1. 神奈川の水資源開発の歴史
(1) 東海道筋を遠くはずれた一寒村にすぎなかった横浜は、安政5年(1858年)に結ばれた日米修好通商条約によって、翌安政6年から自由貿易港としてめざましく発展した。横浜が貿易中心として発展するのに伴って、人口も急増し、その最大の悩みは、飲料水の問題であった。当初、その水源を多摩川に求め木桶水道布設し、横浜中心部(関内)に通水したものの(明治6年12月)、木桶であるため、維持、経営上の困難性から破損がますますひどく明治14、15年の頃にはまったく水道施設としての形すら失うに至った。
しかしこのような中でも横浜の人口は増加の一途をたどり、初めて水源を相模川(津久井)に求め明治20年10月に給水を開始し、我が国初の近代水道が始まり、横浜水道が発足した。このことにより神奈川における相模川水系における水源開発がスタートすることになった。
(2) 蘆溝橋事件以後の軍需景気により、京浜工業地帯は活況を帯び、電力不足と横浜・川崎の急速な発展から水道用水の需要が急増し、水力発電による出力、水道水の水源については、相模川以外に期待できる河川は考えられなかった。また、一方では、昭和13年のはじめに、戦時体制の強化に伴って、あらゆる面において、国家統制が強化され、その重要な一環として、電力国家管理が実現する気配となった。そのことは、県が発電事業を新たに行うことができなくなるだけでなく相模川の水源開発も不可能となることから、県は、昭和13年1月臨時県会を開いて相模川の治水統制事業を決定した。戦中戦後の苛酷な条件のもと、相模ダムを完成(S24年)し、2発電所を稼働させ新たな水源144万m3/日を確保した。県内水道事業体(県・横浜・川崎・東京分水)への給水だけでなく、2,700haの畑地かんがい事業の実現、洪水調節によって、下流地域の被害の軽減に役立つことになった。
(3) 神奈川県は、昭和34年に30年代からの急激な人口の増加、高度成長期における水需要の増加に対応するため水資源に関する総合計画を策定することになった。この総合計画において、水問題の解決策として、相模ダムの下流に城山ダムを建設し、合わせて下流の寒川町に取水施設を建設し、県及び横浜市、川崎市、横須賀市の水道水源にあてるとともに、発電事業並びに洪水調整など、広範囲にわたる河川の総合開発事業であった。昭和36年11月に城山ダム建設工事が開始され昭和40年5月27日に全面湛水となり、この事業によって取水量は毎秒最大15m3となった。
(4) 膨大な費用を投じて完成した相模川総合開発事業における水需要の見通しは16年後の昭和50年まで対応できるものであった。
しかし、30年代後半の水需要の趨勢は想像を絶するほど急伸し、そのため、酒匂川が新規水源として着目された。
(5) 酒匂川のダム完成までの年月を考えると、水需要が保有水源を上回る結果が明らかになったため、相模川総合開発事業に定められた寒川取水堰下流への責任放流量12m3/sを取水しようとする相模川高度利用事業が計画されるに至った。
この事業は、県と横浜市、横須賀市の3者の共同事業で、昭和44年度から3ヵ年継続事業として実施され、昭和47年3月30日に完成した。
これにより酒匂川開発事業計画が完成するまでの間、神奈川県は当時比較的安定した水給水をすることができた。
しかし、この事業は前例のない河川維持用水12m3/sを全量取水するというものであり、水利使用については、昭和52年3月31日までとなっていた。県は、この暫定水利権更新の手続きを再三にわたり建設省と協議したものの、河川維持用水を緊急的に上水に転用したものであり、河川の復元が大きな課題となり、暫定水利権の更新に労力を要した。そして、建設省に対し、新たな水源措置である宮ヶ瀬ダム建設事業に対し、県としても鋭意努力することを文書に明記し、期限ギリギリの昭和52年3月31日に、第1回目の水利権の更新が受理された。
このことによって、当時建設省が計画した宮ヶ瀬ダム建設への県としての関わりが始まることになった。
(6) 特定多目的ダム法(昭和32年4月1日施行)に基づき、建設大臣が建設するダムについては、ダム建設に関する基本計画策定にあたり、当該都道府県議会の議決を経た当該都道府県知事の意見を聞かなければならないとされている。
建設省は昭和53年8月29日、特定多目的ダム法に基づき、神奈川県知事に意見聴取を行った。これを受けた知事は同年9月20日、9月定例議会に同意する旨の議案を提出し、同年10月11日に県議会はこれを議決、知事は10月18日、建設大臣に同意の回答をした。
