【自主レポート】

第37回土佐自治研集会
第12分科会 新しい公共のあり方「住民協働」理想と現実

 ブラジル日系3世として27年前に来日。会社勤務を経て、市役所勤務。臨時職員、嘱託職員を経て、現在は正規職員として勤務。外国籍の市民人口が5%に迫る中、日本国籍市民と外国籍市民の文化や生活習慣の違いを理解し合う架け橋となりたい。



日本へ来てからの私
―― 行政職員として感じたこと ――

福井県本部/越前市職員組合 ハマザキ タカノ アドリアナ エイコ

1. はじめに

 はじまして、私はブラジル国籍の日系三世です。福井県越前市役所で働いています。子どもは長男(21歳)、長女(18歳)、次女(14歳)の3人です。父方の両親は日本人で、若い頃、二人ともブラジルに渡りました。日系人の父とブラジル人の母の間に、4人姉妹の長女として私は生まれました。日本の文化や生活習慣に触れることはほとんどなく、子どもの頃は日本語を話せませんでした。なぜなら私は1歳の時に父方の母が亡くなり、私の父は私が8歳の時に亡くなりました。お祖父ちゃんとは約400キロ離れた距離で暮らしていたので、夏休みのときだけお祖父ちゃんの家に遊びに行っていました。そのときは全く日本のことに興味がありませんでした。

2. 日本へ

 ところが、日本経済の発展のため労働者が必要になり、平成2年に入管法が改正されて、日系二世・三世及びその家族に対し日本への労働者として認められるようになりました。
 その次の年にいとこ達が日本へ出稼ぎに行き、私を出稼ぎに誘いました。そして、平成3年6月21日に私も家族を支えるため来日しました。当時16歳でした。
 当時働く会社はほとんど週6日制で、1日12時間労働でした。1年間勤めましたが、会社が不景気になって解雇されました。その後縫製会社へ4年間勤め、そして、平成9年に長男の出産のために仕事を辞めました。
 平成10年の春頃に警察から依頼があり、警察官一人にポルトガル語を教えるために3ヶ月間、講師として働きました。裁判所から通訳派遣されることも何回かありました。

