■はじめに
主に知的障害のある人たちと共に歩んで約30年、いまやっと人権の尊重と福祉の充実はまったく重なっていることが分かりかけてきた。
入所型施設での勤務が10年、知的障害のある人たちとの共働事業を始めて20年、私自身その間いくつもの人権侵害を侵してきた。共働だとか共生だとかそんな日や時間はほんの僅かで、思い返せば本当に申し訳ない毎日であった。
人が人らしく生きていくためには、形式的なつきあいでなく本音・生身でのせめぎあいが必要だと、彼らと厳しく対峙した。あてがいぶちの福祉は差別の補完でしかないと、作業所補助金も申請せず会社法人とした。
しかし現実的には、機能・能力障害故に社会的不利な状態の彼らとの力関係は明らかであった。一部一瞬のせめぎあいもあったが、殆ど私たち健常者が抑圧的であった。
分かりかけてきたなんていうこの今でさえ、追いつめられてくるとやっぱり彼らにもつらくあたってしまう。
あるべき関係とあるべき社会の姿はなんとなく見え始めたが、現実となるとやっぱり差別的な日常の連続である。
すべての人、その一人ひとりのゆとり・豊かさこそが、まさに人権尊重と福祉の充実につながると、そこまではわかった。
ではそのゆとり・豊かさをどうつくっていくのか、個人は、家庭は、地域は、行政は、重く・深い課題ではあるが、やっぱり避けては通れない。
1. 本音と教育
(株)なんてん共働サービスの主な業務は清掃である。建物内外の衛生的環境の確保に努力し、生計をたてている。近年やっと産業分類にも位置づけられ、それなりの社会的役割も評価を得つつある。従業者もまだまだ充分ではないが、研修・教育を重ね総合的な品質向上にも前向きに取り組んでいる。
もちろんわが社だけでなく、各事業所はもとより県協会もこぞって業界のレベルアップに力を注いでいる。社会的な評価を上げることこそが、不安定な経営からの脱却であり、まさしくゆとり・豊かさに通じる道であることを共通の認識としているからである。
しかし人権の視点からいえば、私たちの努力をあざ笑うかのように、本音の社会は冷たい。清掃業にはあやしい関係の人が多い、やっぱりガラが悪い、品がない、荒っぽい、だらしない……そんな話しが、忘れた頃に耳にはいる。
こんな話しは、ひがみでもコンプレックスでも被害妄想でもなんでもない。
つい先日わが社の面接(事務)にこられたKさん(女性)から、3日後にお断りの電話があった。主人は説得できたが、やっぱり義理の父母がどうしても許してくれないという。
「(なんてんは)国立大学卒という学歴に合うところではない」と言われていますので、説得できるかどうか……と面接の時に正直に語ってくれた彼女の話に怒りも湧かなかった。
田舎であれ町場であれ、地域社会の現状(本音)は残念だがこのレベルである。
本気で人を認めること(人権の尊重)の難しさと、改めて全人教育(人権教育)の大事を感じている。
家庭や学校や地域社会で、本音を出し合いながらの徹底した議論と実践、そして検証が望まれる。形式的な人権教育では、なかなか壁は超えられない。
学校や地域や職場での人権教育は、確かに一定の役割をはたした。しかし正直に言えば、現在は形骸化の部分が大きい。
弱いところや醜いところ、劣っているところも含めて、トータルとして相手をどう認めるのか、そんな中味のある人同士でありたい。そのためには他人任せではなく、一人ひとりが自分自身の本音も出しながら、互いに学んでいかなければならない。
2. 配慮と特別
弱いところや醜いところ、劣っているところ、これは人と人を比べた結果である。
比べることが悪いことではない。強いところや美しいところや勝っていることが悪いとも思わない。しかし弱いところや醜いところ、劣っているところを認めないとなると話しは違う。
例えによく使うが、東京大学出身は悪いことではない。しかし出身のその人や、そのまわりの人がM養護学校出身のHさんを本気で認めないとすると、私もそんな彼らを認めない。
世の中には東京大学も必要だし、M養護学校も必要なのである。お互い認め合わないとなると、世の中は成り立たない。
きれいごとではなく、心底認め合うこと、違いを認め合うこと、よいところもそうでないところもトータルで認めあうためには、やっぱり一人ひとりのゆとり・豊かさが求められる。
障害という視点からすれば、たしかに状態は違う。しかし全人的にみれば、全く普通の人である。障害はあるが、特別の人ではない。地域で生活を始めた知的障害のある人たちとの生活の中から、そのことが実感出来始めた。