同年12月4日、建設省は、同基本計画を公示し、ここに宮ヶ瀬ダム計画は正式に確定をみるに至った。
2. 水資源研究会の発足と活動
(1) 宮ヶ瀬ダム建設事業が着々と進み仮排水路の完成が近づく中、1985年12月9日(昭和60年)、自治労県本部は、全水道神奈川県本部、自治研センター、社会党県議団とともに「水資源研究会」を設立した。当時、水需要の純化に伴って宮ヶ瀬ダム建設に疑問視する向きもあり、また、宮ヶ瀬ダム完成後の相模湖、津久井湖との総合運用のあり方に、神奈川県内広域水道企業団が利水者となることに伴って各水道事業体への受水費高騰による水道料金の大幅な値上げなど、多くの不安要素を共通認識としながら、調査・研究活動を進めた。
(2) 1988年3月以降、水資源研究会は、①水道料金問題、②3湖の総合運用(相模湖・津久井湖・宮ヶ瀬ダムを導水路で結び水運用をする)、③相模川高度利用事業の水利権の3課題を中心に県水資源対策等をはじめ、企業団を含む各水道事業体との交渉を精力的に行った。
特に、相模川高度利用事業の水利権(12m3/s)については、水利使用規則4条2項に取水の条件として「安定した取水量を確保するために必要な水源措置を講じなければならない」ことが明記されており、建設省の考えは、高度利用分は暫定水利権、それに代わる水源措置が宮ヶ瀬ダムであることが改めて明らかになった。このことによって、水量的に宮ヶ瀬ダムが完成後の水利権は、新たな水源措置15m3/sプラス高度利用12m3/s=27m3/sでなく、水源措置がなされたので高度利用分が削られて15-12=3m3/sで十分という試算が建設省の見解として県水資源対策室から示された。
言いかえれば、3m3/sの水利権を生み出すために、莫大な公共事業である宮ヶ瀬ダムを建設し、水道水として取水するために相模大堰、浄水場を建設するという国主導の水管理が行われる結果が明らかになった。
(3) これらの交渉を通して、課題が明らかになるにつれ、当時の水資源研究会を構成する労働組合からは当然のことではあるが、「宮ヶ瀬なんて良いところは何もない、まさに踏んだり蹴ったりではないか」と呆れるやら怒りが素直に言われた。まして、宮ヶ瀬ダム完成後において高度利用による水利権すらあやぶまれる中で各事業体の浄水場の存続すら危惧され始めている状況であった。
宮ヶ瀬建設事業は、建設省主導のもと保守県政時代から計画され、長洲革新県政1期目の昭和58年の県議会で同意した。保守県政時代、当時の社会党県議団は、第三次全国総合計画にもとづく過大な水需要予測から宮ヶ瀬ダム建設に対し否定的な意見が多数を占めていた。
相模川高度利用は前述したとおり河川維持用水12m3/sの全量取水という前例のない水利用のため「水利用者は安定した取水量を確保するため、相模川高度利用事業において必要な水源措置を講じなければければならない」という水利用規則の中で、厳しい条件が設定され許可期限も昭和52年3月31日までとなっていた。
こうした切迫した厳しい状況の中で、長洲革新知事が、宮ヶ瀬ダム建設事業を決断し、社会党をはじめとする政党会派も長洲知事を支持する立場から高度の政治判断をし議会で同意をしたものと思われる。
また、戦後初の革新知事を誕生させた昭和50年初頭の労働組合も、宮ヶ瀬ダム建設完成後の将来課題を危惧しつつも、ダム建設に対する方針を明確にせず、結果的に「消極的な賛成」とし、県当局の主張を否定出来なかった労働組合にも責任はあるが、当時の複雑な政治状況の中でその責任を問うことは出来ない。
また、3m3/sの新たな水利権のために、宮ヶ瀬ダム建設については、県民の理解を得ることは出来ないという県当局の危機意識もあり、当時は情報公開にもとづいた行政側の説明責任すら確立されていなかった。この「水資源研究会」の最大の成果は、高度利用の水利権が暫定水利権であったことと、新たな水源措置が義務付けられていたことを明らかにさせたことである。
その後、水資源研究会は1988年10月に調査・研究活動の経過を冊子として集約し、次項の「相模湖・津久井湖等の水質保全を進める連絡会」へと活動を継承させた。
3. 「相模湖・津久井湖等の水質保全を進める連絡会」の結成
