【自主レポート】

第37回土佐自治研集会
第12分科会 新しい公共のあり方「住民協働」理想と現実

 文化財保存を取り巻く環境は厳しくなっており、これまでの、文化財所有者や、技術者、国、各府県・市自治体だけでは十分な対応を行うことが困難な状況となっている。これからは文化財の周辺住民に理解を求め、共有しながら、町づくりの一環になるような文化活動として取り組むことが必要になっている。国指定重要無形民俗文化財「嵯峨大念佛狂言」の狂言堂保存修復工事を例に、住民と一体となった保存活動のあり方を考える。



地域の伝統芸能への支援
―― 京都市右京区嵯峨清涼寺内
狂言堂保存修復工事の事例 ――

京都府本部/京都市埋蔵文化財研究所職員労働組合 加納 敬二

1. はじめに

■嵯峨・清凉寺山門(南から)

 様々な社会環境の変化によって、文化財保存を取り巻く環境は厳しくなっており、これまで文化財の保存に取り組んできた主な関係主体(文化財所有者、技術者・材料供給者、国、各府県・市自治体等)だけでは十分な対応を行うことが困難な状況となっている。これからは文化財の周辺地域に居住する住民に理解を求め、ともに共有しながら町づくりの一環になるような文化活動として取り組むことが文化財の保存につながっていくのだろう。
 国指定重要無形民俗文化財「嵯峨大念佛狂言(以下嵯峨狂言)」が行われる、清凉寺境内の狂言堂保存修復工事を通して、私自らが関わっている嵯峨狂言を支える保存会の活動を事例に伝統芸能の保存活動を紹介する。

2. 嵯峨大念佛狂言について

■狂言堂(修復工事前 北から)
 京都の伝統芸能には「京の三大念佛狂言」と称せられる狂言がある。壬生寺(宝幢三昧院、壬生地蔵堂、中京区壬生梛ノ宮町)で行われる壬生大念佛狂言、引接寺(千本閻魔堂、京都市上京区閻魔前町)の千本ゑんま堂狂言、そして嵯峨・清凉寺(釈迦堂、京都市右京区嵯峨)の嵯峨大念佛狂言(以下、嵯峨狂言)である。いずれも舞台芸能系であり、融通大念佛会にともなった乱行念仏が芸能化したもので、仮面をつけた無言劇である(ゑんま堂狂言は有言)。嵯峨狂言の創始者は円覚十万上人道御である。十万上人は鎌倉時代の中頃には京都市右京区花園の法金剛院を本拠として大念佛会を千本、壬生や嵯峨に広めていった。したがって、この狂言は単に娯楽のための演劇ではなく大念佛の功徳により、あの世では地獄の責苦をまぬがれ、現世では病気や危難をまぬがれるという、唱導の目的をもちながら、庶民が楽しめるものであった。また各狂言は念佛講と呼ばれた集団により演じられていた。本来は葬儀と祖霊祭祀にかかわる講集団で、無常講、鉦講、尼講などともよばれ、大念佛・六歳念佛や念佛踊りも演ずる。いずれも村における相互扶助的な信仰共同体であった。この共同体(講)は、聖により鎌倉時代には奈良や京都に普及していく。大念佛狂言や六歳念佛の広がりも彼らによるものだと考えられる。
 嵯峨狂言は嵯峨釈迦堂(清凉寺)の大念佛会にともなうパントマイムの宗教劇である。清凉寺は大覚寺の西、二尊院の東にある浄土宗の大寺で、五台山と号し、周辺地域の住民からは嵯峨の釈迦堂と呼ばれている。本来は華厳宗の寺院で平安時代前期に創建され、鎌倉時代には浄土信仰の広がりで天台・真言・念佛宗を兼ねた寺となり、室町時代には融通念佛の道場に発展した。狂言は鎌倉時代末に念仏者の活動による大念佛会を背景に、嵯峨の地に根付いたと考えられている。当時、釈迦堂に集まる人々は念佛を合唱し、一体感を感じるとともに、念佛の功徳を融通しあったものと思われる。この結縁者の「ナンマイダブツ」の大合唱のなかで演じられる狂言は、台詞があっても聞こえないために、無言になったと考えられ、決してフランス流のパントマイムの真似ではなく、またこの大念佛狂言には踊りがあったことも推測でき、大念佛会は詠唱と踊りと狂言で構成されていたとみられる。
 嵯峨狂言の持ち味は、土の匂いがただよう、おおらかな味わいがする土着性である。大念佛狂言そのものがもつ魅力は、演者が着ける面と一定の約束ごとでの動きによる形式美のすばらしさといえる。そのことは念佛芸能がいかに多種多様な日本の芸能の母胎になっていったのかということにも繋がる。念仏は発祥当初から日本では音楽・舞踊・演劇といった芸能的色彩が濃い宗教儀礼であった。その後、変遷を経て中世以降の多くの芸能を生み、日本の民俗芸能の源流ともなった。そのことは念仏が民衆の奥深くに在る祖霊観念と結びつき、また浄土教系、禅宗、真言宗などの諸宗の布教が念仏を媒介にしていたためであろうとも言われている。演劇的な念仏狂言は、近世社会になって勧進聖の活動範囲が狭まり、他の世俗的な娯楽が多くなり民衆の関心が薄らいでくると壬生・千本、嵯峨などに痕跡をとどめるだけになった。

