1. 石炭の街「大牟田」
1997年3月30日三池炭鉱は閉山した。最盛期には、全国出炭量の10%を超える年間出炭量657万トンもの石炭を掘りあげ、直轄従業員8千人を要した大企業は消え去ったのである。歴史的には炭層発見から528年、三井鉱山の経営になってから108年後の出来事であった。
もとより大牟田市は、石炭の採掘により急激な石炭化学コンビナート形成が行われた地域であり、第二次世界大戦後の復興期に大幅な人口の伸びがみられ、地域の経済もそれに伴って発展してきた。しかし、昭和30年代初期から石炭から石油へとのエネルギー革命と、海外輸入炭との格差競争から、国内の石炭産業は合理化を余儀なくされ、中小炭鉱の統廃合、下請け委託化・機械化等を国策も相まって進められたのである。伴って、労働運動も激しさを増し、昭和35年、炭労の反合理化闘争のピークであり、また、おりからの反安保闘争とともにたたかわれた「三池争議」が、国の介入により労働者にとっては不本意な結末を迎えてから、石炭産業の合理化は一層の拍車がかかった。
昭和38年から始まった国の石炭政策は5年ごとに答申され、段階的に生産構造の調整を示唆し、それによって結果的に各地の炭鉱が整理縮小、閉鎖される流れを辿った。大牟田市においては、最後の石炭政策と言われた1992年実施の「新しい石炭政策」答申時期から先行して、閉山ありきの対応として「あらかじめ対策」に奔走し、国や県、議会、地域の労働・経済団体含めて対応策協議が行われたため、閉山時においては「穏やかな閉山」とマスコミ報道にも言わしめたが、それは長い間の各石炭政策対応による積み重ねがもたらした「地域的な経験」の成せるわざと言えるだろう。
2. 閉山から3年と半年過ぎて
1996年に調査報告(別紙資料)があった石炭産業閉山後の影響については、以後の各項目のわたる調査が完了していないこともあり全貌は把握できないが、市税収入については平成10・11年度決算からすると、10年度3億6千万円、11年度3億1千万円の減収で当初予測よりも影響は少なく、人口についても住民基本台帳ベースで約半数の3,750人の減少でとどまっている。しかし、この2項目については閉山後の離職者対策の効果(後述)との連動が強く、実際の影響については離職者への特定給付が閉山後の2~3年間対応しているので、今年度以降の状況を注視しなくてはならないし、市の財政事情や地域経済事情については、全国的な不況の中に埋もれて、閉山影響が明確にできない状況でもある。
また、全国的なテーマパークブームと、あらかじめ対策としての観光地への転換を目指して建設された「ネイブルランド」も経営的に行き詰まり閉鎖され、債務処理の手続きが進んでいるが、総額30億程度の負担が行政に求められているので、大きな市財政への圧迫が必至となっている。
3. 三池闘争が残したもの
昭和30年代前半の石炭産業合理化に伴う労使紛争に対して、国もなんらかの対策を迫られ、労働者の生活安定のため措置を講じ始めた。とくに反安保闘争と一体となった三池闘争では、全面スト突入から282日の期間に全国の労働者30万人の動員を得て、結果的には指名解雇受け入れとの結末を向かえたが、その後の労働者の地位向上と民主的職場確立に大きな成果があったことは間違いない。企業論理だけで労働者を解雇するとの姿勢が大きく転換し、伴って国も各種の法的整備を行ってきている。失業保険(当時)・失業対策事業の充実、そして炭坑の合理化に対し国が積極的関与する産炭地振興臨時措置法が昭和36年に制定された。この法律は単に労働者の救済措置だけでなく、産炭地域全体に対してさまざまな施策を取り入れ、炭坑の縮小や閉山に伴う地域的な影響を緩和する内容を含んでいた。
失業対策事業については今年度で廃止の方向が決定しているが、一時期5千人を超える就労者が従事し、単に雇用の創出のみならず公共施設の整備に大きく貢献した。雇用保険制度上の措置としては、昭和34年制定の臨時措置法の趣旨にそって、炭鉱離職者の求職手帳制度が昭和38年度から創設されたのは、第1次石炭政策の答申によるものである。一般的に黒手帳・緑手帳と呼ばれるこの制度は、雇用保険の給付金に就職促進の手当等を加算して支給するもので、黒手帳で3年、緑手帳で2年の期間は受給できる。したがって前述した離職者の動向は、この支給期間が終わらないと明確にならない。
また、昭和36年11月に制定された産炭地振興臨時措置法に則り、産炭地への財政的支援制度拡充され、昭和42年には国の財政予算に石炭特別会計が創設された。支援措置は直近でも別紙資料に掲げるとおり多種多様であり、この制度があったことにより産炭地域の自治体は財政運上相当の恩恵を受けてきている。
いずれにしても、当然、経費が国から交付金や補助金として自治体へ支出されるわけで、他の地域とは国の対応に格差が生じるのだが、これらの制度の創設は三池闘争をピークとした石炭合理化闘争の成果と言えるのではないだろうか。真に労働者の血と涙の結晶が後世に残してくれた大いなる遺産であろう。
4. アサヒコーポレーションはいま
三池炭鉱閉山から1年後の1998年4月同じ筑後地域の久留米市にあるアサヒコーポレーションが2回の手形不渡りをだし事実上の倒産との衝撃が走った。全従業員2,150人、関連会社や下請けまでを含めると3,800人への影響を及ぼす、三池炭鉱の閉山による解雇者を越える規模である。突然の出来事で緊急な対応の必要性があったため、連合地協において県連合・アサヒ労組との協議を経て「アサヒ再建支援共闘会議」を発足させ、一時は破産の方向にあった会社の本社を東京から久留米に移転させ、福岡地裁に会社更生法の手続開始の申立を1年後の1999年4月に提出させ、即日、保全命令が出され保全管財人の選任に至った。その後、支援共闘会議が中心となり署名活動や行政へのはたらきかけを行うなか、同年7月福岡地裁が手続開始の決定を行い、再建への道のスタートをきっている。しかし、当初、同年7月に出される予定の更正計画案の提出が1年延長され、今年7月の予定であったが、さらに延長され来年に延びている。1998年11月段階でまとめられた債権総額が1,566億円で、その後も債権者との債権額確定作業が続いたものの、連合としても物販活動により支援を行っている商品の製造販売実績の状況を含め、さらに計画の検討がなされているものと思われる。