3. 現在の職場で

 その後、越前市(当時の武生市)からブラジル国籍市民の相談増加のために、相談窓口に通訳が必要なので、平成10年10月から臨時職員として雇用されました。平成10年のブラジル国籍の市民は1,019人でした。
 雇用されたときは、自分も来日した時には、全く日本語が話せなかったので、当事者の気持ちが良くわかり、少しでも役に立ちたい気持ちが強くて嬉しかったのですが、正直不安な気持ちもいっぱいでした。日本語がそんなに喋れなかったし、読み書きもできなかったため、難しい市役所の専門用語を本当に覚えられるのか、窓口での通訳ができるのか、外国籍市民のためになれるのか……。でも人のために役に立ちたいし、日本人と外国人の文化や生活習慣を理解しあう架け橋にもなりたいし、自分の経験のためにもやりたいという気持ちも強かったので、勤めるようになりました。その当時の職場では雇用契約は1年間で、契約更新はできるかどうかわからないと言われました。
 雇用された先は政策企画課の中にあった国際交流協会に配属されましたが、市役所の各窓口にブラジル国籍の方が来庁されたときには呼ばれたりしました。その後、ポルトガル語の通訳がいるということを市民の方に知ってもらうために、市民課の外国人登録係に配置されました。
 徐々に市役所にブラジル国籍の通訳がいることが広まっていって、相談や窓口の通訳業務が増え続けていきました。
 そして、平成12年10月1日から嘱託職員になりました。当時の辞令をもらう時に今でも忘れられない上司の一言が「今の仕事より更に仕事増えます。」ということでした。その一言にびっくりしましたが、想像以上に確かに仕事が増えました。
 職名は外国人市民相談員で、各窓口での通訳や、行政翻訳や、外国人登録異動事務も担当業務になりました。
 外国籍の方の相談はさまざまで、行政的な相談だけではなく、日常生活すべての相談に来られます。お客さんに明確な回答をするには自分も調べることが増え、自分自身の経験に活かすためにもなりました。
 ところが、ここまで仕事が求められているにもかかわらず、給料が安すぎるのではないかと思い始めました。個人として通訳をしたり、翻訳会社や一般の会社に勤めたり、あるいは個人で別の仕事をする方が給料が高いし、責任もそれほど重くないのではないかと悩み始めました。
 特に限界を感じたのは、平成17年10月の武生市と今立町の合併のときの職員の異動でした。その当時、どの課も異動が多く、外国人登録グループでは正規職員が全員異動し、毎日窓口が混み過ぎて、正規の職員に教える時間が日中はほとんどなく、ほぼ毎日2~3時間の残業で仕事を教えました。その時、正規の職員は3人、嘱託職員1人でしたが、合併1か月以内に出産のためにベテランの嘱託さんが産休に入りました。当時のメンバーは皆が協力的でとても仕事ができる方々でしたが、仕事を教えるときに、窓口が混みあう中、少ない時間で4人に教えないといけなかったので、大きな責任を感じました。お昼ご飯休憩も取れず、有給休暇も取ることができませんでした。
 その1~2年後に私とは別のブラジル国籍の国際交流員はブラジルへ帰国しましたが、越前市は新たに国際交流員を雇いませんでした。新年度に国際交流員の仕事も私にやってほしいと上司から言われ、私は勝手ながらその分の給料が少しでも上がると思いました。ところが、4月の辞令をもらった時には変わりがなく、思わず目に涙がいっぱいたまりました。
 ある日、有給休暇を取って、当時入っていた嘱託職員組合の委員長のところへ、仕事を辞める相談に行きました。ただ、契約更新した以上、自分も途中で契約を破るのは嫌だったので、契約が切れるまで残ろうと思いました。その後、組合がすぐに理事者と協議し、給料が少しだけ上がりましたが、仕事量もアップになりました。
 窓口の相談は毎月300~400件ぐらいで、市営住宅の入居手続き、出産一時金申請手続き、国民健康保険の加入、各種制度手続き、税金、障がい福祉などの相談を受けました。
 しかし、2008年のリーマンショック後、ブラジル国籍の雇止めが多くてさらに窓口相談が増えて、700件以上相談を受けた月もありました。トイレに行く余裕もありませんでした。いつの間にか自分が一人で、ワンストップ窓口になっていました。
 相談の内容が様々にある中で、自分で調べることも増え、自分の仕事のスキルアップにもなりましたが、自分の中ではまだまだ足りないと思っていました。そのとき、2009年にブラジルの連邦大学が300人に通信で教員免許のとれる募集があり、それに申し込んで受験し、入学することができました。その大学は4年半の勉強で正直、家事・仕事しながらこなせるかどうかかなり不安で、何回か辞めようと思いましたが、気がついたら卒業を迎えることができました。
 そして、平成28年4月1日にブラジル国籍のままで越前市の正規職員になりました。行政管理課と教育振興課の所属で、毎週月曜日は行政管理課に勤務し、行政文書の翻訳や窓口での相談を受けたりしました。火曜日から金曜日の午前中から二時半までは、小学校現場で外国籍児童の授業のサポートや、学校行事でブラジルの紹介などをしました。
 更に、その年はリオオリンピックの開催があったので、まちを盛り上げるため、スポーツ課と一緒にショッピングセンターでブラジルの食べ物やブラジルの観光地や文化を紹介したり、学校でのブラジル給食日にブラジルの紹介もしました。

ショッピングセンターでのブラジル紹介の様子

 この時、辛かった4年半の大学を最後まで、諦めずに続けてよかったなと思いました。おかげで大学で学んだことを学校現場で生かすこともできました。特に日本語が話せない外国籍児童のサポートをするときに役立ちました。

市民課の外国人窓口には毎日たくさんの人が訪れる
 昨年度の4月からの人事異動でまた市民課に配属されました。外国人住民異動、相談、翻訳、通訳、犬の登録担当をしています。市民課にはいろんな国籍の方々が見えるので、窓口はとても賑やかです。市民課はほとんど毎日忙しく、気が付いたときには帰りのチャイムが鳴っています。でも市民の方の対応が好きで、市民課に戻ってきたときには、何人かの市民の方に「市民課へ戻られたので良かった」「嬉しかった」と言われました。しかし、学校で子ども達にサポートができなくなり寂しいです。何人かの子どもに「行かないで」と言われたときは、特に寂しかったです……。人生っていろんな人と出会い、色々なことを失い、楽しいことも嬉しいこともある。晴れの日も雨の日もある(たまに台風もありますけど)。こんなに素敵な人々と学ぶ機会があることを幸せと思わないとね
 昨年度の秋から組合の副委員長になり、大きな役割を頼まれてとても嬉しかったです。けれど、こんな役目は外国籍の私でいいの? 本当にいいの? 組合員の皆に恥をかかせないのか? 嫌な人がいるんじゃないか? 私は本当に仲間のために何かできるの? 不安。。。不安。。。と思っていました。でも、仲間の組合員の皆は、こんな私が正規職員になるために一生懸命応援してくださったから、少しでも恩返ししたい気持ちの方が強かったので、こんなに大きな役割を引き受けました。
 今年は、越前市の市議会議員選挙の年で、越前市の組織内議員の選挙だったのですが、私は外国籍なので日本での選挙権がありません。その大事な一票を入れることができなかった、恩返しできなかったことがとても辛かったです。