3. 嵯峨狂言を支える保存会

■秋季サヨナラ公演の一場面(北から)
 現在、嵯峨狂言は嵯峨大念佛狂言保存会という地域を含む有志による任意団体で行われている。本来、中世から念仏講と呼ばれた村における相互扶助的な共同体組織が担い、寺院と一体化して宗教行事の一環で狂言が演じられてきた。しかし第二次世界大戦後、社会の変化に伴い、1963年(昭和38年)には念仏講の後継者も続かなくなり、また、資金面などの経済的理由により狂言も中絶状態となった。しかし12年、後古典芸能の見直しがブームとなった1975年(昭和50年)、嵯峨狂言復活の機運が地域で高まり、地元の古老の熱い想いにより復活し、念仏講に代わり「嵯峨大念佛狂言保存会(以下、保存会)」が結成された。1985年(昭和60年)には、その独特のユーモラスなしぐさや歴史的価値が認められて、国の重要民俗無形文化財に指定された。京都府では壬生狂言や祇園祭山鉾巡行などに続き、国の重要文化遺産として5件目となった。以来、中・高校生を含む約30人の会員で、春・秋季公演などの定期公開を清凉寺境内の狂言堂で行い、またホテルや学校、遠くは海外でのイベント(近年では韓国の劇場)や大阪の国立文楽劇場などでの出張公演も行っている。また、最近では小学校への出前授業や、狂言堂での体験学習、そして20年前には子供狂言クラブを設け、右京区中心の小学生対象に行っており、嵯峨狂言の啓蒙・普及の活動にもつながり、存続への大きな原動力となっている。
 ところが、「愛宕詣り」「土蜘蛛」などの25種の演目に用いる衣装や道具類は300点を超えるが、すでに古く、中には傷みがひどく、これら衣装類などの新調、保管の費用は大きな負担となっている。保存会の存続に欠かせない経済的支援は、地元だけでなく、民間団体の援助や、1983年(昭和58年)に市の民俗文化財に指定されてからは補助金が支給されてきているが、近年は不況により、援助や市の補助金は財政難により減額の一途をたどっている。大阪市では橋本市長就任後、大阪フィルハーモニーや大阪・文楽劇場などへの補助金の停止や大幅減額にみられるように、芸術・文化への切り捨てが行われ、危機的状況が近隣から押し寄せてきている。

