樋四区だけでなく、盆踊り大会に訪れた住民ともふれあうことで地域の活性化に繋がってきました。東日本大震災後はまだ開催できていませんが、流し盆踊り大会を復活させることがコミュニティ担当者の目標の一つです。 【震災後】~①飯樋四区連絡協議会・②大雷神社遷宮祭・飯樋四区復興祭~ ① 飯樋四区連絡協議会 この協議会は、2017年3月31日の一部地域を除いた避難区域の解除に向けて、震災前からつながりのあった飯樋四区でまとまり、住民同士の不安や問題を共有、話し合うことで、地域の絆を大切にするために立ち上げられました。 協議会は2016年度に3回、2017年度は6回、避難解除後の2018年度は既に3回実施しています。また、協議会には毎回コミュニティ担当者が参加しており、村の現状や行政の立場での意見等を住民に近い距離で発信することができるとともに、地域の人たちが何を望んでいるのかなどを直接聞き取ることができるため、住民とコミュニティ担当者の信頼関係を構築するための場にもなっています。
さらに、このタイミングに合わせ、地域の人々とコミュニティ担当者で実行委員会を立ち上げ、誰でも気軽に参加できる飯樋四区復興祭を2018年度から新たに開催しました。当日は村外・県外からの参加者のステージに加え、実行委員会で屋台グルメの提供を行うなど、コミュニティ担当者、住民、村内外からの協力を得て大いに盛り上がりました。 6. まとめ
このように、住民と村が一緒になって地域づくりを行ってきました。このような経験があるからこそ東日本大震災のような未曾有の災害も乗り越えることができたのだと思います。住民を支援する立場ではなく、自ら地域に溶け込み、住民と一体になって取り組んでいくことが必要であり、それが現在の「までいライフ」の一部となっていると思います。 |