自治研2月号で指摘されていた久留米と大牟田の違いは、一言でいえば法的な規定があるかないかである。国策として石炭増産体生整備を急がせた責任を国がとっただけのことではなく、長い闘争の歴史が生み出したと言っても過言ではない。事実、最終段階の第8次石炭政策で解雇された人員は資料にもあるように3年間で閉山時の解雇者を超えていた。
しかし、地域においてのとらえ方はどちらも民間の企業であって、地域の社会経済に大きな影響を及ぼすことに変わりはない。アサヒコーポレーションの希望退職者768人の再就職率は50%にも至ってないと聞く。また、未払い退職金や社内預金も分割払いと不安が続いている。
5. 市職労と地域との関り
昭和35年の総労働体総資本のたたかいと言われた三池闘争によって、労働者間・市民間を二分するに深まった対立の構図を払拭するに、十数年を要したのではないだろうか。石炭政策が答申されるごとに人員の合理化が行われ、街の存亡の危機との思いがそれぞれの立場に芽生え、全市一丸となった取り組みの必要性が叫ばれるようになったためである。
このころ市職労は自治研運動の推進を強力に進めており、昭和48年(1973)のし尿紛争、反公害闘争と住民と一体になった運動展開を行い、そして、昭和50年(1975)には保守市長の反乱と呼ばれた「電気税訴訟」を起こすに至った。これは当時の特定企業に認められていた地方税法の特例措置は違憲だと提訴したもので、背景には地方財政の構造的矛盾としての3割自治により自治体の多くが財政危機状態にあり、大牟田市においても電気税として当然収入できるべきであった1億4千6百万円の国家賠償を求めたのである。結果的に控訴取下げでの収集となったが地方財政の実情に大きな一石を投じた。
そしてさらなる市民一丸となった取り組みのために「大牟田再開発市民会議」が発足し、市職労はオブザーバーであったが一団体として参加し、経済界・企業・地域団体との関係を進め現在は正会員となっている。また、これをきっかけとして、夏祭りの企画メンバーとして参加、また、青年会議所との共同開催であるガレージセールも10年目を迎える。さらに、昨年からは青年会議所へ執行委員2名を派遣するなど地域と一体での自治研活動の取り組みを行って来ている。今では「市職労」と言う呼び名が労働組合としてのみならず、まちづくりの組織として市民間に認識される状態である。
6. 市当局との関り
地域での市職労の存在が高まる以前から当局との関係は、労働運動と行政運営のメリハリをつけたうえで、真摯な論議を交わしてきた。結果的に公務員の定年制導入以前に退職協定を結び60歳での退職制度を確立し、コンピュータ導入についてはその必要性の検討を行う労使の運営委員会を市の規程上設置していることなどが顕著な事例である。
さらに、一昨年には労使の政策検討委員会の設置を行っている。これは行財政の運営に関して当局側は企画調整部長をトップとして各部次長の参加、組合側は副委員長、書記長と執行委員の構成で、市のプロジェクト事業や財政状況に関して議論を行う場であり、職員参加の最たるものと言えるのではないだろうか。慢性的赤字体質と言われる市財政を考えるとき、正確な情報交換を行い的確かつ敏速な対応をとらなければ、行政体で働く職員としての責任を果たせないのではないかとの思いが大きい。緊急財政対策としての経費削減運動を起こし、職員給与2年間3%ダウンの決断をした一旦には、まちの再生へ願いを込めている。
7. 地域活性化の灯は消えず
産炭地として存在してきた我がまち大牟田はいま大きな転換期を向かえた。市民生活は依然として好転せず、三井関連企業の採用も手控え状態で、地元では就職できないとの声が聞こえてくる。若者の市外流出により都市としては抜きん出た高齢化率24%との状況があり、生活保護率も全国平均の3倍を超えさらに増加傾向にある。国の制度的支援も平成13年11月には法律が失効し、財政的には厳しさが否応無しに増大することは必死である。地域の改造のため各種プロジェクトが軒並み列なっているが、なにが得策なのかは見極めが付けにくい状況のなか、模索しながらも「新しい大牟田」へのきっかけを掴むために、「市職労」としての責任を果たさなくてはならない。
地域に働く労働者として何をやるべきなのか? との問いかけで1988年設置された自治労地域活性化指定単組に大牟田市職労も指定を受け、各地との3年間の交流のなかで学んだことを、今なお追い求めている。自治研のテーマにもしばしば登場する「共生」とはなんなのか? 地域と共にとはなんなのか? 限りないテーマかもしれないが、行政の先端にいる我々が忘れてはならないことだろう。地域の人々が求めている事に対し、自治体労働者としての活動域は確かに変化しながらも存在している。おこがましくも地域においてのリーダーシップを存分に発揮することにより、やがて道は開けると確信する。今をさかのぼる40年前の「遺産」を次世代に引き継ぐために、どんなに長い道程になろうとも、成果がすぐに見えずとも、日々地域での活動を続けていく覚悟である。
【大牟田市の石炭関連主要指標】
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