4. 狂言堂の改修工事

■2016年11月15日「京都新聞」
■本堂東横の廊下で定期公演
 狂言堂は、室町時代には建てられていたと伝わるが、その後、江戸時代と明治時代末期の二度、境内で移築され、今に至る。現在の狂言堂は1901年(明治34年)に現在地に移築された。一階は演者の支度部屋、二階が舞台になっており、観客は外側から見上げる構造になっているのが特徴。狂言堂は年を経て柱が傾き傷みが激しくなり、屋根瓦もその影響でずれてきているのが現状であった。その現状を京都府・市文化財保護課に訴えたところ、建物調査が行われることになった。調査の結果、瓦屋根の老朽化や損傷が著しいことから、建物倒壊の恐れが懸念され、緊急の修復が必要となった。しかし狂言堂の建物は文化財には指定されておらず、修復費用は建物所有者自らの負担すなわち寺側の負担となる。そこで負担を少しでも軽くするため、嵯峨狂言は国の重要無形文化財に指定されていることから、その芸能が行われる舞台が稽古や公演中に倒壊する危険性が高く、修復の緊急性があるという理由で、文化庁にその旨を府・市から要望してもらい、狂言堂の状況を実見していただいた。その結果、2016年(平成28年)11月1日付で、2018年(平成30年)9月までの約2年近くをかけて、嵯峨狂言堂修復工事の着工許可が文化庁から出された。修復工事にあたり、改修総費用約7,200万円のうち、文化庁から半額の補助金が出されることになった。残り半額は寺側と寄付金で賄うことになった。このため保存会では出張公演での謝礼や、公演時に一口500円の寄付金で嵯峨狂言のポストカード1枚を進呈するキャンペーンなどの募金活動も始めている。さらに今後、インターネットで資金を募るクラウドファンディングも検討している。
 嵯峨狂言は1963年(昭和38年)に後継者不足などにより、一度、途絶えた。しかし地元の熱心な住民たちが保存会を結成し、1975年に復活させた。それ以来、狂言堂で定期公演が続けられてきた。今回の修復工事では、2016年11月から約2年間、舞台が使えないことで、公演の中止も検討されたが「寺の伝統的な年中行事として毎回、楽しみに訪れる観客もいる。改修が終われば数十年も使える狂言堂になる。公演を今後も続け、次世代にしっかり引き継いでもらいたい」との住職の力強い後押しもあり、寺の協力を得て、本堂の東回廊で定期公演を続けることが決められた。2016年10月23日の狂言堂での秋季公演は、サヨナラ公演として行われた。改修前の最後の狂言堂を目に焼き付けようと、地域住民や多くの市民が訪れた。清凉寺の鵜飼光昌住職は「狂言を次世代に繋ぐスタートラインにようやく立てた。工期は長いが、新しくなった狂言堂を地域の人達をはじめ、国内・外の観光客の人々に見てほしい」と声を上げる。


5. 保存修復工事見学会と親子壁塗り体験

 2017年5月14日、狂言堂の修復工事が進むなかで、地元や当寺関係者を対象とした見学会を初めて行った。工事にあたる施工業者の担当者から「狂言堂の施工は単なる損箇所を現代工法で修復するのではなく、伝統工法で柱の腐った部分を取り除き、金輪継(きんわつぎ)と呼ばれる手法で新しい木を組み合わせ修復。また舞台の床全て総ヒノキに張り替え、狂言堂入口を東側から南側にするなど、江戸時代の様式に戻す」と説明が行われた。見学会後、保存会のメンバー自らも、ひび割れたり欠けたりした鬼瓦を樹脂で補修するなど、費用の節約にも努めている。「どんな形でも、修復作業に関われば狂言堂に愛着がわき、大切に思う気持ちが強くなるものである」と保存会のメンバーは語る。
 2017年8月10日には、見学会と親子壁塗り体験を行った。講師は現場で施工中の左官職人さん。
■改修工事が進む狂言堂 ■地元住民への見学会の様子
■親子土壁塗り体験の様子
 「漆喰を板の上に載せコテを使って捏ねてすくって壁に塗っていく」と職人さんがテンポ良く塗っていく見本をみせながら説明の後、参加者が体験していった。職人さんにコテの使い方などを教えてもらいながら、思い思いに壁塗りが行われた。このような技術は、文化財を残していくためには欠かせない伝統の技術である。日本の文化財保護法では、文化財そのもののみならず、技術や扱う道具までも保護の対象となる。さらに屋根瓦葺きや木組みを中心とする木工技術、あらゆる調査と研究により再現される装飾の技や保存技術などは、先人の技術が必要となる。
 「現在、こうした技術は後継者不足の問題に直面しており、まずは技術の重要性を広く一般の方々に認知してもらうため伝統技術の公開、さらに未来を担う子どもたちにも体験してもらい、重要性を知ってもらう」とこのようなワークショップの必要性を左官職人さんは訴える。