4. 越前市における外国人の対応体制

 仕事では、来年度の越前市多文化共生推進プランの改定にむけて、担当課と一緒に取り組んでいるところです。越前市の保育園には、ブラジル国籍の児童が多いため、職員組合の方では、保育運動推進部会で取り組みを進めています。現在、市民課の外国人市民相談窓口は正規職員4人のうち、ポルトガル語を話せるのは私と日本人の職員の2人で、嘱託職員はポルトガル語が話せる2人と中国語が話せる1人となっています。今では市民課の窓口にはポルトガル語が話せる嘱託職員が二人も増えて、年々増加する外国籍の方々に、より良くスムーズに対応できます。市の各窓口での通訳や、行政翻訳、赤ちゃん訪問、赤ちゃん検診、妊婦訪問などの支援をしています。
 日本は高齢化社会になり、出産率が低下しているなかで、これからも更に外国籍の方の受け入れが必要になってきます。言葉の壁や文化、生活習慣などが違うけれども、一日も早く日本社会になじむことができ、お互いの文化や生活習慣を尊敬しあい、理解しあうことのできるような架け橋になるのは、私の役目であり「仕事」だと思います。
 特に昔と違って今の外国人は、出稼ぎで来て、お金を貯めて帰国するのではなく、日本に永住する家族がとても増えています。良い環境づくりのために、越前市はさらなる多文化共生をめざしていく必要があると思います。

5. おわりに

 何人かに、「日本に帰化し、日本人になれば色々なことができるよ」と言われました。しかし、帰化しても外国人の顔をしているから、何度も国籍を聞かれたり、日本人と言っても信用されないだろうと私は思います。日本国籍を持ったからといっても、私の人間性は変わるわけではないし、私の国籍に関係なしにひとりの人間としてみてほしいです。
 このような状況の中で、1999年に越前市役所の正規職員採用の国籍要件が撤廃されたときは、とても嬉しかったです。私だけではなく、いろんな外国籍の方が日本のために頑張っており、そういった方がたくさんいるのを私は知っています。特に、日本生まれの日本育ちの外国籍の方に、私が越前市正規職員になったことで、越前市を見本として、色々な職の国籍要件が撤廃されてほしいと思います。また、子ども達の夢を国籍で壊さないでほしいと強く願います。越前市正規職員になったことで、仕事はもちろん更に増えました。責任も重くなりました。でも、労働条件も良くなりました
 日本に来日してから27年間が過ぎました。振り返ると、当初は「ありがとう」と「さよなら」の日本語しか言えなかった私が、ここまで歩んでこられたのは夢をみているようです。ここまでの自分があるのは、家族、友人、越前市職員の仲間と市民の方々の応援と支えがあったからこそです。越前市の外国籍市民と日本国籍市民がお互いの文化や生活習慣の違いを認め合う架け橋となり、より良く皆が平和で暮らせるようにするのが私の役目です。大変だけれども、今までいろんな壁を乗り越えてきました。これからも色々な壁を越えないといけないけれど、諦めずに頑張っていきたいです。

私の採用形態が変わった時期外国人人口
平成3年6月来日の頃越前市(当時武生市) 456人
平成10年10月臨時職員の採用1,726人
平成12年10月嘱託職員の採用変更2,725人
平成28年4月正規職員の採用3,171人
 越前市での採用形態が変わった時期における外国人人口の変化。
 越前市:日本人人口79,031人、外国籍市民4,011人、総人口に占める割合は5%(ブラジル国籍2,951人)
(平成30年4月1日現在)