第1特別分科会「基礎的自治体のあり方を問う」
― 基本的考え方 ―

中央大学法学部教授 辻 山 幸 宣 

1. 第1特別分科会の目的

 周知のように2000年4月から地方分権改革の第一着手として地方分権一括法が施行された。そこでは、国・自治体関係の改革が中心課題とされ、機関委任事務制度の廃止による国・自治体間の「対等・協力関係」の実現が企図された。事務委任とこれにともなう通達行政の廃止・自治解釈権の確立、そして国・地方係争処理委員会による両者の対立の調整など国と地方は法的に対等な主体となった。こうして自治体はいま、自己の判断・決定と責任のもとに「地域の行政」を担任する責務を負うこととなった。いわば国の指導と統制のもとで委任事務を処理することに多くのエネルギーを割かざるをえなかった従来の自治体像を捨てて、「責任ある自治体」へと変わっていくことが求められたのである。
 「責任ある自治体」といえば、かつて第3次行革審において「豊かなくらし部会」(細川護煕部会長)報告で使われたことがある。そこでは、市町村を500程度にまで統合して行財政能力を向上させることをもって「責任ある自治体」を実現しようとしたのである。また、第24次地方制度調査会は小規模町村の合併を促進するものとし、合併困難な町村に対しては都道府県の代行的措置(町村の事務を都道府県が代わって行う)の検討を提言したのであった。こうして、ほぼ同じ時期にふたつの方向性で市町村の現状を打開しようとする案が提出されていたことを想起したい。すなわち、第一に規模の拡大によって「責任ある自治体」を創出し、その担任する事務領域の拡大に対応できるようにするという立場である。第二は、事務の分担関係を見直して小規模町村に過重な事務はむしろ他のレベルの行政主体に委ねることでその負担を軽くするという立場である。第二の立場は、これまで正面から取り上げられることはなかったが、地方制度調査会答申が合併困難な場合の措置として検討したものである。
 このふたつの考え方が背景にしている「自治体論」(市町村とはなにか)の違いに着目することが重要である。私たちがいま眼前にしている基礎的自治体とはいったい如何なるものとして存在しているのであろうか。また、いかなるものとして捉えるべきなのか。合併の是非を論ずる前提として、このことを討論してみたいというのがこの分科会の目的ということができよう。

 

2. 背景にある情勢

 1999年8月、自治省は「市町村合併の推進に関する指針について」と題する文書を都道府県に通達した。そのちょうど1ヵ月前には地方分権一括法が成立しており、この中に市町村合併特例法の改正が含まれていた。というのは、地方分権推進委員会の勧告およびそれを受けた閣議決定において地方分権推進のためには市町村合併の促進が必要との認識が示されていたのである。いわば、市町村合併は地方分権の文脈において政府の合意事項とされたということなのである。ところで、地方分権推進委員会がそのような勧告を行うことになった背景には政治の介入があったといわれる。当時の政権は、総裁選の基本政策に市町村合併の促進を掲げた小渕内閣であり、もっとも急進的な合併論を主張する小沢一郎を党首とする自由党および公明と自自公路線をとっていた。首相の諮問機関である経済戦略会議がその報告書で「3,000余ある市町村を1,000程度にまで統合すること」を書き込んだのも、そうした政治構図のもとでのことであった。
 そこで政府はまず市町村合併特例法の改正を行い、交付税合算特例の5年から10年への延長、合併特例債の創設、市町村議会議員年金の特例(在職12年に満たない議員の年金受給資格)、地域審議会の設置など、合併へのインセンティブを高める措置を制度化した。加えて自治省は、行政局に市町村合併研究会(森田朗座長)を設置して市町村自治体の現状分析および合併促進の政策的支援措置の検討を行い、これをもとに先の事務次官通達を発したのである。この通達の特徴は都道府県に合併促進の大きな役割を期待している点にある。第一に、時期を区切って(2000年)市町村の合併パターンの作成を指示した。第二に、合併勧告を含む市町村への指導・啓発を都道府県に求めた。
 各都道府県は当初のとまどいにも拘わらず、おおむね合併パターンの作成に取り組んでいる。自治省の希望するペースよりやや遅れているものの、本年度中にはほとんどの都道府県で作業を終えることになりそうである。市町村サイドは、こうした合併の進め方に警戒感をもつところが少なくないが、他方では、埼玉県の浦和・大宮・与野の3市合併や東京都の田無・保谷の両市合併など、積極的に進める意向の自治体も存する。だが、多くの市町村は今後いかに対応すべきかについて苦慮しているといったところであろう。