(1) 前章で述べたとおり、「水資源研究会」が宮ヶ瀬ダム建設における調査・研究活動を通じてダム完成後の水道用水受水に伴なう水道料金、高度利用の暫定水利権(毎年更新)、3湖の総合運用、取水堰建設に伴なう課題、既設稼働している2浄水場の存続などの課題が明らかになった。しかし、将来にわたる不安や課題の解決手法を見出せない状況の中で、県内の水道労働組合は、着々と建設が進む宮ヶ瀬ダムを悶々とした思いで見つめるしかなすすべはなかった。そうした中で、相模川上流域(山梨県道志村)にゴルフ場建設の計画が出され、全水道神奈川県支部は、ゴルフ場建設に伴なう水源地域における環境破壊、農薬散布による水質への悪影響を懸念し、いちはやく反対運動を展開し、その後自治労県本部もゴルフ場建設反対運動に参加した。この建設が、大きな産業基盤のない緑豊かな村を地域振興か環境保全を優先するのか、村を二分するまでに発展し、村長選挙にまでおよび最終的に開発業者がゴルフ場建設を断念し終息した。
私たちは、この運動を通じ、水道水源の環境保全を視点としてとらえた場合、県域を越えた上流・下流の連携と相互理解、分水嶺から脈々と流れる河川を流域単位でとらえ、流域自治体の総合的な環境保全対策が必要であるということを痛感した。
(2) ゴルフ場建設反対運動後、相模川流域(同じ河川であるが、山梨県側は桂川)の水質保全に県内水道労働組合が中心となって取り組もうという気運となった。
宮ヶ瀬ダム完成後の課題もあるが、当面、相模川上流の相模湖・津久井湖の水質保全対策にむけた運動を構築することとして、1992年10月、自治労神奈川県本部、全水道神奈川県支部、自治研センター、津久井地区労(神奈川県津久井郡4町)、社会党県本部による「相模湖・津久井湖等の水質保全を進める連絡会」(以下水質保全連絡会)を発足させた。
(3) 県民の水ガメである津久井湖・相模湖は富栄養化が進み、とりわけ夏場には、アオコ・アナベナが異常発生し、水道水に様々な悪影響を及ぼしていた。水質保全連絡会は、学習と現地調査活動を積み上げ、水質保全対策にむけた事業の実施、上流域の水源涵養林の保全、農業集落排水事業及び合併浄化槽の積極的な推進等を柱とする要請書を神奈川県、山梨県、厚生省、環境庁に提出し改善を求めた。
神奈川県も同時期に相模湖・津久井湖の総合保全対策事業の検討を開始し、翌1993年度(平成5年)から、27年間にわたり総額720億円の保全事業を展開することを決定した。
4. 相模大堰の建設と市民運動
(1) 神奈川県内広域水道企業団(以下水道企業団)は、宮ヶ瀬ダム建設で生み出される水の取水地点を、河口から12km地点にある海老名市社家とし、1990年(平成2年)10月に相模取水施設建設事業環境影響予測評価書(案)を県に提出した。県は、学識者で構成された県環境影響評価審査会に諮問し、この答申を受けて水道企業団は、1993年8月に、環境影響予測評価書を取りまとめ県に提出して、1994年4月、河川区域以外の付帯工事に着手した。
(2) カヌー愛好グループである相模川キャンプインシンポジウム(代表岡田一慶氏)は、相模大堰建設に伴って、当初絶滅が危惧されている動植物への影響から水道企業団に対し、建設工事中止を申し入れるとともに、建設反対の運動をはじめた。
こうした建設反対運動を取り組む中で、相模川キャンプインシンポジウムは宮ヶ瀬ダムの必要性と開発水量15m3/sへの疑問、過大な水需要予測、巨額な事業費の県民負担等の問題を、県・水道企業団に対し提起して、県・県水道企業団・市民団体による相模大堰円卓会議がはじまった。
円卓会議は、1995年11月12日に第1回目の会議が開催され1999年までの間に40数回開催され、その記録も2,000ページ(A-4判)にも及び、膨大な議事録として記録され、インターネットを通じて公開されている。
4年間にわたり円卓会議が開催されたものの、話合いは平行線をたどり、1999年7月に終了し、その間、円卓会議での合意のない中で相模大堰建設事業は着々と進み、Ⅰ期工事はすでに完成し、日量522,000m3の給水が可能となった。
相模川キャンプインシンポジウムは、多くの県民にこの相模大堰建設の問題を浮き彫りにするために横浜地裁に対し、相模大堰差し止め訴訟をおこし、現在、係争中であり、今年11月15日、13時から判決が言い渡される。
(3) 円卓会議が開始されて間もない頃、相模川キャンプインシンポジウム岡田一慶氏から県内水道労働組合で構成している「水質保全連絡会」に対して共闘の要請があった。宮ヶ瀬ダム・相模大堰についての経過、状況、情報を最も把握できる立場は当局を除けば、県内の水道労働組合であり、苦しい判断を迫られた。各水道事業体職員が水需要予測、宮ヶ瀬受水を前提にした送配水管等の施設整備、水道企業団職員も相模大堰建設事業、県・各水道事業体・市民団体への対応など、職員であり多くの組合員がこの事業にたずさわってきた現実、それ以前の宮ヶ瀬ダム建設に対する「消極的な賛成」、「やむなし」の判断をした各産別・単組の決断から宮ヶ瀬ダム・相模大堰を否定する立場になりえず、相模川キャンプインシンポジウムの共闘を組織的な対応として断った。
