TOPページ


東 北 の 被 差 別 部 落

東日本部落解放研究所 藤沢 靖介


1. 部落の存在                

 調査で把握された被差別部落数・戸数・人口
 

1992 作成(藤沢)

1869~70年
(統計集誌M,15)
福 島 県
2,061人
非人763
山 形 県
322戸1,850人
(*1)
秋 田 県
117戸534人
(*2)
青 森 県
601人
非人20
宮 城 県
521人
非人1,119
岩 手 県
282人
非人350
1907年
(内務省)
7地区
187戸1,236人
6地区
100戸
       
1921年
(内務省)
6地区
184・1,240
4地区
208・1,000
記載なし 1地区
37・286
記載なし 同左
1929~30
(三好伊平次)
6(+?) 7(県?)
270・1,397
14地区
110戸
―― ―― ――
1935年
中央融和事業協会
8地区
173・998
記載なし 1地区
16・105
記載なし 同左 同左
1967年(?)
(野本武一)
10地区
249戸以上
6地区
292戸
3地区
49戸
1+α 1+α 1地区
現在確認数
(未確認*3)
17
(数十)
10
(3)

(10)

(9)

(4)

(5)
 *1  『藩制一覧表』による穢多非人の総数。穢多のみでは195戸1,133人。
 *2  『藩制一覧表』による。高橋梵仙氏によれば、明治3年9月の県の調査で、穢多・番主・非人の総計が944人とされている。
 *3  (未確認)の数字は、史料あるいは近在の関係者の情報で、かつて存在したことが明らかだか、近年の「確認」がまだなされていない地区の数である。
・福島 ― およそ30とも 他県 ― 数地区から10数地区の存在は知られる
・問題点 ― 明治初年の数字との乖離 ―「番太」呼ばれた人々とその存在形態は?

 

2. 歴 史

(1) 城下町に比較的大きな部落
  会津若松、米沢、鶴岡・酒田、弘前、仙台、秋田、角館、盛岡、(白河 平 福島 会津地方)
   (大山 上の山)
   ● 城下町と街道筋というシェーマで良いか?
(2) 戦国期までさかのぼる部落
 ① 会津I町 ― 100戸を超す。
   ● 「芦名盛氏の時代に黒川城の近くにあった」→ 現在地に移転
   ● 蒲生氏郷に従って、近江から来た、という伝承あり(否定する声もある)。
   ● 浅草、木下川など東京東部の被差別部落に
 ② 米沢市 ― 市のかっての郊外 現在は100戸を超す
   ● 紫屋又三郎 ― 上杉氏に従って来たと語られている。
      越後・春日山城・砂山=勘兵衛町 → 高田(上越市)・太鼓屋=紫勘兵衛
 ③ 秋田  久保田城下に移動したとの記述(『梅津政景日記』)
 ④ 弘前  「穢多乞食」乞食頭・追掛丁助 幕末に、南部藩や秋田藩まで密偵を
(3) 「賤民」の仕事・役割と、様々な賤民
 ① 部落の代表的仕事・役割は?
   農業、斃牛馬処理と皮革など、警吏・見回り
   番役(水番、山番)草履作り 芸能 その他
   ● 東北の部落ではどうだったか
    会津 ― 皮革業  秋田 ― 皮革や食肉  山形でも ―
    農業にはどの程度かかわれたか
     「昭和4年6月」の山形県の調査によれば、270戸の内
     「農業 7」「竹細工職 67」「日雇業 39」「皮細工職 34」
      下駄行商 19 草履製造業 9 鼻緒爪掛製造販売 8
 ② 竹細工
 ③ 芸能  秋田山形の部落  萬歳  春田打 ― 山形
         芝居の興行権
 ④ 独自の「賤民」、独自の名称
    盛岡・八戸の「点屋=典屋」(点屋猿曳とも) 春田打ち 正月に登城
    「ジウ」=非人の呼称 長吏の配下 「癩者」 三春藩 福島藩 仙台藩も
 ⑤ 「集落=小字の入り口、出口に番人→番太」(岩崎) その実態や身分的位置は?
   ● 独自性  ● 共通性(こうした分野を「賤民」が担う)
     酒田の非人部落

 

3. 差別の実態

(1) 各地で
 ① 米沢市の部落で
   ● 病院での差別体験
   ● 住宅(後述)への差別落書き「氏4四」
 ② 鶴岡の郊外、酒田で
   ● 「結婚でもめる → 3年たってやっと寺墓地に墓参に」
   ● 「若者が地元に帰ってこない」「かえって来ないほうがよい」
           部落民宣言!
   ● 「報恩講の時、部落の人は前日の晩に別に集まっていた。お膳も、部落には別の赤い膳をだしていた(一般は黒)。1960年まで(先代の住職の死ぬまで)そうだった。」
   ● 「結婚話を寺が紹介しても、部落だと一般からほとんど断られる、市内の人はこの地区の事は知っているから……」
 ② 東京に居る知人の被差別体験(磐城)
   ● 学校の帰路で待ち伏せ
   ● 冤罪の体験(部落外で孤立して)
 ③ 部落問題の認識度
   ● 「知らない」という人。社会運動のリーダーも
   ● 東京にきて、部落問題を知らない人がいるのにびっくりした(秋田出身)
   ● 「知らないのは兄ちゃんだけだ」といわれた(鶴岡出身)
 ④ 「部落呼称変更問題」(別紙参照)1989~91(紅花国体1992の準備過程)
    比較的大きな部落の周辺町村で

 