6. まとめ

 京都の伝統芸能にかかわる立場から、地域活動として、芸能と建物を今後、どのように存続、守っていくか、課題を挙げながらまとめにかえたい。
 宗教行事に伴う伝統芸能である嵯峨狂言自体は、先述したとおり、日常的なものとはいえない。近年は小学校などでの総合学習で取りあげられ、伝統芸能の地域体験学習としても注目され始めているが、教材対象としては宗教性や非日常性などの関わりから難点もある。また1975年以降は保存会が結成され、地域のボランティア活動としての自主的な取り組みの側面が強くなっている。そのため清凉寺の宗教行事に伴い、狂言堂で行う自主公開が多く、出費も増大している。近年は、全国的に伝統芸能関係の団体や地域の保存会は、地域の個別状況は異なるにせよ、NPOの結成や法人化の方向により、伝統芸能の持・管理をめざすところが増加している。また文化財保護法の改正が6月通常国会で通過しており、文化財の観光化を進めるため各自治体が文化財のリストアップを行い、急速に予算化が進められようとしている。しかし嵯峨狂言の場合、一度、中絶した嵯峨狂言を43年前に地域の住民が中心になり保存会を結成し、復活された想いを重く受け止めるなら、保存会は継承しながら活動内容、とくに公演の取り組みを改善していく。具体的には、公演の取り組みについては自主公開だけでなく、依頼公演をこれまで以上に行い、さらに地元地域を中心に、さらに広範に人々の理解と共感が得られるように、一方的に「拝見してもらう芸能」から、参加イベント型の「楽しんでもらう芸能」へと転換しながら守り支えていくことが課題と考えられる。

■2018年3月26日「京都新聞」朝刊 ■1975年(昭和50年)「京都新聞」復活記事



【嵯峨大念佛狂言略年表】  
弘安二年(1279)3月 嵯峨大念佛狂言始行 「融通念仏縁起」清凉寺蔵
「日本史年表 河出書房」
天文年間(1532~1555) 女面「深井」(「天文十八年」刻年銘)清凉寺蔵
昭和11年(1936)3月 演目帳(現存)
昭和38年(1963)3月15日 中断
昭和50年(1975)10月 復活に向け嵯峨大念佛狂言保存会結成
昭和51年(1976)10月 近畿・東海・北陸民俗芸能大会で「土蜘蛛」公演
三重県津市文化会館(復活後、始めての出張公演)
        12月 記録作成等の措置を講ずべき国の無形民俗文化財に選択される
第10回全国民俗芸能大会で「愛宕詣」「餓鬼角力」公演
昭和56年(1981)1月 東京日本青年会館
        5月 大阪・大念仏寺「餓鬼角力」公演
昭和57年(1982)4月 「釈迦如来信仰と清凉寺」展 釈迦如来公演 京都国立博物館
昭和58年(1983)6月 京都市無形民俗文化財に指定される
第44回民俗芸能大会 「釈迦如来」「羅生門」公演
昭和59年(1984)3月 東京国立劇場
昭和60年(1985)12月 国の重要無形文化財に答申される
昭和61年(1986)1月 重要無形文化財国指定(253号)
平成16年(2004)11月 上方芸能特選会 「愛宕詣」「百万」公演
文化庁主催  大阪国立文楽劇場

【参考文献】
・林屋辰三郎「庶民生活と芸能」『岩波講座 日本歴史12近世4』岩波書店、1980年。
・植木行宣「Ⅳ宗教と芸術の新風 3庶民の芸能」『京都の歴史2』学芸書林、1976年。
・植木行宣「Ⅳ花の田舎 4祭りと芸能」『京都の歴史6』学芸書林、1976年。
・国史大事典編集委員会『国史大事典』吉川弘文館、1970年。
・『嵯峨狂言』嵯峨大念仏狂言保存会、1997年。
・小泉順邦『嵯峨大念仏狂言』かもがわ出版、1991年。