 

3. 基礎的自治体の変遷

 ここで、市町村という基礎的自治体が辿ってきた経過を概観しておこう。
 人々の共同社会としての「村」は、道普請や災害復旧など個々人では解決不能な地域共同課題を「共同」して処理すると同時に、冠婚葬祭や農作業などにおける互助の機能をもっていた。明治維新以降もこの「村」はそのままに据え置かれ、明治政府はこれとは別に戸籍事務を行う「大区・小区」の制度を敷いて区長などの役場職員を任命した。明治11年には郡区町村編制法を制定して地方制度の整備を図ったが、このときにも「地域社会独立ノ区画」たる町村は「勝手タルヘシ」として放任されていたのである。当時の町村数は、76,000ほどであった。
 明治21年に制定された市制町村制はこうした旧来の町村に決定的な変更を加えた。すなわち、市町村に議会をおいて自治権を与えると同時に、公共事務および委任された国政事務・府県事務の実施の責任をもたせたのである。このように国家統治の末端を担わせるために従来の「村」を統合し、新しく「地方公共団体」として再編成される必要があった。明治政府は合併によって規模を拡大した所から順に市制町村制を適用するという方針を立て、およそ20年をかけて全国の「村」を「地方公共団体」化していった。この時点で市町村数は約15,000になった。戦後地方自治は、ふたたび市町村の規模拡大をその出発点とした。すなわち神戸勧告の提唱する分権化(行政事務の再配分)のためには市町村合併が不可欠とされたのである。町村合併特例法が制定され、中央政府の強力な指導のもとに町村の「行財政能力の向上」を図るべく合併が推進された。
 そしていま、また市町村合併が推し進められようとしている。先に見た市町村合併研究会報告書は、合併を要請する潮流としてこれまでの広域的対応の必要性、地方分権の推進に加えて、人口の少子・高齢化の進展、国・地方の財政の危機的状況を掲げ、これに「現在の行政体制で対応できるかどうか」を考える必要があるとしている。要するに、この国の政府は市町村を地域行政の担当団体とし、その担当能力にかげりが生じる事態になったら規模を拡大してこれに応えることを繰り返してきたのである。そしてそれは、地域の「行政主体」にとっては当然ともいえる対応策であった。

 

4. 市町村をどう考えるか

 そこで、分科会での議論のためにいくつかの論点を示しておこう。
 第一に、最初に述べたように、市町村という自治体をどのようなものとして捉えるかという問題である。これが入り口でしかも出口のような気がする。自治体を人々の生活上での共同社会を基礎として構成されていると考えると、そこでの最大関心事はどのように住むかの決定を住民自身が決定し、それを受け入れることを合意することにある。したがって行政の役割は自ずと共同性の内容によって異なることになる。そうではなく、自治体をこの国がめざす政策水準をあまねく人々に保障するための地域「行政主体」として捉えるならば、その効率的・継続的な供給能力の維持が関心事となる。ここでは、行政の役割はどこにいても同じであることが求められる。この国の市町村は一貫して後者の立場を取りながらその機能の維持のために規模の拡大を宿命としてきた。
 このことから市町村はその規模能力に関わらず一律の事務を配分されてきた。また、都道府県と市町村の間の事務配分はつねに都道府県から市町村へという流れで議論されてきたが、逆に市町村から都道府県への事務委譲が検討されてよいのではないか。これが第二の論点である。規模の拡大による行政能力の維持は、みたび合併が不可欠との議論を招くであろう。
 第三は、広域連合など広域行政機構での事務処理と市町村合併の関係である。たしかに行政需要には広域対応の必要な分野が増えてきた。単に経費の効率化をもとめての共同処理というだけでなく、ダイオキシン対策や介護保険など単独ではその目的を達成できない領域も新たにでてきている。