1970年代頃は、休日夜間の急患の患者に備えて、救急告示病院を取得していない自治体病院の事務職員にも宿日直がありました。宿日直の時に、夜中に緊急で運ばれてくる患者の容態と待機している医師の専門が合わない場合には、病院職員自らが、診察してもらえる他の病院を何軒も電話で探し回るということが毎晩のように行われていました。そのうちに、これは医師やスタッフの個人的努力ではどうにもならないという声が大きくなり、自治労が全国の病院で同じようにこうした努力をしている人たちを集め、会議がもたれるようになりました。また当時は、全国的に救急病院のたらい回しが頻繁に起こっており、社会問題化していました。
このようななかで、1976年(昭和51年)6月、千葉県木更津市で自動車事故にあつた青年が25軒の病院をたらい回しになったあげく、亡くなるという事件が起こりました。
「これは運が悪いとか、やむを得なかったということではない。行政が医療受け入れ態勢をきちんと整備すれば防げたし、防がなければいけない」ということで、自治労がこれを取り上げ、翌年、亡くなった青年の両親が国、県、病院を相手取って訴訟を起こしました。その父親が福岡県の職員組合の組合員だったこともあり、自治労本部及び自治労衛生医療評議会が中心となり、訴訟の支援と政府に受け入れ体制をつくらせるための運動を進め、署名やキャンペーンに取り組みました。これが当時、大きな問題意識を全国に投げかけ、マスコミも大々的に取り上げました。
すると当時の厚生省も、ついにこれに対して改善しなければならないということになり、その結果できたのが、第一次~第三次の救急医療体制です。第一次救急というのは、休日夜間診療所で、第二次救急は、手術や入院が必要な場合に対応ができる救急体制です。第三次救急は、命を争う場合や、非常に高度な治療を要する場合に対応できる救急体制です。これを都道府県単位でつくることを制度化し、今日に至っているのです。
そして、整備が急速に進んだため、訴訟は取り下げられました。自治労のこの運動が世論を喚起させ、私たちが生きていくうえで必要な社会の仕組みをつくっていくことを実現させていったのです。 |