円卓会議は、中立的な立場で裁定する者が存在せず、激しい議論が平行線をたどり合意出来たものは何らなかった。先日、岡田氏にお会いしたとき、当時の組合の対応に対して、「あの時は苦しかった。」との一言が今だに心から離れることはない。宮ヶ瀬ダム建設の取り組む時期の違いもあり、10年のタイムラグがなければ、宮ヶ瀬ダムは別にしても相模大堰は別の展開があったかもしれない。
国による水管理、水源開発に対して透明性と情報公開を改めて追及したくなる心中である。
5. 「水は公共のもの」-水の流域管理にむけて-
(1) 1992年神奈川県は、全庁的な組織として「相模湖・津久井湖総合保全対策推進協議会」を設置し、翌年度から「相模湖・津久井湖総合保全対策事業」を実施した。相模湖に流入する水量の90%は、上流域である山梨県からの流入であり、水質保全においては、山梨県の協力が不可欠となり、そのため両県の水質保全担当課による山梨県・神奈川県水質保全連絡会議が設置され、県域を越えた水質保全の協議がスタートした。
その後、山梨県は知事の交替もあって「環境首都・山梨」を宣言し、「環境首都憲章」を策定して、下流域の相模湖・津久井が神奈川県民の水がめであることに配慮した広域的な水環境保全の政策を打ち出したことは、特筆すべきことである。
こうした両県行政による努力により、95年度からは環境庁からの補助事業として両県共同による「桂川・相模川流域環境保全推進事業」が3ヵ年事業としてスタートした。
一方、行政側の協力体制だけでなく、両県市民グループにも水質保全を求める運動も広がり、95年1月には「桂川・相模川流域ネットワーク」がつくられ、両県にまたがる県域を越えた流域・市民レベルの河川保護運動が展開されることになり、全国的にも注目を集めた。
(2) 行政・市民グループ・企業・利水事業者が中心となって、河川保全にむけて取り組む中、1997年「アジェンダ21桂川・相模川」の策定にむけた検討をすすめた。
策定された行動計画によれば、上流と下流の広範な関係者は
① 協力して良好な森林づくり、生物の多様性を育む森林づくりを進めていきます。
② 水質汚濁の軽減に努めるとともに、節水型社会をめざし、将来にわたって清く豊かな桂川・相模川を保全します。
③ 散乱ごみや不法投棄のない地域づくりをめざします。
④ 開発事業や公共事業においても環境の視点を重視していきます。
とし、具体的な議論を「桂川・相模川流域協議会」で深めることとし、両県流域25市町村、市民、事業者が協力して河川保全事業を進める方向性が整理された。
『古き昔から桂川・相模川の恩恵を一身に受け、また悠久の財産として21世紀に引き継ぐ責務をもつ私たち流域住民は、私たちの子孫や、すべての生物が、この川の恵みを公平に受けられるよう、失われつつある環境を守り、失われた環境を回復するために行動します。その具体的な行動計画であるアジェンダ21桂川・相模川を、立場や居住地域の違いを越えて協働して策定し、推進していきます。』 アジェンダ21桂川・相模川<はじめに>より。
(3) 日本の水行政は、水源開発、供給施設の整備、治山・治水対策、森林の保全・整備等の水源保全対策、水質保全対策、地下水利用の適正化、雑用水利用の促進等の諸施策が個別的かつ競合的に展開されているため、水に関する資源管理と環境管理が適切に行われていない現状にある。
水は絶えず循環しており、水循環への負荷を最小化する地域づくりや、流域住民が、地下水を含むあらゆる水を「公共のもの」とした概念を定め、地域の自己決定・自己責任による流域管理を可能とする水法の制定が求められている。
神奈川における、宮ヶ瀬ダム建設においては、建設を是とする建設省主導のもと水源開発が強行に進められた。前述したとおり、新たな水源措置をしなければ、高度利用の水利権を認めないとする国の傲慢な姿勢に苦悩し、建設に合意せざるを得なかった県の切迫した状況、建設がすすむにつれ明らかになった暫定水利権、3湖運用、水道料金問題、相模大堰建設に伴なう環境にあたえる影響、そして、結果的に3m3/sの水利権を生み出すために9,300億円(96年改定)の巨額の投資をした水源開発となったという事実……。
日本における水行政が住民参加のもとに公正・透明性を確立し、ダム完成後の課題を開発計画時点で明らかにしていた場合、県民がどちらを選択するかは明らかである。 |