例えばK君、ダウン症という障害のために、日常生活や就労にも差し障りはある。しかし適切な援助(配慮)さえあれば、完全とは言い難いが、ふつうの暮らしとふつうの働きは可能である。そしてその暮らしと働きのなかで、ふつうの青年であることが証明され始めた。
朝寝坊もするし、暴飲暴食もする、夜遅くまでHなビデオもみる。仕事でもずる休みもするし、見てなければ手も抜く、やれてないことまで「やった、終わった」とウソもつく。
障害者は純粋で素直で心美しい、なんていう決めつけ(特別視)がいかに間違っているのか、少なくとも私が係わる16名の人たちの地域生活をみれば明らかである。
個人の障害に即した援助(配慮)は常に必要であるが、ことさらにそれを特別視すべきではない。まさしく障害もその人の中味のひとつであり、言い換えればそのひとの個性でもある。
違うことこそ万歳! 先にこの前提があれば、意外と相手がよく見えるようになるし、また許せるようになる。
3. 接する・つき合う
違うことこそ万歳と、実感をもって言えるようになるには、随分と時間がかかった。
そしてまだ充分とは言えないが、障害のある人たち一人ひとりを人として認められるに一番必要なことも分かってきた。
時間をかけたつきあいである。なんだそんなことかと思うが、現在はそれができない社会になってしまっている。しかも日常的にかつ必然性をもって、障害のある人たちとつきあいをすることは、みんながみんなは出来ない。
特に福祉という枠でくくられてしまった結果、本来人が人らしく生きることの保障であるはずなのに、実際は本人にとって決して好ましい状態とは言えなくなってしまっている。
障害児教育や福祉の名のもと、学齢期の一番大事な時に、友達や地域から、時には家族からも切り離されて養護学校や施設に追いやられる。逆に家族から離れ、社会での活動が求められる青年期には、「地域に返す」という言い方で、作業所という限定した受け皿しかない地域と家族のもとに戻される。
非日常のつきあい(行事や交流会)すら限られているこんな地域社会で、生身のつきあいができる人は限られている。違うことこそ万歳は、本音のつきあいなしには得られないのにである。
どうかもう一人ずつ会社や工場や役所や商店に、障害のある人たちの就労を確保していただきたい。利害関係が明確で、障害者も決して甘えておれない、健常者もきれいごとだけではすまされない、そんな事業所で障害のあるひとたちも健常者も育っていく。
間違いなく双方ともに、ゆとりや豊かさの獲得の一歩となる。
4. 支援のありかた(職住分離)
知的障害者の一般就労の場であったサングループという肩パット製造会社で、年金横領と暴行虐待があったとの告発が行われた。現在進行中の裁判は主にそこの経営者と、雇用に係わった行政が被告で、主に事実関係についてのやりとりが行われている。
この裁判や関連の活動のなかでこの事件の本質と背景、さらにはその対策にまで論議が及ぶかどうかはまだわからない。そこでほんの一端ではあるが、この事件を参考に権利侵害の背景と今後の権利擁護について考えてみたい。
3.で知的障害者の就労保障の必要性を述べた。そのことは当事者の就労確保だけでなく、一緒に働く人たちのゆとり・豊かさ獲得にもつながるし、周辺で就労を支える人たちの実りにもつながる。またさらに広く見れば、人権と福祉のまちづくりにもつながっていく。
はずなのに何故この事件は起きてしまったのだろうか。
おそらくこの経営者も最初から、横領や虐待を意図したわけではないだろう。その経営者の前の職場は県内でも有数の事業所であり、職場内での人権教育や障害者理解についても研修を受けていたはずである。ただその研修によって人権の何たるかを、自分のものとして理解してたかどうかは疑わしい。
形式的な人権教育・研修は、歪んだ障害者理解に進む危険性が大きい。障害はかわいそうなもので、就労を望む障害者を使ってやっているという意織や、効率も悪くなかなか成果の上らない障害者は、低賃金で充分だとか、知的障害者は体に叩き込まねばわからないといった間違いになりかねない。
障害はあっても職場では確固とした労働者であり、生活の場面では個性・人格をもった個人であるという理解が充分でないままに事業を開始してしまい、せっかくの一般就労の場が、まるで反対の結果を招いてしまったのである。
そんな人権感覚の薄さに加えて、障害者雇用に係る相当な負担もその原因にあげられよう。障害者雇用によって手に入る助成金に気がいって、健常な従業員はわずかでその殆どが障害のある人であったというからなおさらである。