4. 解放への取り組み

(1) 戦前の運動
    平野小剣(福島出身の栃木重吉)  東京で印刷工  アナキスト?
    水平社宣言に手を加えた
(2) 先輩たちの取り組み
 ① 米沢での住宅闘争  不十分な公営住宅
 ② 選挙闘争  松本治一郎の写真(米沢)  鶴岡の部落
          82 関東ブロックで行動隊 (松本英一・参議院全国区)
 ③ 「部落呼称変更問題」1989~91
 ④ 解放同盟福島県準備会  関東ブロック研究集会
(3) 今後

(資料) 「東北地方の被差別部落」より(『解放研究』五号、東日本部落解放研究所92.1)

山形県「べにばな国体」を機にする「部落」呼称変更の示すもの

 1992年に山形県で国民体育大会(いわゆるべにばな国体)が開催される。それを機に、「○○部落」という呼称をやめようという動きが昨年から表面化してきた。
 関東以北では一般に、地域や集落を指して、○○部落という。山形でも「部落運動会」「部落長」「部落公民館」等と普通に使われ、同時に行政用語にもなっていた(1)。
 ところが昨年2月遊佐町の「部落長全体会議」(町行政主催、108地区部落長が参加)で2人の部落長から「『部落』は場所によっては嫌われている言葉。できれば使わない方がよい」と提起されたのに始まり、被差別部落と混同されないようにと、「部落」の呼称を町の条例・規則・要綱等から削ろうとしたのである。また飯豊町では2度にわたって広報の特集にとりあげて呼称変更の推進を図ってきた。そしてこの様な動きは、八幡町、平田町、松山町、櫛引町、温海町などにも広がった。最近の情報では、酒田市等でも、そうした動きがあるという。
 この呼称変更の動機は次のような発言に示されている。
 「『部落』という表現で県外の人に悪いイメージを持たれても困る」(土門遊佐町助役)。
 「まぎらわしいし、混同されては困る」「全国から選手が来るが、嫌な気分になってもらっても困る、嫌な思いをするなら変えようとなった」(菅原遊佐町町長)。
 「地区の人たちが関西方面に旅行したおり、仲間同志の会話に『部落』という言葉が何回か出たんだそうです。そうすると、近くにいた人がいやな顔をして立ち去ったという話でした。そこで、始めて『部落』というもう1つの意味を知ったそうです」、「社会に、痛みや不快感を与える言葉であれば、長い歴史があるといえども、改称すべきではないか」(飯豊町広報より)。
 「集落を『部落』と呼ぶのは、他県から選手を迎え入れる際、悪い印象を与えるのではないか」(県議会委員会での質問)。
 「部落という呼びかたが差別と取られないようにしなければならない、国体にむけ県民が一生懸命がんばっているのに、『部落』という名称で印象が悪くなっては困る」(県国体局長のコメント)(2)。
 一言でいえば、被差別部落とまちがわれるのは、大変いやな事であり、全国の国体参加者も、被差別部落とまぎらわしいところにくるのは不快に違いない、と言うのである。これらの発言をする人々や、これに呼応して呼称変更を進めた人々の関心事は、被差別部落の人々がこのように差別的に扱われることなのではなく、「ここはそうした地域ではないから安心してほしい」、「自分達はそうした卑しい存在とは縁もゆかりもない」と明らかにすることなのである。部落は不快で嫌うべき存在だということが、彼らの中では当然のごとく前提されている。そのため、彼らは、国体を前に“これは一大事”と、「『部落』という言葉は地域に溶け込んでいる表現。住民は差別用語とは意識していない。むしろ温かみがある」というような当たり前の反対意見さえ押し切って、極めて性急にこの呼称変更を行おうとしたのである。
 これまで、○○部落という表現を、被差別部落の人も一般の人も、何ら差別とは受け取らなかった。そうした文化や伝統を投げ捨てて、「中央」に迎合していく。この卑屈な迎合の中で、東北の被差別部落に対する差別が一層強く刻印されていっているのだ(この事件について詳しくは「差別を咲かせるべにばな国体」岩崎勝巳、ヒューマンライツ39号を参照されたい。)。
 このような動機からする「部落」呼称変更が、部落差別であることは、明らかだが、こうした差別意識はどこから生まれたのだろうか。関西で「部落」と呼ばれる存在に対する激しい差別的扱いに出会ったという、いわば外在的な経験のせいだろうか。
 「部落」という言葉が被差別部落を指すというのは、確かに外的な経験だろうが、被差別部落とそれに対する差別意識は、山形県の内在的な問題である。「部落」呼称変更をおこなおうとしている町村は、いずれも酒田、米沢、鶴岡、のいずれかに隣接しているのだが、これらの市には後述するように数十戸以上の部落があり、複数の地区がある。また、一部の町は新潟県に隣接していて、神林村や村上市など新潟県北の部落と生活圏としても近い。つまり住民も行政も部落差別の存在を知っており、日常的にも部落が意識される地域なのである。
 むしろ山形県や東北の特徴は、差別を自覚的に問題にしていないこと、つまり差別的なことがためらいなくいえるところにあるといえる。10年ほど前になるが、駅などで売られている観光案内書で、被差別部落の町名が差別的な呼び名とともに記載されていたことがあった。差別を克服する社会的な取り組みがあるところではあり得ないことが、ここでは起こっている。
 地方法務局はじめ行政当局が、呼称変更を良いこととして推進していたという、許すことの出来ない差別促進行為も明らかにされている。「部落」は消し去るべき存在、という誤った意識・認識を共有していたのだ。この責任は厳しく問われなければならないだろう。
 今回の差別事件は、東北に於ける差別の存在と共に、部落問題を真っ当に扱う土壌がきわめて弱いことを明らかにしたが、現状の克服のために我々は今後大きな努力を払わねばなるまい。



TOPページ