経営者の負担軽減と、権利侵害のチェック役をもはたす健常従業員がつぎつぎとやめられた段階で、その異常さに気づかなかった労働行政の怠りも一因である。
また障害者の一般就労の場合、職業生活指導の名目のもとアフター5や休日支援までをも雇用側におっかぶさせている福祉行政にも責任がある。365日・24時間の支援は雇用側の負担にもなるし、また障害者の権利を守ることにもならない。健常者だったら、職場内の利害関係(人間関係)をプライベートな時間・空間まで持ち込んで、だれが黙っているだろうか。
職場内支援(雇用支援)と地域生活支援、制度(行政)による公的支援と住民参加によるボランタリーな支援の整理と、分担した実践が急がれる。
■おわりに
すべての人が住み慣れたところで、人らしく、人の中で生きていけるように支え合うこと、これがまちづくりであり福祉の営みであると信じている。
人それぞれの違いを認めあうこと、障害だって個性なんだと認めること、多数が正で少数が負でなく、多数と少数が認め合うことが人権の尊重であり、それをベースに行われる相互支援が共働・共生であると言える。
福祉の充実とは、まさに人権尊重への取り組みそのものである。
この3月にスタートしたばかりで利用者はまだ数少ないが、宅老所「共生舎なんてん」ではもはやいくつかのうれしい出来事があった。
受けてから担い手へのスローガンのもと、障害のある人たちの宅老所スタッフとしての参加が、痴呆の症状のある高齢者の生活に効果をあげ始めている。
また知的障害のある人たちの地域生活の援助に、シルバー人材センターさんや住民有志の方々が参加していただき相互理解が進み始めている。
住民主導のふれあい広場の輪が拡がり、そのつきあいも非日常から日常へと進みつつある。
そんな取り組みから生まれ始めている、地域住民と障害のある人たちとの生き生きとした関係をもっともっと拡げ、深めていきたい。うそくさい交流でなく、本気で泣き笑いできる関係が人のゆとりや豊かさをつくっていく。
共生舎なんてん事業概要
1. 訪問介護事業(介護保険法内・ホームヘルプサービス) 開始予定はH12年4月1日
理 念 地域で暮らし・ゆとりの暮らし・笑顔のくらし!
目 的 在宅生活・自立生活・寝たきり防止支援
内 容 家事援助・身体介護・介護指導
場 所 甲賀郡石部町石部東三丁目1番5号
連 絡 TEL 0748-77-8346 FAX 77-8350
従 事 者 介護福祉士2名・2級ヘルパー8名
日 時 毎日・朝6時から夜10時まで
利用区域 石部・栗東・甲西
利 用 者 要支援・要介護者
利 用
料 介護報酬額は告示(国)による単価
連携機関 石部町在宅介護支援センター・石部医療センター
(予定) 小川診療所・石部ディケアセンター・富永歯科医院
2. 地域宅老事業(介護保険法外・地域サロン) 開始はH12年3月1日
理 念 住み慣れたところで、馴染みの人と・やりたいことを!
目 的 夢づくり・元気づくり・まちづくり
内 容 読書・音楽・談笑・菜園・園芸・調理・悠揚・外出・相談
場 所 甲賀郡石部町石部東三丁目1番5号
連 絡 TEL 0748-77-8346 FAX 77-8350
従 事
者 介護福祉士1名・2級ヘルパー2名・地域ボランティア
日 時 火曜日を除く毎日(ただし1/1~1/3は休み)朝7時から夕方7時まで
利用区域 石部
利用予想者 自立者・要支援者・軽度の要介護者
利 用 料 9:00~15:00で3,000円
追加時間は別途・食費・入浴代は別途・送迎あり
連携機関 石部町在宅介護支援センター・石部医療センター
(予定) 小川診療所・石部ディケアセンター・富永歯科医院
3. 痴呆対応型共同生活介護事業(介護保険法内・グループホーム) 開始はH13年4月頃の予定
理 念 ゆっくり・いっしょに・たのしく!
目 的 地域での共同生活支援・軽度痴呆者の生活リハビリ
内 容 読書・音楽・談笑・菜園・園芸・調理・悠揚・外出・相談
場 所 甲賀郡石部町石部東三丁目1番5号
連 絡 TEL 0748-77-8346 FAX 77-8350
従 事
者 介護福祉士1名・2級ヘルパー3名
日 時 毎日・終日
利用区域 石部・栗東・甲西
利用予想者 毎日平均5名
利 用
料 介護報酬額は告示(国)による単価
連携機関 石部町在宅介護支援センター・石部医療センター
(予定) 小川診療所・石部デイケアセンター・富永歯科医院
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